第167話 彼女を支えられる人
「そうだなぁ、ちょっと思い出してみてほしいんだけど、最近彼女が誰かを頼ろうとする様子は見られないかい? 誰かに近付こうとしたり、好きになったりとか」
浅野の言葉を聞いた途端、桜子は驚くと同時に思わず大きな声を出していた。
「ど、どうしてそれがわかるんですか!? 先生は本当に何でもお見通しなんですね、凄いです!!」
桜子が驚愕と憧憬の入り混じった視線で見つめていると、浅野はその透き通るような青い瞳に吸い込まれそうな錯覚に襲われた。
まず滅多にお目にかかれないほどの美少女に尊敬の眼差しで至近距離から見つめられた浅野は、彼女が自分の娘くらいの年齢の少女であるにも関わらず思わず見惚れてしまいそうになる。しかし背後にいる担当看護師の痛いほどの視線を感じて我に返ると、ゴホンと一つ咳ばらいをしながら表情を引き締めた。
「い、いや、これでも現役の精神科医だからね、そのくらいの診断が出来なければダメだと思うけど…… それにそんなに褒められると背中が痒くなるから勘弁してくれないか。……とにかくこれから話す事は大切だからよく聞いてほしいんだけど」
「は、はい」
突然改まった浅野の表情に桜子が背筋を伸ばしながら返事をすると、その姿を眺めながら浅野は滔々と言い聞かせるように話し続ける。
「いいかい? あくまでもこれは私の推測なんだけど、どうやらきみの友人は限界が近いらしい。とにかく彼女は自分を支えてくれる人、包んでくれる人、理解してくれる人を無意識に求めているはずだ。だからその行動はきっと彼女のサインなんだと思う」
「サイン……ですか?」
「そう、サインだ。その友達が無意識に出しているサイン。自分で自分を支えられなくなりつつある人間が無意識に出すサインだ。人は自分を支えきれなくなると無意識に他人に依存しようとし始めるんだよ。とにかく手遅れになる前に君がそれに気付いてあげられてよかったと思う」
浅野の説明がいまいちピンと来なかったのか、愛らしい顔の眉間にシワを寄せながら桜子が訊き返す。
「つまり、どうすれば良いんでしょうか? どうすれば彼女を助けられるんですか?」
まるでその質問を予測していたかのように浅野は淀みなく答えた。
「その子が寄りかかれる存在を作ってあげることだね。つまり気兼ねなく相談と依存ができる存在…… そうだね、言わば父親のような存在かな」
−−−−
カウンセリングが終わって自宅へと走る車の助手席で桜子は考えていた。
精神科医の浅野は、舞が増田を好きになった事は彼女が無意識に発するサインだと言う。それは一体どういう意味なのだろうかと桜子はずっと考えているのだが、なかなか考えが纏まらない。そもそも舞が増田を好きになる事と彼女の家庭環境の話がどう繋がるのか桜子には良くわからなかったのだ。
「ねぇ、桜子。さっきの友達の話って舞ちゃんの事でしょう?」
手放した小林酒店から持って来た愛車の軽トラを走らせながら楓子が娘に話しかける。
桜子が浅野に相談をしている時から彼女は興味深げにその話を聞いていて、楓子なりに色々と思うところもあった。それに舞の事は彼女が中学生の時から良く知っていたし、今では向かいの棟に住んでいるご近所さんでもあるのだ。そして小林家と同じように舞の家も母子家庭だったし、彼女が家計を助けるためにアルバイトをしてるところも自分の娘と同じだった。
だから他家の話とはいえ楓子にはどこか他人事のように思えなかったし、舞の境遇を思うと同情してしまって思わず涙が出そうになるほどだったのだ。
「……うん、そうなんだ。最近の舞ちゃんの様子がちょっと気になって…… 先生なら何かわかるんじゃないかと思って訊いてみたんだけど……」
「そうね…… 舞ちゃんの家は色々と複雑みたいだからね。まぁ、彼女のお母さんの話というか、噂を最近聞いたばかりだしね……」
どこか言い辛そうに口籠っていた楓子は、赤信号で軽トラを止めると桜子の方に顔を向ける。その歯切れの悪い話し方から桜子にはそれがあまり良い話ではないことが推察できた。
「噂? 何の? 舞ちゃんのお母さんの?」
母親の言葉に桜子が矢継ぎ早に質問を返すと、楓子はどこか迷ったような顔をしている。それでも桜子が答えを急かすような仕草をすると、彼女は重そうにその口を開いた。
「あのね、あくまでも団地の奥さん達の噂話でしかないんだけど…… 舞ちゃんのお母さんが近々再婚するらしいのよ」
「えっ…… そ、そうなんだ……」
母親が何やら言い辛そうにしているのでもっと突拍子もない話なのかと覚悟していた桜子だったのだが、案外普通の話だったことに安堵していた。それも新しい父親が出来るのであれば、浅野医師が言うように舞にとっては頼れる存在になるのだろうし、それはむしろめでたい話ではないのだろうか。
