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第175話 確かめられなかった想い

「……ねぇ、お願いがあるの…… もう平気かどうか試してみたくて…… 触ってほしいの……」


 その言葉に健斗の最後の理性は崩壊し、先ほどの桜子とのキスの流れからすっかり興奮してしまっていた彼は、やおら姿勢を正すと正面から彼女に向かい合う。

 それからお互いの顔が良く見える位置でもう一度彼女の意思を確認した。


「い、いいのか、本当に……? 途中で怖くなったらすぐに言うんだぞ。絶対に我慢したらダメだからな」


 何度も確認するように桜子に声をかけると、男らしくリードをするはずなのに、彼のその声はかすれて手は震え、脚はガクガクと力が入らなくなっていた。


「うん、わかった。もしも怖くなったら今日は我慢しないですぐに言うね…… っていうか、もう別の意味で怖くなって来ちゃったけどね……エへへへ……」


 そう言って無理に微笑む桜子の顔は若干強張っていて、その様子からも彼女がとても強がっているのがわかる。しかしその強がりは自身のPTSDの発作よりも、初めて恋人に身を委ねる未知の体験に対するものの方が大きく、それはこれまでに多くの少女たちが初めての経験として通り過ぎて行ったものと同じものだったのだ。




 向かい合う桜子の胸を見つめながら健斗はゴクリと喉を鳴らす。

 それから(おもむろ)に両手を彼女の豊満な膨らみに重ねると、再度確認するようにその目を見た。


「いいかい? それじゃあ触るよ……」

 

「う、うん……」


 あまりの恥ずかしさと怖さで思わず桜子が目を逸らして横を向いていると、突然それは視界に入った。



「ただいまー!! あれ、夕食の支度はこれからなの? 今日は健斗君にご馳走するって、桜子……」


 母親の楓子の言いつけを真面目に守っていた二人は、無意識に桜子の部屋のドアを開けたままにしていた。すると前の家に比べると格段に狭いこの団地では、玄関から一直線に桜子の部屋の中が丸見えになっていたのだ。 


 玄関扉を開けて入って来た母親の目には、部屋の中で恋人が彼女の胸を鷲掴みにしようとしているところが見えて、娘はそれを恥ずかしそうに頬を染めているところだった。そしてその玄関の方を向いていた彼女と真正面から目が合った。


「お、お母さん……」


「……ちょっと、あんたたち…… 後で話があるから……いいわね?」


「あっ!!」





「……それで、あなた達は何をしていたのかしら?」


 小林家の食卓で健斗を挟んで三人で食事を始めると、それまでずっと黙っていた楓子が(おもむろ)に口を開く。

 彼女は仕事が終わって家に帰って来ると偶然若い二人の乳繰り合う姿を目撃してしまったのだが、後で話があると言ったきり食事の支度を手伝う間も一言もその件には触れなかったのだ。

 すぐに何かを言われると思って覚悟していた二人はその様子に初めは拍子抜けしたのだが、徐々に冷静になって来ると楓子のその態度がむしろ薄ら寒く感じて、内心冷や汗をかいていたのだった。


 そして待望の楽しいはずの食事が始まると、突然楓子は爆弾を投下した。



「えっと……そのぅ……実験?」


 まず桜子が額から冷たい汗を流しながら母親の質問に答え始める。

 その顔には引きつった笑いが張り付いていて、その表情からは彼女が心から笑っているのではない事はすぐにわかった。


「実験? なんの?」


 桜子の答えに即座にツッコミを入れる楓子の顔は笑っていない。むしろその顔は怒っているような、心配しているような何とも言えない複雑な表情に見えた。


「えぇと……」


 母親の迫力に桜子が完全に言い淀んでいると、その横から健斗が遠慮がちに口を挟んだ。もちろん彼は楓子のことが恐ろしかったのだが、あんな姿を見られたのには自分の責任も大きいのでここは男として彼女を庇うべきだと思ったようだ。


「さ、桜子の後遺症の確認だよ。む、胸を実際に触ったら発作が起きるかどうかを確かめようと……」


 途中で楓子の目つきが気になった彼の言葉は、後半に行くほど聞き取れなくなっていき、最後に至ってはただごにょごにょと呟いているようにしか聞こえなかった。それでもその言葉で楓子はこの二人が何をしようとしていたのかを理解したようで、次第にその顔からは固さが抜けていく。


「わかったわよ。あなた達がしたかったことは理解したけど、でもねぇ……」




 下を向いてしょぼくれる二人の姿を楓子が交互に見ながら小さなため息を吐いた。

 現在桜子のPTSDの治療は最終段階まで来ていて、今では満員電車でも身体が触れ合わない程度の混み具合であれば一人でも支障なく乗る事が出来るまでに回復していた。

 それでも実際に男性に身体を触らせて発作が起きるかどうかを確かめるわけにもいかずに、そこの部分の診断は後回しにしていたのだ。


 本来の浅野医師の治療計画では、そこの部分は健斗に協力を依頼する事になっていたのだが、桜子が難色を示したのと、恋人とはいえ他人の彼に娘の病気の治療にそこまで迷惑はかけられないという楓子の判断によってその計画自体が白紙になっていた。


 それでも浅野の計画では恋人同士の二人がいずれ自然とそういう関係になることができれば、それは治療の効果があったことの証明にもなるので、自分たちの前で無理にテストのようなことをさせるよりは、彼らの自然な成り行きに任せようということになっていたのだった。


 それで自然の成り行きに任せていた結果が、先程の光景であったというわけだ。




「……それで、健斗君は桜子の胸に触ることが出来たのかしら?」

 

