第174話 新部長の理性
有明高校柔道部では夏の大会後に引退する三年生が次期部長を指名するのが慣例になっている。それは現二年生の中から一方的に指名する決まりになっていて、指名された者が辞退することは許されなかった。
彼らは直前まで誰を指名するのかは一切口外せず、夏休み明けのミーティング時に初めてそれが発表されるのだが、なんと今回新部長に指名されたのは、誰あろう、木村健斗その人だったのだ。
もちろん健斗はその事実に大いに戸惑ったし困惑もしたのだが、指名を辞退することは慣例上許されなかったし、そもそもその結論は先輩たちの話し合いの結果なので、それを断るという選択肢はあるはずもなかった。
「先生、俺なんかが部長になってもいいんでしょうか? この前の大会でも良い結果は残せなかったのに」
新部長発表のミーティングが終わると、職員室へと引き上げていく顧問の木下を掴まえた健斗は思わず問い掛けてしまう。もちろんそんなことをしても新部長の指名を覆せるはずもなければ、三年生から次期部長候補を事前に聞いていた木下が異論を挟まなかった事からも、既に彼が納得済みなのは間違いなかったのだが。
「……お前、何か不服なのか? 言っておくが、こんなに名誉なことはないんだぞ。部長なんてなりたくてもなれるもんじゃないんだからな」
「それはわかります。でも俺が部長だなんて…… 全然自信がありません。それに自分の事すら満足にできないのに、部の運営なんて……」
珍しく弱音を吐く健斗の姿を木下はその丸太のように太い腕を胸の前で組みながら見つめると、小さなため息を吐きながら口を開いた。
「木村、お前これから大学の推薦を受けようって奴が何を弱音吐いてるんだ? これでも一応公立校の中では強豪校と言われているんだぞ。その部長を立派に務めあげる事が出来れば、それはお前の実績にもなるんじゃないのか?」
その言葉に健斗は怪訝な顔をしている。
「推薦って…… この前の大会で優勝出来なかったから、その話は無くなったはずでは……」
「まぁ、今だから言うが、あれは方便だ。その気にさせたのは悪かったと思うが、本当の事を言うと俺はお前がどうするかを見たかったんだ。だから優勝できるかどうかはあまり重要じゃなかったんだよ。わははは」
「……それじゃあ、まだ推薦は……」
「もちろんこの前の大会の結果も書類選考での材料にはなると思うが、強豪と言われている柔道部の部長を務めているのも立派な推薦理由になると思わないか? どうだ?」
その言葉を聞いた健斗の顔に、ハッとした表情が浮かぶ。
確かに彼の言う通り強豪と言われる有明高校柔道部部長という肩書は立派な推薦理由になるのだろう。それは自ら求めても三年生の合意がなければ絶対に選ばれないことを考えると、それだけで貴重な肩書と言えるのだった。
「もっとも、いまのお前のままではまだまだ部長としては物足りないがな。でも、まぁ大丈夫だろう、お前にはあの小林もいるしな」
「えっ?」
急な話の転換に健斗が怪訝な顔をすると、木下はその熊のような厳つい顔にニヤニヤとした笑いを浮かべていた。
「俺は見たぞ。この前の試合でお前が小林に説教されて、最後にビンタされたのをな」
「……いや、あれは……」
まさかあれは桜子が偶々叔父の人格に入れ替わった状態だったなどと言う訳にもいかず、健斗はただ黙るしかなかった。あの場面だけを目撃した木下には嘸彼が桜子の尻に敷かれているように見えただろう。
そんな何か言いたくても言えない彼に向かって木下が話を続ける。
「だがな、今どきあれだけはっきりとものを言ってくれる彼女は貴重だと思うぞ。最近はどいつもこいつも上辺だけで喋りやがるからな。まぁ、もっともそれが行き過ぎると尻に敷かれてしまうことになるから気をつけるんだな」
健斗にそう話をする木下の脳裏には、昨年の痴漢事件での桜子の姿が浮んでいた。
あの時の彼女の姿はまさに驚愕としか言いようがなく、普段あれだけ愛らしい容姿に「ゆるふわ」な雰囲気を醸し出している彼女にもかかわらず、自らに痴漢行為をはたらいた男に暴行を加える姿はまさに驚きだったのだ。
それまでその美貌と優しげな雰囲気と話し方で入学直後から学校中の人気者になっていたにもかかわらず、もともとの恋人の健斗以外には誰一人として他の男に靡かなかった彼女の事を木下は不思議に思っていた。しかし彼は痴漢犯を蹴り上げる桜子の姿にその答えを見たような気がしたのだ。
それでもどちらが彼女の本性なのかをその後も木下は密かに気になっていたのだが、先日の試合で健斗が罵られた挙げ句にビンタされたのを見た時に、それは確信に変わったのだった。
頑固で寡黙な健斗を普段は愛らしく優しげな雰囲気で上手に操り、いざという時には押しの強さで彼の軌道を修正させる。今どきそんな事を器用に出来る女性も少ないことを考えると、健斗には桜子がお似合いなのだと木下は思うのだった。
「部長に指名されてしまったものはしょうがないだろ。三年生たちだってお前なら大丈夫だと思ったからそう決めたんだ。あとはお前が新部長として皆に認められるように頑張るしかないだろう。もちろん俺はお前に期待しているし、これを立派に務めあげる事ができればまた大学の推薦の話にも繋がると思うしな」
