第172話 罵倒とお詫び
「一本!!」
歓声轟く試合会場に審判の声が響き渡ると同時に、健斗の大会も終わってしまった。
相手の西田が嬉しそうに試合会場を後にしていく姿を見つめながら、健斗は下唇を噛みしめて悔しそうにしている。その姿を二階の観覧席から見つめていた桜子は、静かに席を立ちながら琴音に向かって口を開いた。
「健斗はとっても頑張ったと思うんだ。負けちゃったのは確かに残念だけど、それでも県内ベスト8だなんてとっても自慢が出来るよね」
感情を押し殺しながら明るく振舞う桜子に対して琴音は何と言って返事をすればいいのか咄嗟に思いつくことも出来ずに、そのまま黙り込んでしまう。それでも桜子は彼女の気持ちが理解できている様子で、琴音には無理にその答えを言わせようとはしなかった。
「さてっ、あとは松原君だね!! 彼は絶対に優勝してくれるはずだから、頑張って応援しなくちゃね」
「桜子ちゃん…… う、うん、そうだね。あとは剛史に頑張ってもらうだけだから。あとで一緒に応援に行こうね」
いつもは勝気に吊り上がっている子猫のような目を瞬かせながら琴音が何とか答えると、さらに桜子は言葉を続ける。桜子はもともとあまりネガティブな発言をしないのだが、かと言って無理に楽天的な発言もしない。だからその妙に饒舌な姿を見ていると、彼女も恋人が試合に負けたことに相当衝撃を受けている事がわかるし、それをまだ受け止め切れていない様子も彼女の言動から伝わって来るのだ。
琴音がどういえば良いのか思い悩んでいるうちに、桜子は健斗を労ってくると言い残すと一旦観覧席から出て行った。
「木村、お前自分の戦い方を振り返ってみろ、どう思った?」
試合に負けて控えに戻って来た健斗に向かって、剛史が容赦のない言葉をかける。
普段の剛史は確かにお茶らけているし、一見不真面目に見える「俺様」キャラなのだが、こと柔道に対しては真面目だった。
確かに自分の才能に心酔するあまり基礎練習を疎かにするところはあるのだが、それでも柔道に対しては真面目でストイックで、それに関しては嘘も誤魔化しも無い男だった。
「……あいつが強くて俺が弱かった。ただそれだけだ。言い訳はない」
健斗が言葉少なくそう答えたが、剛史は納得していないようだった。更に健斗を追い詰めるように執拗に追及していく。
「ふんっ、それ自体がもっともな言い訳だろ。気に入らねぇな。どこが悪くてどこが良かったのか、その分析が出来ないから同じ事を繰り返すんじゃないのか、おい、木村」
「……」
剛史の言う事ももっともだったし他にも同じことを思った部員もいたのだが、今ここでそれをいう事はまさに「死体蹴り」というもので、負けた健斗には少々酷な言葉だったろう。しかし当の健斗本人はこれまでの付き合いから剛史の為人を十分理解していたので、特に彼に対して思うところは無かったのだ。
「わかってるよ。自分の柔道の悪いところは自分が一番わかってる。でもそれが俺の柔道なんだ、いまさら変えられねぇよ」
「ふんっ、わかってんならそれでいいけどよ。それでお前、これからどうすんだよ? お前の弱点なんてもう既に皆知ってるぞ。このままだと来年も同じ事になって、そのまま引退だろうけどな!!」
「おい、松原、もうやめろよ!! 木村だって負けたくて負けた訳じゃあ……」
応援に来ている他の部員達が、目に余る剛史の暴言を止めに入るのだがそれでも彼は口を閉じなかった。
「うるせぇよ、俺はこいつのそういうところが気に入らねぇんだよ。お前の分まで俺が頑張る? 俺がそんな安い事を言う訳ねぇだろ、負けた奴はさっさと帰ってクソして寝ろ!! その辛気臭い顔を見ていると、こっちまでツキが落ちんだろ!? 邪魔なんだよ」
「……」
剛史の暴言ともとれる言葉を正面から受け止めながら、それでも健斗は何も言わずに黙ったままだ。彼にも剛史の言葉に色々と言いたい事もあるのだろうが、敢えて彼は何も言わずに黙っているままだった。
「ごめんな。せっかくお前が応援に来てくれたのに、また同じ相手に負けちまったよ。まったく格好悪いよな」
控えの部屋にそろりと遠慮がちに入って来た桜子の姿を見つけた健斗は、彼女の手を取るとそのまま裏の通用口の前で苦笑いをしながら桜子に謝っていた。
「ううん、そんな事ないよ。健斗はとっても頑張ったと思うし、それでも県内でベスト8なんだからそれだけでも十分自慢できるじゃない」
「いや、そんな事は……」
「でもね、同じ相手に二回続けて負けるのはどうかと思うよ?」
「えっ?」
予想外の桜子の厳しい言葉に健斗は一瞬言葉が詰まったのだが、彼女の言う通り同じ相手に二回続けて負けた事は彼の決して高くはないプライドを傷付けたのは確かだったし、密かに気にしていたその事実を敢えて抉るようなその言葉に傷ついたのも事実だった。
「基礎体力も持久力も筋力も全部相手に勝っていたのに、どうして試合に勝てなかったと思う?」
珍しくグイグイと攻めて来る彼女の様子に圧倒されながら、それでも健斗はその質問の答えを彼なりに一生懸命考えてみる。
「技…… 技術の差か? それと速さ、スピードだろうか」
「本当にそれだけだと思う? ねぇ、まだ他に何かあるんじゃないの? もっと根本的なものが。もう少し考えてみて」
「……」
まるで普段の彼女とは思えないほどに言い辛い事も平気で言ってくる姿を見ていると、それだけ彼女が自分の事を本気で考えてくれているのかと思った健斗は、自分の事を出来るだけ客観的に捉えようと必死に頭の中を回転させていた。そして桜子はその愛らしい青い瞳を細めながら正面から見据えている。
「どう? 何かわかった?」
「……ごめん、俺には良くわからないよ。どうせ俺は頭が悪いから……」
パシーン!!
