第176話 逆恨みと暗い目の男
「あの金髪娘の家を教えろ。あんた、知っているんだろう?」
遠藤のその言葉に、思わず山田は冷や汗が出る思いだった。
そしてまさか彼が冗談を言っているのかも知れないと思うとその真意を確かめるように遠藤の顔を覗き込む。
「……それって冗談で言ってるんだよね? まさか弁護士が事件の被害者の自宅を教えられるわけがないだろう?」
「ふんっ、俺はいつだって本気だ。それに被害者だって? 何を言っているんだ、被害者は俺の方だろう、違うのか?」
無精ひげが目立つ顔に暗い瞳を光らせながら話す遠藤の顔に笑みは無く、それは彼の言葉が本心であることを物語っていた。
「いや、被害者って…… そもそも幼気な女子高生に痴漢行為を働いたのは、遠藤さん、あんただろう? それを自分が被害者だなんて…… あんた一年二ヵ月も刑務所で何を反省して来たんだい?」
あまりに勘違いした口ぶりに少々イラっとしながらその発言を否定すると、遠藤はそれまでの暗く沈んだ雰囲気をかなぐり捨てて突然大きな声を上げ始める。
「なんだと!? くそぅ、どいつもこいつも俺の事を悪者にしやがって!! 俺はあんただけは味方だと思っていたんだぞ!! 嫁に逃げられ、娘には絶縁された俺の気持ちがわかるのか!?」
「ちょ、ちょっと、遠藤さん、落ち着きなさいって」
「うるさい!! これが落ち着いていられるか!! 然も触って下さいと言わんばかりに短いスカートを穿いていたから、俺はその意思を汲んでやったんだ!! 俺はあの娘の希望を叶えてやったんだぞ!!」
「お、おい、少し声を下げなさいって」
「それを全て俺が悪いみたいに言いやがって…… 俺は本当なら今頃会社の重役になっていたんだ!! 将来を約束されていた俺が、たかが小娘の尻を少し触ってやったくらいでこの仕打ちか!? おかしいだろう!? そうは思わないのか? おい、山田!!」
「……」
「おい、俺の言うことが聞けないのか!? お前は俺に恩があるんじゃないのか? いまお前がこの事務所を率いているのも、全部俺のおかげだろう!? それをわかってて俺を拒絶するのか!? 山田!!」
山田の事務所に盛大な濁声が響き渡っている。
何事かと何人ものスタッフが応接室の中を覗き込んでくる姿を眺めながら、そうだ、この男はそういう人間だったのだと山田は思い出していた。
元々山田は若い頃からずっと安月給の雇われ弁護士だったのだが、念願叶って独立し、やっと自分の事務所を構えた時に偶然依頼を持ち込んで来た遠藤に気に入られたのだった。
妙に山田を気に入った遠藤は、自分の会社内での立場とコネを使って本社の法務部に話をねじ込むと、山田の弁護士事務所を自分のいる支社の専属事務所として契約した。
大口の法人契約を得た山田の事務所はその後瞬く間に大きくなり、今では弁護士五名の他に事務員などを二十名近く雇う中堅どころとして業界内でも名を知られるようになっていた。
彼にとってはそれほどに恩のある遠藤ではあったのだが、会社内での役職が上がるにつれて益々尊大になっていく態度と人を見下すような不遜な物言いは徐々に目に余るようになっていたのだ。
だから本当は彼の痴漢事件の弁護は引き受けたくなかったし、そもそも負けるとわかっている裁判を引き受けること自体が自分の事務所の看板に傷をつける行為なので、やはり断るべきだったと未だに後悔していた。
だから遠藤が会社をクビになって刑務所に収監された時、これで彼との関係を絶つ事が出来ると思うと実はホッとしていたのだ。
それが出所して来るなり自分を尋ねて来た挙句に被害者の自宅を教えろなど、その行為に山田は呆れを通り越して怒りさえ憶えていたのだった。
「遠藤さん、確かに私はあなたに恩がありますよ。それも返し切れないほどの大きな恩をね。でもさすがにそれだけは教えられないね。事件被害者の連絡先なんて弁護士の名に懸けて絶対に教えないよ。これは弁護士としての矜持の問題だ」
「山田ぁ…… お前誰にものを言っているのかわかっているのか?」
「……申し訳ありませんが遠藤さん、今のあなたは何者でもありませんよ。ただの痴漢の前科者で無職の独身でしかない。もう少しご自身の事を客観的に眺めてみる事をお勧めしますね。それが出来なければ、何処の誰にも受け入れられることはないでしょう。もちろん再就職など夢のまた夢ですね」
これ以上この男に気を遣っても、得るものも失うものも無いと判断した山田の言葉は険しくなり、それまではまだ上辺だけでも繕っていた彼の態度が急変してまるで遠藤を煽るようになっていく。
その言葉にまんまと乗せられた遠藤の顔は、激高のあまり赤を通り越してどす黒くなっていった。
「ぐぬぬぬ……!! くそぅ、山田ぁ!! お前!!」
「言っておきますが遠藤さん、ここで暴れでもしたら速攻で警察を呼びますよ。また刑務所に逆戻りがしたいんですか? もう少し冷静になった方がよろしいんじゃありませんか?」
慇懃無礼とも取れる山田の言葉を聞きながら、遂に限界を突破した遠藤は力の限り叫んでいた。
「もういい!! お前にはもう頼らん!! 俺は俺で勝手にするからな!!」
その後、事務所の扉をたたき壊す勢いで閉めていった遠藤の後姿を見つめながら、山田は弁護士の青山に急いで電話をかけるのだった。
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10月上旬。
ある日の放課後、学校終わりにバイト先のファミレス「アンアン・ミラーズ S町駅前店」に向かっていた桜子は、やや混みの電車の入り口近くで壁に背をつけて佇んでいた。電車に揺られるのは一駅だけだしその時間も12分間なので、彼女はいつも決まって同じ場所に立っているのだ。