「でも、舞ちゃんがそれに反対しているらしいわよ。団地の玄関の所で舞ちゃんとお母さんが言い争いをしているところを近所の奥さんが目撃したんだって。この噂はもう団地中に広まってるみたいね」
「……」
詳しい事情を知らないので、桜子は舞の母親の再婚を単純にめでたい事だと片付けようとしたのだが、よくよく話を聞くとそこには色々と難しい問題がありそうだった。それも舞が反対をしているという事実にも何か理由がありそうで、そこも気掛かりだったのだ。
しかし噂に聞いたからと言ってこんな話を直接舞に訊いても良いものなのだろうか。
「舞ちゃんの家の問題だからあまり深入りは出来ないと思うけれど、それでも何か彼女を助けてあげられることがあれば協力してあげなさい。友達なんだから」
「うん、そうだね。何か舞ちゃんの力になれそうな事を探してみるよ」
その日の夜、桜子はベッドの中で考えていた。
家で舞が幼い弟妹に向ける笑顔は本物だろうし、彼らを心から可愛がっているのも良くわかる。それによって奪われる彼女の自由と時間を差し引いたとしてもそこに舞が幸せを感じているのは間違いないし、彼らと一緒にいる時間に生き甲斐を感じているのも疑いないだろう。
そしてそんな幼い弟妹は舞の事をもう一人の母親として頼り慕っていて、彼女もその事に喜びを感じている。しかしそこには舞自身が頼るべく母親の姿は無く、家では常に自分が頼られる一方の立場なのだ。
本来であれば親に寄り掛かっていても文句は言われないような未だ17歳の少女であるのに、家の中では常に頼られる方の立場で弱音を吐くことも許されない。それを想像するだけで彼女にとっては大きなストレスである事は間違いないのに、家から一歩出るとそこにも彼女の安らぎの場所は無いのだ。
類稀な美しい容姿を誇る彼女は常に異性からの好奇の視線に晒されて、彼女自身もそれを十分に理解しているし、むしろその美貌を誇るような様子も見て取れる。
桜子からすればそんな自らトラブルを招くような事は避けるべきだと思うのだが、常に家で抑圧されている彼女の反動なのだろうか、好んで自身の容姿を誇示するのだ。
少しでも隙を見せようものなら即座に異性から付け入られることが間違いない状況で、常に気を張って生活するのはとても骨の折れる事だ。そこに関しては桜子もここ最近理解して来たので身に染みて良くわかっている。
しかし舞は自らそんな状況に身を置くことを選んでいるし、むしろそれを楽しんでいるようにも見えるのだ。
このように世の男性に対して全く気を抜く事の無い舞なのだが、彼女は同性に対しても心を許す事がなかった。
舞の恵まれた容姿は常に同性からの憧憬と嫉妬の視線に晒されて来たし、彼女に対してあからさまな嫌がらせをしてきた女子も多かったと聞いている。
彼女はそんな女子達に対して自分から歩み寄る姿勢は一切見せないし、そもそも同性の友人をそれほど必要としていない彼女にとっては、親しくも無い女性にどう思われようと一切気にしていないようにも見えた。
つまり舞には本当の意味で心を安らげる場所もなければ、それを理解して支えてくれる人間もいないのだ。
本来であれば彼女の母親がその立ち位置であるはずなのに、聞けば幼い子供達の面倒を長女の舞に一方的に押し付けているようにも見えるし、事実一晩家に帰って来ない事も多々あるようだった。
母親の再婚相手が舞の良き理解者であればいいのだが、噂話から推察するにどうも舞自身が母親の再婚に反対している様子からそれはあまり良い結果にはならないような気もする。もっと彼女の口から実際にその話を聞いた訳ではないので何とも言えないところではあるのだが。
そう思いつつも、舞が心を許していて彼女を支えることが出来る人間を周りで考えた時に、やはり真っ先に思い浮かぶのがアルバイト先店長の増田だった。
なにしろ彼は当の舞から好きだと告白されている身分なわけだし、もちろんそこに至るまでには彼女も増田には心を許していると言うことなのだろう。
それに彼はまるで父親とも言えるほどに歳が離れていてその包容力も抜群のように見えるし、今はまだ業務上の関係とはいえ、扱い辛い舞と上手に付き合う術も十分に心得ている。
そして何より舞との信頼関係は既に築けていると言っても過言ではなかったのだ。
以上のことを冷静に考えると、もう桜子には増田ほど今回の件に適任の人間もいないように思えて仕方がなかった。
彼には彼の考えも言い分もあるのだろうが、ここは一つ何かしら協力のお願いをしてみようと思う桜子だった。