「わかりました。決まった事に今更もう何も言いません。部長として全力で取り組んでいきますので、これからもよろしくお願いします」
去り際に見た健斗の顔にはもう迷いや困惑の色はどこにも見られなかった。
歩き去る彼の背中を見つめながら、木下は満足そうな顔をしていたのだった。
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「凄いじゃない、部長なんて!!」
夕方の桜子の部屋に少々高めの可愛らしい声が響いている。
今日の健斗は昼過ぎにアルバイトが終わった桜子を迎えに来ると、少し街中をブラブラ歩きながらデートをした後に夕食をご馳走するからと彼女の家に招待されていた。
いまはちょうど夕食の仕込みが終わったところで、夕食まで少し時間があるので彼女の部屋で雑談をしているところだった。
「いや、でも先輩たちの期待に応える事を考えると、少し気が重くて……」
そこまで答えたところで、健斗は先日秀人に言われた事を思い出した。
健斗は彼に「何事もやる前から諦めるな」と言われたばかりだった事を思い出すと、その後ろ向きな自身の発言を振り払うように頭を小さく振ると、その言葉尻を変えた。
「でも何事もやってみなければわからないからな。とにかく俺はやってみるよ。やらずに後悔するくらいならやって後悔した方が何倍もマシだからな」
まるで自分の言葉のようにそう話した健斗だったが、もしかして目の前の桜子の中で秀人が聞いているかもしれないと思うと急に恥ずかしくなり、またその言葉尻を変えた。
「……って、誰か偉い人が言っていたしな」
「うん、そうだね。その通りだと思うよ。さすが健斗、良い事言うね!!」
そんな健斗を見つめながら桜子がニコニコと笑っている。何度見ても愛らしい彼女の顔を見ていると、思わず健斗の頬は赤くなり、毎度のことながら思わず見惚れてしまっていた。
そしてその時ふと脳裏に浮かんだ疑問を彼女にしてみる事にした。
「そうだ、全然話が変わるんだけど、最近お前の後遺症はどうなんだ? 前はだいぶ良くなってきているとは言っていたけど……」
彼の些か遠慮がちな言葉におずおずと口を開く桜子の顔には、若干の戸惑いが見えるようだった。
「うん…… 最近はだいぶ良くなってきたよ。今はもう身体が触れなければ満員電車の中でも息苦しさを感じなくなったしね」
「そうか……ごめん…… もしかして嫌な事を思い出させてしまったかも…… やっぱりもうこの話はやめよう」
「ううん、いいの。お医者さんにはこれには自分から立ち向かわなければいけないって言われているし。だからもう少しこの話をしても大丈夫だよ」
急に沈んだ表情を浮かべ始めた桜子を心配した健斗は、この話をここで終わらせようと思った。
彼女のそんな様子を見ているととても気の毒に思ったし、何より健斗自身がそんな桜子の顔を見たくなかったのだ。彼女にはいつも笑っていて欲しかったし、実際彼は笑った桜子の顔が大好きだったからだ。
「いや、やっぱりもうやめよう。桜子のそんな顔は見たくないし、お前にはいつも笑っていてほしいからな」
「……ごめんね。でも嫌だよね、こんないつまでも何もさせてあげられない彼女なんて……」
その言葉にハッと顔を強張らせながら、健斗は慌ててしまっていた。
彼にはそんな気は全くなかったのだが、結果的に自分の発言が彼女の悩みを突いてしまった事実に後悔していたのだ。
確かに桜子が痴漢の後遺症を発症しさえしなければ、今頃彼女とはそういう関係になっていたかもしれない事を考えると健斗にも色々と思うところはあるのだが、だからといってそんな事を無理強いできるわけもないのだし、なにより彼女の心の傷を癒してあげる事こそが結局は二人の関係を一歩前進させる事に繋がるのだろうと思っていたからだ。
「い、いや、俺はべつに…… 大丈夫だよ、俺はいつまでもずっと待っていられるから。今はただお前とこうしていられるだけで満足だよ」
「ありがとう、健斗…… やっぱり健斗は優しいね……」
桜子の透き通るような青い瞳が潤んでいる。
その涙は恋人に何もさせてあげられない自分の不甲斐無さを悲しんでいるせいなのか、それとも恋人とのひと時に感情が溢れているせいなのかは健斗にはわからなかった。それでも彼はそんな彼女の唇を自身のそれでそっと塞いだ。
それからしばらくそのままの姿勢でいると、徐々に桜子の身体からは力が抜けていき、気付けばその体重のほとんどを健斗に預けるようになっていて、両目を瞑ったままの彼女の鼻からは熱い吐息が漏れていた。
そろそろ自分の理性の限界を恐れた健斗が断腸の思いでゆっくりと身体を離していくと、彼女の顔は見たことが無いほどに夢心地になっていて、頬も小さな可愛い唇も紅く火照っているように見えた。そしてその青い両目はトロンと垂れ下がり、すでにその顔からは普段の理性的な表情は消え去り只只管に恋人を求めているようにしか見えなかったのだ。
これほどまでに女の顔をした桜子を見た事の無かった健斗は、その表情に思わず喉をゴクリと鳴らしながらこの先の展開に悩んでいると、彼が口を開くよりも早く妙に艶めかしく見える小さな唇を桜子が開いた。
「……ねぇ、お願いがあるの…… もう平気かどうか試してみたくて…… 触ってほしいの……」
その言葉を聞いた瞬間、健斗に残っていたほんの僅かな理性は崩壊したのだった。