「えっ!! いや、それは…… ま、まだ触ってないから……」 


 桜子自身に胸を触ってほしいと頼まれたあの時の健斗は、若干の心配を残しつつも彼女の胸を触る気満々だったし、さらにその先のあんな事やこんな事まで想像していたのも事実だった。しかしその直前で楓子に見つかってしまったために、結局は何も出来ないままに終わっていた。

 桜子の言葉の通り、言いようによっては確かにPTSD克服のテストと言えなくもなかったが、彼にとってはそれ以上の意味のある行為であったようだ。



「お、お母さん…… 恥ずかしいからもうその話は……」


「まぁ、あなたの気持ちも理解できるし、健斗君の想いも私にはわかるのよ。それにいくら後遺症の回復を確認するためとは言っても、病院の先生の前であなた達にあんな事はさせられないしね。だからさっきはちょっとタイミングが悪すぎたということで…… むしろごめんなさいね」


「そんな、お母さんが謝ることじゃあ……」


「それとも、ご飯を食べた後に仕切り直してさっきの続きをしてみる? 私の事は気にしなくてもいいから、少し試してみたら? ねぇ、健斗君」



 それまで黙って小林親子の会話を聞いていた健斗は、突然自分に話を振られて思わずビクリと肩を震わせてしまう。その姿は桜子のことをビビりの小心者と笑うことが出来ないほどだった。

 (いささ)か意地悪そうな、かと言って完全に冗談でもなさそうに楓子が口にした言葉を、健斗はどう受け取って良いのかわからなかった。

 彼女の言葉を真に受けるのであれば、それはこの後桜子の胸を実際に触ってみろと言うことなのだろうが、本当にその言葉に従ってもいいのだろうか。

 

 もちろん健斗にしてみれば、言われるまでもなくその提案には乗りたいところだし、母親公認のもとに気兼ねなく桜子の胸を揉めるなどこんな素晴らしいこともなかったのだ。それを思うとここは是非にもこの話に乗るべきだろうと彼が思っていると、(おもむろ)に横から桜子が口を開いた。


「お、お母さんがいるのに、そんな恥ずかしいこと出来るわけないじゃない!! ねぇ、健斗?」


「えっ? ……お、おぅ……」


 最愛の恋人のまるで空気を読まない言葉に、健斗は今年一番とも言えるような落胆を味わっていたのだった。




 ーーーー




 9月下旬。


 弁護士の山田雅臣(やまだまさおみ)が自身の事務所で裁判の報告書を書いていると、突然事務所の事務員が部屋をノックしてきた。


「先生、遠藤さんという男性の方がお見えです。アポはありませんがどうしますか?」 


 基本的に書き仕事をしている最中は誰にも邪魔をされたくない山田は、事務員の来訪に少々不機嫌な顔を向けたのだが、その要件を聞いた途端、彼の顔は輪をかけて不機嫌になった。それでも部下に当たったところでどうにもならないと思った彼は口速に指示を出す。


「……応接室に案内してくれ」



 山田が知っている限り、アポ無しで自分を訪ねてくる遠藤なる人物は一人しかいない。

 それは以前痴漢事件で弁護をした挙げ句に実刑を言い渡され、その後刑務所で服役していた遠藤尚義(えんどうなおよし)の他に思い当たる者はなく、それもつい先日、その差出人の手紙を受け取ったばかりだったからだ。

 

「遠藤さんか……」

 

 その名前を思い出した山田は、パソコンで文字を打っていた手を止めると、ホゥっと小さなため息を吐きながらゆっくりと椅子から立ち上がった。




「酷いじゃないか、山田さん。先週あんた宛に出所の知らせを送ったのに、出迎えにも来ないでどうしたんだよ」


 自分の立場をわきまえずにまるで山田を責めるような口調で話す男は、予想した通り遠藤尚義(えんどうなおよし)その人だった。

 刑務所に収監されてから一年二ヶ月ぶりに会った彼は昔よりもだいぶ痩せていて、その生活が随分規則正しかった事が伺われたが、それでもその不遜な態度と人を見下したような表情は以前のままで、すでに全ての契約が終わっていた山田は出来ることならもう彼には関わり合いたくなかったのだ。


「いやぁ、すいません。ちょっと別件で仕事が入っていて……」


 プロの弁護士である彼は、内心はどうであれ顔に笑顔を浮かべながら話を続ける。山田とは当たり障りのない世間話をしながら、その実、頭の中では素早く状況を理解しようとしていたのだ。 


  

 遠藤は昨年刑務所に収監されてから、その三ヶ月後に妻とは離婚していた。

 服役中のある日、面会に来た妻から突然離婚届を差し出された彼は、激昂して彼女のことを罵倒した挙げ句、勢いに任せてその場で承諾したのだ。妻はさておき、娘のことを溺愛していた彼は勢いで離婚届けに押印したことをその後随分と後悔したものだったが、逮捕されてからただの一度も顔を見せない娘の心情を(おもんぱか)った彼は、半ば彼女との関係の修復を諦めていたのだった。


 結局妻との離婚と娘の親権の放棄を認めた彼だったが、出所後に未だ売却に至っていなかった自宅のマンションに戻って来た遠藤はしばらくそこで暮らしているらしかった。


 会社はとうにクビになり、妻とは離婚し、娘とは縁を切らされた彼が、とっくに弁護契約も終わっている自分の所へ何を目的にやってきたのだろうか。

 いまの山田には嫌な予感しかしていない。


「まぁ、出所の出迎えに行けなかったのは悪いと思っているけど…… それで今日はどういった要件で?」


 山田の問いかけにニヤリと笑うと、遠藤は短くこう言った。



「あの金髪娘の家を教えろ。あんた、知っているんだろう?」


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[一言] は????? あのオッサン反省してねぇのか???? 玉と竿潰してやろうか????
[一言] つまりは男の気配……(死んだ目)
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