毎日のように同じ電車の同じ場所に立っていると、さすがに何人もの乗客に顔を憶えられていたのだが、以前彼女が痴漢に襲われた事件もそれなりに知られていたし、彼女自身がずっと外を向いて話しかけるなオーラを醸しているので誰もが遠巻きにその美しい容姿を眺めるだけで満足していた。
それでも時々事情を知らない若者がナンパ目的で声をかける事はあった。
そんな時は彼女は得意のウクライナ語を炸裂させて徹底的に日本語がわからない振りをしていると、しつこくするには周りの目があり過ぎるし、これ以上どうにもならないと判断すると大抵は退散していくのだ。そしてその様子を何度も目撃している常連の乗客たちは、くすくすと小さな声で笑っているのだった。
その日、いつものようにホームの同じ場所で帰りの電車を待っている桜子の姿を、遠くからジッと見つめる者がいた。
それは背が高く少々太めの体格の暗い目をした男で、目深に被ったパーカーのフードで顔は良く見えないが袖から見える手指を見ると恐らく初老と言ってもいい年齢のように見える。
その男は離れた場所から桜子の姿をまるで目に焼き付けるように見つめているのだが、絶世の美貌を持つ彼女は普段から多くの男性に見つめられる事はあまりにも日常茶飯事すぎたので、その男が彼女のことをジッと見つめていても誰も何とも思わなかったのだ。
それはそのくらい珍しくもなんともない光景だった。
ホームに入ってきた車両に桜子が乗り込むと、その男も同じ車両のもう一つの乗降口から中へと乗り込む。
それからしばらく車両の斜め対面乗降口の近くに壁を背にして立っている彼女の姿をまたも見つめ続けると、S町で降りた彼女の後について自身もまた降りていく。最後にバイト先のファミレスに彼女が入って行くのを見届けると、その男は何処へともなく去って行ったのだった。
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「ねぇ、桜子ちゃん。あなた最近変な男につけられてない?」
弁当も食べ終わり、昼休みに数人の友人たちと教室で雑談をしていると急に琴音が話題を変えてくる。
桜子はその言葉に少し驚いたような顔をして彼女の顔を見返した。
「変な男? なにそれ?」
「あたしが直接見たわけじゃないから詳しくはわからないんだけど、隣のクラスの子が言ってたんだよ。駅のホームであなたのことをじーっと見てる変な男がいるって」
どうやら琴音は隣のクラスにいる友人からその話を聞いていたらしく、桜子に警告するつもりでその話を振ってきたようだ。その友人は桜子とは直接の知り合いではなかったが、その男の様子がとても気になったのと桜子が以前痴漢事件で散々な目にあっているのを知っていたので、共通の友人である琴音を通して知らせようとしてくれたらしい。
しかし痴漢事件以降、自分の目が届く範囲に関してはかなり神経を配っている桜子でも、さすがに遠く離れた所から自分を見つめてくる者まで一々気にしてもいられなかったし、普段から多くの人の目を集めている彼女にとって、そんな視線はあまりにも日常の風景だったのだ。
「……それ、わたしも聞いたよ。桜子ちゃんが怖がると思って言ってなかったけど、わたしもその話は知ってるよ。ごめんね、もっと早く言えばよかった」
一緒に話をしていた七海が何やら気の毒そうな顔をしている。
彼女は相変わらず低身長ロリ巨乳を地で行くスタイルを維持していて、話によると最近彼氏が出来たらしく、親友の美優が心底悔しそうに話していたのが印象的だった。
「……そ、その人ってどんな感じの人なのかな。もしそんな人が近くにいたら気をつけるようにするよ……」
友人たちから注意喚起を受けた桜子は、何やら背中に薄ら寒いものを感じながら食後のデザートの「クリームたっぷりカスタードメロンパン」を頬張っていたのだった。
友人たちが怪しい男の話題で様々な憶測を巡らしている横で、まるでその話を初めて聞いたような顔をしていた桜子だったのだが、実は先週の初めには彼女はその件で注意喚起を受けていたのだ。それは痴漢事件を担当してくれた弁護士の青山が連絡をくれたからだった。
その青山は痴漢事件の際に容疑者側弁護士だった山田から連絡を受けたもので、最近刑務所を出所した遠藤が桜子のことを逆恨みして何らかの危害を加えようとしているかもしれないという内容だったのだ。
楓子はその話を聞いて激怒した。
それもそうだろう。全く罪のない大事な一人娘に痴漢行為を働いた挙げ句に、その罪を認めるまでにも散々喚き散らしたのだ。そして刑務所で罪を償うどころか、刑期が終わって出てくれば被害者を逆恨みしているなど、そんなことが許されるはずもないではないか。この世に正義は無いのかと本気で思ってしまう。
もちろん弁護士が小林家の住所を遠藤に教えるわけもないし、あの時とは住所も変わっているのでいきなり自宅に来ることはないと思うが、それでも彼は桜子の学校を知っているので、彼女の登下校時に電車の駅などで見張られていればすぐにその所在はバレてしまうだろう。
それでも彼女が登下校する時間は周りに人間も多いのだし、それだけの目があるところで何か事を起こすとも思えない。しかし相手が前科持ちの犯罪者であることを考えると、彼が一体何をしてくるのか見当もつかなかった。
そして実際に彼が桜子を狙って来るとすれば、それは彼女が一日で唯一一人になる時間、つまりアルバイト先のファミレスから自宅に帰る二十分間である可能性が一番高く、しばらくその時間は彼女を一人にさせられないと思う楓子だった。