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第173話 叔父の叱咤と激励

 有り余る違和感を溢れさせながら健斗がハッと上を見上げると、そこには紅く彩られた小さくて可愛らしい桜子の唇があったのだが、それは彼がよく知っている優しげな微笑みではなく、片方の口角だけを上げた皮肉そうな笑みだった。

 そんな形に口を歪ませる人間は健斗が知っている中では一人しかおらず、それもつい数ヶ月前に衝撃の事実とともに心に刻み込まれたばかりだったので、彼には絶対に忘れられないものだったのだ。



「お、叔父さん…… 秀人叔父さん?」


「よぅ、ご明察だな。お前、なかなか鋭いじゃねぇか」


 まるで「ふふんっ」と鼻で笑うような皮肉そうな笑みは、やはり彼の叔父のものだった。

 健斗がその事実に普段は細い目を大きく見開いたまま未だ顔をその柔らかな胸から離せずにいると、目の前の唇がニィっと笑いの形に釣り上がったかと思うと、次の瞬間ギュウっとさらに強く胸に押し付けられる。


 すると彼の顔は完全に柔らかな胸の谷間に埋没してしまい、その迫り来るような肉感と温かさ、そして彼女の香りに息苦しくなるほどだったが、同時に得も言われぬ幸福感に包まれていた。


「……って、ちょ、ちょっと待ってくれよ!!」


 出来ることならこのままずっとその感触と香りに包まれていたい健斗だったのだが、今はそれどころではない事を思い出しながら慌てて顔を離すと、目の前の叔父の姿を見つめていた。

 


「よぉ健斗、久しぶりだな。元気だったか……って、絶対に負けられない試合に負けて、しかも恋人に罵られた挙げ句にビンタされたんだから元気な訳ないわな」


「くっ……」


「それにしては相変わらず身体の一部分だけは元気なようだが…… もしかしてお前溜まってるのか?」


「うっ……!!」


 健斗の身体の一部分を見つめながらニヤニヤと笑っているその顔は確かに桜子であって桜子ではないもので、健斗はその顔から目を逸らすと恥ずかしそうに腰を引いて中腰になっている。


「う、うるさいな…… いいだろ、べつに……」


「ふふん、童貞野郎にはちょっと刺激が強すぎたか? そう思ってさっきは少しサービスしてやったんだが、もしかして逆効果だったみたいだな。もしよければもっと過激なサービスも用意しているが、どうする? うちは優良店だから追加料金は発生しないぞ?」


 まるで健斗の心を見透かすように秀人がニヤニヤと笑っているのだが、桜子の顔のままでそのような表情をしているとまるで彼女が妖艶な小悪魔になったように見えて、余計に健斗の興奮を煽るようだった。

 そしてその申し出に健斗の好奇心と妄想と身体の一部が今までにない程に膨らんでいたのだが、薄れゆく理性を必死にかき集めながら彼は必死に頭を振っていた。


「い、いや、とにかく今はそんな話をしている場合じゃないだろ。それよりどうして叔父さんが……」


 理性で己の感情を抑え込むことに成功した健斗を面白くなさそうな顔をしながら見ていた秀人は、また面白く無さそうに話し出す。



「ふんっ、まぁいいか。勘違いしていたら困るから先に言っておくが、さっきお前を罵ったのも、ビンタしたのも全部この俺だ。わかったな」


「あ、あぁ……」


 その言葉を聞いた健斗の顔に安堵の色が広がっていく。

 本当の事を言うと、彼は桜子に罵られている間も平手打ちをされた時も、大きな違和感に襲われていたのは事実だったし、もしもあの言葉の全てが彼女の本心だったとしたらきっと自分はしばらく立ち直ることが出来ないだろうと思っていたからだ。


「だがな、お前を罵った言葉の全てが俺だけの言葉だと思うなよ。あの中にはこいつが密かに思っていたことも含まれているんだからな。俺には桜子の心の中が全てわかるんだ。そこのところを忘れるな」 


「わ、わかった……」



 秀人の言葉から推察すると、自分の口から言うことは決して無いとしても、桜子は桜子なりに健斗に対して色々と思うところがあるのは事実のようだし、その思いも今回の秀人のおかげで朧気(おぼろげ)ながら理解することが出来た。

 いま思えば、こんな負けられない大事な試合で負けてしまったにも関わらず、悔しそうな顔をしている半面心の何処かで「しょうがなかった」と思っている自分の事を見透かされた気がして、今更ながら健斗は自分の事が猛烈に恥ずかしくなっていた。


「こいつは優しいからお前には絶対に言わないと思うが、お前は努力する方向が少し間違っているんじゃないのか? それにお前は自分の頭が悪いからと事あるごとに言っているが、それはもうやめろ。言い訳にしか聞こえないぞ」

  

「……わ、わかった」


 その言葉は健斗にとってとても耳の痛いものではあったが、秀人が自分の叔父であるという事実によって不思議とその言葉は彼の心の中にスッと入り込んでいく。もしもそれを言ったのが赤の他人だったとしたら、これほど素直に彼の心には響かなかっただろう。

 

「お前は俺の甥っ子だ。だから敢えて言わせて貰うが、お前は頑固すぎる。もっと人の話に耳を傾けろ。人のアドバイスを受け入れろ。たとえそれがお前のポリシーに反していても、ひとまずは言われたとおりにやってみるんだ。ダメならダメでその時にまた考えればいいだけだ」 

 

「……」


「いちばんダメなのは『どうせ』と言って最初から諦めることだ。後からやらずに後悔するくらいなら、やって後悔する道を選べ。わかるな?」


「……わかった」


「本当に迷った時に一番頼りになるのは、それまでの自分の経験だ。たとえ失敗したとしてもそれ自体が経験になるんだ。そしてその経験の積み重ねが人としての厚みを作り上げるんだぞ」