突然健斗の左頬を衝撃が走り抜ける。
それは決して痛いとか身体がよろけるというほどのものではなかったが、それが桜子による平手打ちであった事実に気付いた時に健斗が受けた衝撃は、身体的なものよりも心理的なものの方が大きかった。
もちろん今まで彼は桜子に叩かれた事などなかったし、そうせざるを得ないほど彼女を怒らせた理由がどうしてもわからずに、強烈に健斗の頭の中をかき回していたのだ。
「さ、桜子……」
「どうして健斗はいつもそうなの? 自分は頭が悪いから、自分は不器用だから、自分はセンスがないから…… いつもそんな事ばっかり言ってるじゃない!!」
「えっ……」
「健斗には自分を変えようという気が全然ないじゃない!! だからいつまでも腕力とかスタミナとか元々の自分の長所ばっかり伸ばそうとして、逆に欠点を改善しようとかしてないでしょ!!」
「あっ、あ……」
「これ以上長所が伸びないと思うのなら、あとは欠点を潰していくしかないんじゃないの!? どうして健斗にはそれがわからないの!? ねぇ、どうせまた自分は頭が悪いから、とか言うんでしょ!? ねぇ、その言い訳をなんて言うか知ってる!?」
「さ、さ、さくら……」
「それは『逃げ』って言うんだよ!! 健斗は逃げてばっかりじゃない、だから同じ相手に二回も負けちゃうんだよ!! もう嫌い!! そんな情けない健斗なんて大っ嫌い!! もう知らない、馬鹿!!」
その瞬間、健斗の目の前はまるで暗幕を下ろしたかのように真っ暗になり、足が地に着いている感覚が急激に失われていった。
確かに今まで何度か桜子と言い合いをした事もあったし、彼女が怒って走り去って行った事もあったが、面と向かってこれほどまでに罵倒された経験も無ければ「馬鹿」とか「大嫌い」などと言われた経験もなかったのだ。
そのあまりの衝撃に健斗が涙目になりながら固まっていると、公衆の面前で彼女に大声で罵倒される彼氏の姿に好奇心に目を輝かせた周囲の者が集まって来るのに気付いた桜子は、徐に彼の手を取るとそのまま走り出して行った。
「はぁはぁはぁ……」
「……」
健斗の手を引いた桜子は、人通りの少ない裏通用口の手前までやって来ると、そのまま何も言わずに黙っている。そして彼女と同じように口を閉ざしたままの健斗の顔を覗き込むようにしながら、様子を窺っているように見えた。
そしてそんな彼女の顔を直視することも出来ずに健斗は顔を俯かせたままで、いつまでも口を開かずに気まずい空気の中を只管耐えていたのだった。
そんな中、桜子がその沈黙を先に破った。
「はぁはぁはぁ…… ねぇ、健斗、さっきの話…… どう思った?」
「……」
彼女の問いかけにビクリと肩を震わせながら健斗は反応したのだが、彼はなかなか口を開こうとはせず、また気まずい空気だけが漂い始めた。
「ねぇ、何か答えてよ。このまま黙っているんなら、あたし本当に健斗の事嫌いになっちゃうけど……いいの?」
「あ、いや、それは…… ご、ごめん、ちょっと驚きすぎて言葉が出て来なくて……」
「そう…… さっきのあたしの言葉、傷ついたよね? もしかして腹が立った?」
「いや、腹は立っていないよ。でもかなりグサッときたかな…… さっきお前に言われたこと、実は俺もわかっていたんだよ」
「そうだよね。健斗はわかっていると思ってた。だからあたしは言わせてもらったんだよ。わかっているのにどうしてやらないんだって、腹が立っちゃって……」
「……そうだな。確かにお前の言う通りだ。やらなきゃいけない事をわかっていたのに、それをやらなかった。それが今回の敗因なんだな」
「そうだね。わかってくれればそれでいいよ。はい、それじゃあ、これはお詫びのしるしだよ」
最後に桜子はそう言って、目尻に涙を滲ませたままの健斗の頭を優しく両腕で包み込むとそのまま自身の豊満な胸に押し付ける。そしてその上から両腕でギュッと押さえつけると、優しく健斗の頭を撫で始めた。
彼女の胸と両腕に顔を包み込まれた健斗は、柔らかい胸の感触と彼女自身の香りに絆されて、まるで天国にいるような気持ちになりながら、この感覚はいつぶりだろうかと考えていた。
しかしその時、彼はとても大事な事を思い出していたのだ。
そもそも桜子は痴漢事件でのPTSDのせいで、胸やお尻などに触れるのはご法度のはずなのに、彼女の方からそうして来るのはおかしいではないか。
それにどうやら今の彼女はこうしていてもまるで何も感じていないようだし、あれから桜子の病気が治ったという話も聞いてはいなかったのだ。
何かがおかしい。
そう思った健斗が桜子の顔を見上げると、それはそこにあった。