第170話 みんなちがって、みんないい
今回の柔道部の大会で有明高校から男子60キロ級個人戦にエントリーしているのは健斗と剛史の二人だけで、彼らが順調に勝ち上がっていくと最終的に決勝で当たることになる。そして健斗が体育大学への推薦の条件として顧問の木下から出されたのがこの大会での優勝であり、その最大の障壁が同期部員の松原剛史だったのだ。
もちろん彼らは普段から一緒に練習をしている仲なので、相手の動きから癖、技のタイミングまでお互いの事は知り尽くしていたので、一度の例外を除いて、たとえ練習であったとしても健斗は一度も剛史に勝ったことは無かった。
もちろんその例外とは、彼らが中学三年生の時の全県大会の決勝での一戦なのだが、その時も剛史が琴音の弁当を食べて腹を下してさえいなければ、恐らく健斗には勝ち目は無かっただろう。何の疑いも無くそう思えてしまうほどに二人の実力は今でも差があるのだが、前回のような大番狂わせもあり得るので、実際に戦ってみるまで何が起こるかわからない。
もちろん全県から強豪選手が集まるので、決勝での剛史との戦いばかりを意識しているとそこまで辿り着く前に足元をすくわれる恐れもあるのだが、今の健斗の実力であれば、変に緊張したりしない限りなんとかベスト8まではいけるのではないかと木下は踏んでいた。
普段は剛史の影に隠れていて目立たないが、健斗の実力は決して弱くはない。
何よりその練習に向ける真剣な態度と真面目さ、ひたむきさは全部員の中でも一番だったし、圧倒的な練習量に裏付けされた確かな実力は木下も認めるところだ。確かに彼の柔道のスタイルは派手に一本を取るようなものではないのだが、相手を大きく凌駕する驚異的なスタミナと凄まじい腕力、下半身の安定性で地味ながら危なげなく試合を進めていくのだ。
そこは恵まれた才能とセンスを活かして、出る試合全てで一本勝ちを収める剛史とは対照的で、決して才能に恵まれているとは言い難い健斗は足りない部分を練習量で補っている。木下から見れば才能に胡座をかいて基礎練習を疎かにする剛史よりも、むしろ健斗のようなタイプのほうが好ましく思えたのも事実だった。
正直なところを言うと、木下は本気で健斗が優勝できるとは思っていなかった。
それでも彼に発破をかけたのは、一見不可能な目標を課された健斗の反応を見たかったのと、それに向けて彼がどうするのかを確かめたかったからだ。
木下の言葉を聞いた健斗は本気でI体育大学への進学を考え始めていたのだが、それを実現するためには高校から推薦をもらわなければならない。そして推薦をする以上、木下もI体育大学、つまり自分の母校に対して責任があるので、健斗の行動と努力の仕方を確認する必要があったのだ。
もちろんそんな事は彼には伝えていないし、実際に60キロ級個人戦の出場枠を獲得したのは健斗自身の実力でもあったので、今はただ彼が今日どこまでトーナメントを勝ち進んでいけるかを応援するだけだった。
肌色とオレンジ色の世界の余韻に浸りながら健斗がトイレから出てくると、ちょうど剛史が鏡を見ながら何かをしているところだった。健斗にはその光景から二年前の大会での光景がデジャヴのように思い出されたのだが、今日はお互い応援し合う仲であることを思い出していた。
健斗が横から声をかけようとして彼の様子を見ていると、剛史は赤く腫れた左頬に濡れたタオルを当てて冷やしているところで、その後ろ姿には何やら哀愁が漂っているようにも見える。
「おい松原、お前その顔どうしたんだ? ずいぶん腫れているようだが……」
「……いや、平胸に殴られただけだ、気にするな」
「……平胸? なんだよそれ」
「それはそうと、お前これから大事な試合だと言うのに、なんて破廉恥な事をしているんだ。……まぁ、あいつと違って彼女の胸は覗き甲斐もあるだろうがな」
剛史のその言葉に、彼が言う平胸の意味を正確に理解した健斗は、そのあまりにもそのデリカシーの無い言葉に思わずため息を吐きそうになっていた。それと同時に彼の恋人の琴音の姿を思い出すと、その「平胸」という言葉も良い得て妙だと思わず感心してしまう。
確かに彼女の身体を真横から見るとその厚みの無さは心配になるほどだったし、その背の低さも童顔の顔も未だに中学生かと思うほどだった。
しかし、少々気の強そうな鋭い目つきが気にはなるが、それでも琴音の容姿はそのまま美少女と言っても差し支えないほどの愛らしさだし、その小柄な体格も相まって何処か小動物的な可愛らしさを醸しているのだ。
それに比べて桜子の胸の大きさはまさに健斗の好みのどストライクだったし、その細身巨乳と評される彼女の体型も、少々ムチっとした太ももとお尻も、全てが彼の理想だった。ただ、彼の名誉のために言わせてもらえば、健斗は決して巨乳が好きなのではなく、好きになった女の子が偶々巨乳に育っただけなのだ。そして彼は桜子の性格も容姿も、彼女の胸も大好きすぎて思わず夢に見てしまうほどだった。
そんな非常にどうでも良いことを真面目な顔で考えていた健斗に向かって、左頬をタオルで冷やしながら剛史が口を開く。
「お前、もしかして彼女の胸の大きさで俺に対して優越感を持っているんじゃないだろうな」