「……」


「お前にはまだ少し難しかったか? まぁ、とにかく今は言い訳をするのをやめて、人の言葉に耳を傾けろということだ」


 秀人のその言葉に、パッと健斗の顔に理解の色が広がる。そしてそれまで強張っていた彼の顔には柔らかい微笑が浮かび始めた。



「ありがとう、叔父さん。俺、もう少し頑張ってみるよ。大学の推薦の話は多分もうダメになったと思うけど、まだ他の方法を考えてみようと思う」


「ふんっ、まぁ、頑張れ。お前にはいつも桜子がいるだろう? こいつはお前のことを本気で好きなんだ。それだけは間違いない、俺にはわかる。このまま順調に病気が治っていけば、いつか色々とサービスしてくれるだろうよ。これも俺にはわかる、間違いない」


「い、色々と……サービス……」


 健斗の喉がゴクリと音を立てた。


「ふふんっ。それも含めてこの先を楽しみにしておくんだな。もっともお前にはその前に大きな仕事が残っているがな。体育教師への道、絶対に諦めんじゃねぇぞ、いいな?」


「わかった。俺、絶対に諦めないから。やらずに後悔するくらいなら、やって後悔することにするよ」


「……いや、本当に後悔されても困るんだが…… まぁいいか。とにかく頑張れ。俺はいつも見ているからな。怠けているようだったら、またビンタしてやるから覚悟しておけ」


「うん、ありがとう叔父さん」





 それから秀人は満足そうに健斗の顔を見つめると、彼に自分の身体を支えることを指示した後に目を瞑って身体の力を抜いた。ベンチの上でまるで眠るように意識を失っている桜子の愛らしい顔を眺めながら健斗が言いようのない幸せな気持ちに浸っていると、やがて彼女は身じろぎを始める。


「う、うーん……」


「あぁ、桜子、目が覚めたか?」


 健斗の膝の上で目を覚ました桜子が不思議そうな顔で見つめていると、その顔を覗き込みながら健斗が優しく声をかけた。


「さっきまで秀人叔父さんが来てたんだよ。憶えているか?」


「えっ? 鈴木さんが? ……どうりで途中で目の前が真っ暗になったと思ったよ……」


「大丈夫か? 叔父さんにはいっぱい説教されてしまったけど、そのせいで俺は目が覚めたんだ」


「目が?」


「あぁ、そうだ。それにお前の正直な気持ちも少しわかったし…… まぁ、それはいいか」


 全ての悩みが吹き飛んだような清々しい笑顔で健斗が話しているのを、桜子は不思議そうな顔で見ていたのだが、次の瞬間とても大事なことを思い出すと慌てたように口を開いた。


「そ、そうだ、健斗、試合、試合なんだけど…… 一生懸命頑張ったけど、今回は残念だったね……」


 とても言いづらそうにしている彼女の顔を見ながら、健斗はそれでも笑顔で返した。


「いや、それももういいんだ。今回のことは全然残念なんかじゃなかった事がわかったし、俺のこれからの課題も十分理解できたしな。今ではむしろ負けて良かったとさえ思っているんだ」


 

 桜子には彼の言っている意味がよくわからなかったが、秀人が自分と入れ替わっている間に健斗に何かを言ったのは間違いないだろうし、そこで何か心に響く言葉でもあったのだろう。

 そう思った彼女はそれ以上深くその話を追求することはしなかったが、試合に負けてしょぼくれていると思っていた彼がむしろ明るく何処か吹っ切れたような態度をしているのを見ていると、敢えて自分が何かを言う必要もないと思ったのだ。


「剛史の試合がもうすぐ始まるはずだ。とりあえず応援に行かないか?」 


 それから二人は手を繋ぎながら、試合会場の方へと戻って行ったのだった。






 松原剛史(まつばらごうし)はこの大会で優勝した。

 これで11月に行われる全国大会への切符を手に入れた彼だったが、その顔に嬉しそうな表情は全く浮かんでおらず、他の部員たちに祝いや労いの声をかけられても口を真一文字に結んだままむっつりと無言でいる。

 そんな彼に応援席から降りて来た健斗が声をかけた。


「松原、やったな。これで念願の全国大会に出場できるな。負けるなよ」


「ふんっ、なんだお前、まだいたのか。とっくに帰ってクソして寝てるかと思ったぞ」


「まぁな。お前の言葉だけじゃないが、俺もあれから色々と考えたからな。もちろんさっき負けた理由もはっきりわかったぞ」


「……お前のような負け犬なんて何をやっても無駄だと思うけどな。まぁ、それがわかったんなら、次に向けてすぐに始めるんだな」


「あぁ、すまない。目が覚めたよ、お前のおかげだ。ありがとう」


「……お前、気持ち悪いな…… 何か拾い食いでもしたのか?」


「とにかく俺は次に向けてすぐに頑張るということだ。お前は次は全国大会だが、俺はまた地区予選から出直すよ」


「そ、そうか……」


 いままでには無い素直さで健斗が話しているのを心底気持ち悪そうに聞いていた剛史だったが、その顔には自分の真意が相手に伝わった事による満足感が溢れていて、直前までムッツリと口を閉ざしていた姿はまるで嘘のようだった。

 



 これで彼ら有明高校柔道部の夏の県大会は終わったのだが、その直後の三年生引退に伴う次期部長選出会議ではちょっとしたサプライズがあった。


 なんと、次の部長に指名されたのは、他でもない木村健斗その人だったのだ。


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