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第171話 柔道の試合の行方

 その後の健斗は仲間たちの応援と激励、嫉妬と妬みという複雑な視線を受けながら、気付けばベスト8にまで勝ち上がっていた。

 もっとも、そこに至るまでの道程はもちろん決して平坦なものではなく、二回戦では危なく一本負けを喫するところだったし、三回戦では時間いっぱいでの判定勝ちという、ギリギリで勝ちを拾って来たような始末だった。しかし過程がどうであれ、実際にここまで勝ち上がってきたのが彼の実力であるのは間違いないのだし、強豪(ひし)めく全県でベスト8というのはそれだけで十分誇れることでもあるのだ。


 一方、剛史は全ての試合で開始早々に一本勝ちを収めていて、全部の試合時間を足しても恐らく二分も使っていないだろう。そのおかげで彼は全く体力を消耗することなく鼻歌交じりに余裕を見せている。

 対して健斗は、三回戦が終わった時には両肩を大きく上下させながら荒い息をついていて、いくら彼が自分のスタミナに自信があると言っても、この後も同じ事を繰り返していれば決勝で剛史と戦う頃にはその体力の差は馬鹿に出来なくなっているだろう。



 次の準々決勝の試合は昼休みを挟んで午後から行われるので、出場選手たちは思い思いの場所で昼食を摂り始めている。健斗と剛史もそれぞれの恋人の作ってきた弁当を前に佇んでいるのだが、健斗は心からの感動と期待、そして剛史は恐怖と絶望をその顔に浮かべている。

 健斗はそんな顔をしている剛史の姿に哀れな目を向けると、彼の耳元で小さく囁いた。


「おい松原、今日の弁当は佐野さんが桜子と一緒に作って来た物だから、たぶん食べても大丈夫だと思うが……」

  

「そ、そうか……? 道理で見た目はまともだと思ってたんだ。それはよかった……」


 健斗の言葉を聞いて剛史の顔に明らかな安堵の色が広がっているのを、琴音が何やら複雑な顔で見ている。

 それは、二年前の大会で剛史が優勝出来なかったのも、大会史に残るような伝説を残したのも、その全ての元凶が彼女の作った弁当だったし、それを笑顔で食べさせたのも琴音自身だったからだ。

 そしてそのたった一度の試合の負けが原因で剛史は柔道強豪校への推薦を失い、今この有明高校にいる原因になったのだった。


 その出来事は今でも琴音のトラウマになっていて、彼女は剛史に対してずっと後ろめたい気持ちのままでいる。しかし実際にその事で一番割を食っているのは剛史自身であったし、今の彼にとっては琴音の手作りの料理は最早(もはや)恐怖の対象でしか無かったのだ。

 そしてそれは、いつも飄々として何者にも恐れを抱かない彼の唯一の弱点ともいえるものだった。




「今日のお弁当は桜子ちゃんと一緒に作ってきたから大丈夫だよ…… と言っても、一回やらかしているあたしが言っても説得力ないけどね……」


 自分の弁当を前に引きつるような笑顔を見せている剛史の前で、琴音が顔を歪めて泣きそうな顔をしている。普段はあれだけ勝ち気そうに釣り上がっている鋭い瞳も涙のために潤んでいて、その様子は何処か幼気(いたいけ)な幼女が泣くのを我慢しているように見えた。

 

「な、何を言っているんだ。お前の作る弁当は最高に美味いに決まっているだろう。前に部活の練習の時に作ってきてくれたのも最高だったしな」


「……でも、今日はこれから大事な試合があるんだし…… 無理をしなくてもいいんだよ」


「いや、食べる。食べるに決まっているだろう。せっかくお前が作ってくれたのに、それを食べないとかあり得ないだろう…… さ、さぁ、食うぞ」



 無駄に明るい声を出しながら大げさに割り箸を割ると、どこかの寺の舞台から飛び降りるような思い切った表情の剛史が弁当を食べ始める。その直後に一瞬動きが止まったかと思うと、突然顔に笑顔が浮かんできた。


「こ、これ、美味いな!! 本当にお前が作ったのか? めちゃくちゃ美味いぞ!!」


 本当の話をすると彼女の作った料理はまさに「普通」で、何か特別美味しいという訳では無かった。

 しかし普通に食べられるというだけで既に感動するに値するものだったし、それはまさに「琴音補正」と呼べるもので、普通の物が普通であるだけで、そこには感動があったのだ。


 

 あまりの美味しさに、琴音が作った弁当であることも忘れて夢中で食べ進める剛史を見ていると、それにはまだどこかに罠がありそうにも見えたのだが、今回の弁当は桜子監修という事もありさすがにそれは無さそうだった。

 自分の作った料理を美味しそうに食べる恋人を見つめる琴音の顔にはとても優しい笑顔が溢れていて、それを見ている健斗と桜子もなんだか幸せな気持ちになっていた。


 不穏な空気を払拭しつつ、一転幸せそうに弁当を食べ始めた剛史と琴音を尻目に健斗たちも弁当を食べ始める。しかし相変わらず桜子の作って来る弁当の大きさは半端ではなく、今回もお重三段重ねといった趣で、料理の種類といい量といいなかなかに強烈だった。