その言葉に図星を指された様子の健斗が、少々慌てたように答えた。
「そ、そんな事は無い。断じて無い。む、胸の大きさなんてどうでもいいだろ」
「ふんっ、そうかよ、お前の本心はわかったよ。しかしよく聞け、昔の偉人もこう言っていたんだぞ。『みんなちがって、みんないい。 みつお』とな」
いや、それは絶対違うだろ。しかも「みつお」とか、絶対に言わないし。
などと健斗は思ったのだが、敢えて口に出さずに無言のままでいると更に剛史の口が滑らかになっていく。
「その言葉は『大きいおっぱいも小さいおっぱいも、皆それぞれに良いところがある』という意味なんだ。まさに『おっぱいに貴賤なし』と言ったところだな」
いや、それは絶対にそういう意味じゃないだろ、とまたしても健斗は思ったのだが、また敢えて彼は何も言わなかった。
しかし確かにその言葉には健斗も同意できるところで、女性の胸はその大きさではなく、それが胸であるという事自体に価値があるのだ。
それでもやはり、せっかくなら大きいほうが良いと思ってしまう健斗ではあったのだが。
気付けば試合前の貴重な時間を、女子の胸の大きさの話で終わらせていた二人だった。
「健斗、まずは一回戦、頑張って!!」
程よい緊張感に包まれながら健斗が初戦の会場に足を踏み入れると、既に相手は柔軟体操をしながら鋭い目つきで睨みつけてくる。それはまるで健斗を威嚇するような目つきだったのだが、実はそれは嫉妬の表情だったのだ。
実は相手の選手が様子見のために健斗の姿を目で追っていると、ちょうど彼が桜子のワンピースの中を覗き込んでいるところだった。それだけでも彼女いない歴17年の彼には非常に羨まけしからん状態であったのに、桜子が絶世の美少女である事実がどうしても許すことが出来ず、これはもう試合という名の公開の場で合法的に健斗を血祭りに上げてやろうと息巻いていた。
しかしいざ試合が始まると、健斗の凄まじい腕力と下半身の安定を崩すことが出来ずに、相手の選手は判定で負けてしまうのだった。
「わぁー、健斗!! まずは初戦突破だね、お疲れ様!!」
桜子が試合会場から下がっていく健斗に向かって、二階の観覧席からぶんぶんと両手を振り回しながら大声で叫んでいると、その姿を心の底から羨ましそうに見つめながら、負けた相手はトボトボと会場を後にしていく。
一回戦を難なく勝ち上がった健斗が控えの場所に戻っていくと、次は剛史の番だった。
剛史は赤く腫れ上がった左頬もそのままに、観覧席から身を乗り出している琴音に向かってニカっと自信満々の笑顔を見せつけると、まだ試合も始まっていないというのに既にガッツポーズを見せている。
その様子を見た相手の選手は思わず頭に血が登ってしまい、剛史が強敵である事も忘れて試合が始まった瞬間に剛史の襟を強引に掴みにいくと、難なく返り討ちにあっていた。
試合時間はたったの五秒で、相手は剛史に何をされたのかもわからないまま畳の上に転がされていたのだった。
「剛史、凄い!! 強い!! カッコいい!!」
剛史の勇姿に我を忘れた琴音が大声で叫んでいる。
両手を顔の前で組んで目をキラキラと輝かせている彼女の様子からは、剛史の左頬を力の限り殴りつけた先程の姿は全く想像も出来ず、身長145センチの小柄な体格とまるで中学生にも見える幼い顔を見ていると、まるで天使のようにも見えた。そしてその横に笑顔で佇む桜子の姿は、天使の保護者の女神のようにも見えて、二人の愛らしい姿は周りの観客のみならず柔道の試合に来ている選手達の注目の的にもなっている。
「いいよなぁ、あの二人は。あんなに可愛い彼女がいて、本当に羨ましいよ」
二階の観覧席に座る桜子と琴音の姿を見上げながら、健斗の同期部員たちが深いため息を吐いていた。彼らも学校のアイドルの桜子の事はよく知っているし、彼女が健斗の恋人である事ももちろん知っていた。それでも地味で見た目もイケていない健斗を見ていると、それはなにかの間違いなのではないかと半ば願望のような気持ちで見ていたのだが、さっきの健斗が桜子の服の中を覗き込んでいた姿を目撃すると、嫌でも二人の関係を思い知らされていた。
健斗が柔道部に入ってから目立った試合に出ていなかった事もあり、今まで桜子が試合の応援に来たこともなく、彼女を近くで見たことのなかった部員も大勢いた。特に今年入部の一年生は、健斗が学校のアイドルである桜子の彼氏であることを半信半疑で見ていたこともあり、さっきの二人の姿に思い切り衝撃を受けていたのだ。
「あの二人が付き合っていることは知っていたけど、実際に仲良くしているところを初めて見たよ」
「あぁ、あの木村があんな顔で笑うなんて……」
「本当だよな。あんなに無愛想な奴なのに、小林の前だと別人みたいだよな」
「木村先輩…… 自分はめちゃくちゃ羨ましいっす!! 自分もあんな可愛い彼女が欲しいっす!!」
「くっそう、お前さっきの見たか? 木村が小林の胸を覗き込んでいたんだぜ。小林なんて顔を真っ赤にしてたけど嫌がってなかったんだぜ。木村の野郎、普段からあんな事してんのかよ」
「み、見たよ、俺も。くっそう、あんな奴、もげちまえ!!」
どうやら健斗は、柔道以外の事で仲間たちからヘイトを集めてしまっているようだった。