 それは桜子と同じように健斗も結構な大食いなので、彼に食べ足りないと思われるくらいなら一層(いっそ)の事少々食べきれないくらいの方がいいと桜子が思っているためで、彼女が弁当を作ってくると健斗はいつも多少無理をして完食するようにしていた。

 

 明らかに多すぎる量の弁当をモリモリと平らげていく二人を見ていると、もしもこの二人が一緒になったとしたら、エンゲル係数が異様に高い家庭になりそうだと思ってしまう剛史と琴音だった。





 午後の試合が始まった。

 この試合を勝ち抜かなければ健斗の試合はここで終了となり、大学の推薦の話もご破算になってしまうので、ここは絶対に落とせない戦いとなる。そしてなんと健斗の対戦相手、T工業高校の西田は、奇しくも昨年の新人戦で負けた相手であると同時に、一昨年の全県大会で勝っている相手でもあったのだ。

 一昨年の西田との試合も準々決勝だった事を思い出すと、健斗は今回のその偶然になかなか感慨深いものを感じてしまうのだが、いまはそんな悠長な事を言っている場合ではなく、同じ相手に二度負ける愚を犯す事にならないように全力で勝ちにいかなければいけないのだ。

 

 西田とのここまでの対戦成績は一勝一敗なので、ぜひこの試合で勝って戦績を二勝に伸ばしたいところだ。しかし相手もそれは同じことを考えているはずだし、対面から健斗を睨みつける鋭い目つきも、への字に曲がったその口も全てが彼を敵視している事を物語っていて、西田が全力で健斗を倒しに来るのは間違いなかった。


「おい、西田!! あんな女連れのふざけた野郎に負けんじゃねぇぞ!! お前、あんなリア充野郎に試合でも負けるつもりか!!」


「オスっ!! 自分は絶対にあんな軟派野郎に負ける訳にはいかないっす!!」


「おうっ、その意気だ!! 絶対倒してこい!! そして(やわら)の道に女は要らない事を証明してこい!!」


「……いや、それは…… 俺だって可愛い彼女が欲しいっす……」


 西田の最後の言葉は、大きな歓声にかき消されていた。


 




「はじめ!!」


 審判の掛け声で試合が始まると、健斗はその下半身の安定性を生かすようにどっしりと踵をつけた姿勢で西田の出方を待っている。健斗の柔道は軽量級では当たり前のフットワークを生かした素早い動きではなく、下半身の安定性と圧倒的な腕力に物を言わせた重量級のような動きをするので、軽量級の相手にするととてもやり辛いらしい。

 相手が軽量級のスピードで健斗を圧倒しても、中途半端な力では彼の下半身を揺るがす事は全く出来ずに、気付けば腕力で捻じ伏せられている事が多かった。しかし初見の相手であればそうなのだろうが、いままでに二度も戦っている西田には健斗の戦い方は知られているので、そう上手くはいかないのだった。


「おう、西田!! 相手はお前の動きに付いてこれてないぞ!! そのまま相手を撹乱して一瞬で勝負を決めろ!!」


「ちっ、そんな簡単に言うんじゃねぇよ…… あの腕力で掴まれたらこっちが危ねぇよ……」



 健斗の腕力をよく知っている西田は、自分の襟を掴まれる事を異常に警戒していた。

 それにお互いに襟を掴み合う状態では西田の得意のスピードを生かすことは出来ないし、健斗の圧倒的な腕力の下では多少の技術の差は簡単にひっくり返されてしまうからだった。

 

 去年の新人戦では圧倒的なスピードと技術の差を見せつけながら、地面に根を張るかのごときどっしりとした健斗の身体を時間ぎりぎりで投げ飛ばしたのだが、この一年で相当練習を積んで来た今の健斗にはそのスピードは通用しなかった。

 なぜなら健斗は、高校の柔道部に入部して以来ずっと剛史の練習相手を務めて来たので、スピード柔道には十分に耐性を身に付けていたし、そもそも速さという点では西田よりも剛史の方が数段上だったからだ。


 それでも傍から見ると健斗が西田の動きに付いていけていないように見えていたし、それは審判の目にもあまり良い印象を与えていなかったようだ。



「指導!!」


 結局試合開始1分で指導をとられてしまった健斗は、顔に焦りの色が出て来るとそれを相手に悟られてしまう。それから彼は果敢に相手を攻め続けたのだが、元々のスピードの違いは如何ともし難く、健斗の攻めを西田にスルスルとかわされているうちに、気付けば試合時間は30秒しか残っていなかった。


「おい、木村!! もっと動け!! もっと攻めろ!! このままじゃジリ貧だぞ!!」


 剛史の声が会場に響くと、その声に呼応するように健斗がさらに攻め続ける。

 彼もこのままでは相手にポイント差で逃げ切られることはわかっていたし、ここはもう自分から攻めるしかこの状況を打開する方法が無い事も理解していたのだ。


 そして本来の自分の柔道を忘れて逃げ続ける相手を攻め続けていた健斗は、その一瞬のスキを狙われて、西田に背負い投げられてしまった。



「一本!!」


 歓声轟く試合会場に審判の声が響き渡った。


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― 新着の感想 ―
[一言] 意欲は見られないでもなかったけどあんまり成長を感じられないし、先生がどんな評価を下すか際どいですね…。
[一言] いやまじで健斗にきびしいなあ
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