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第165話 もう一人の母親

 7月中旬。


 ファミリーレストラン「アンアン・ミラーズ S町駅前店」店長の増田がアルバイト女子高生の東海林舞を自宅に送ってから一週間が経っていた。

 あれから舞はほぼ毎日仕事に顔を出していたが、団地の前での出来事に関して特に何も言って来なかったし、彼女からその話題を振られない以上増田の方からその話をすることもなかった。もっとも二人きりにでもならない限りそんなプライベートな話も出来なかったし、仕事中の二人がそんな状況になる事自体が無理な話でもあったのだが。


 ある日の夕方、土曜日の今日は昼からフル勤務になっていた桜子と増田が偶々(たまたま)同じ休憩時間になった。舞とは違い、桜子とは話がしやすかった増田はしばし二人で雑談を楽しんでいたのだが、その時ふと舞の事を聞いてみようと思い立った。


「小林さん、ちょっと訊いてもいいかな? 東海林さんの家庭の事なんだけど……」


「……女の子と二人きりの時に、他の女性の話をするんですか?」


「えっ……?」


「じょ、冗談ですよぉ、やだなぁ……」


 いや、そこはそんな冗談を言うタイミングではないだろうと一瞬増田は突っ込みそうになったのだが、その反応はもしかすると彼女はその話題を避けたいということなのだろうか。

 それでも桜子から明確に断られた訳ではなかったので、素知らぬ振りをしながら話を続けた。



「こんな事を訊いてごめんね、ちょっと気になったものだから。東海林さんのお母さんってどんな人か知ってる?」


「……私が話しても良いことなのでしょうか? そういう事は直接彼女に訊くべきでは……」


 増田の質問に対して桜子は眉をひそめて躊躇している。それはそうだろう、友人の家庭の事情をべらべらと喋って良いはずがないし、そんな事をして自分だってあまり良い気持ちはしないのだ。


「いや、それは十分理解しているんだけど…… なかなか彼女と二人になる機会がなくてね。それに先週彼女を家に送った時に少し気になる事もあったから、一応職場の上司として知っておかないといけないかとも思って」


「で、でも……」


「いや、もちろん無理にとは言わないよ。君から聞いた話は一切彼女には言わないし、嫌ならこれでこの話も終わりにしよう」


 桜子の可愛らしい顔が次第に(しか)め面に変わっていくのを増田は眺めていたのだが、そんな顔をしていても彼女の愛らしさは微塵も損なわれない様子に感心していた。

 答えを急かす事をせずに気長に彼女の答えを待っていると、やがて桜子が口を開いた。


「わかりました。あたしの知っている範囲で構わなければお話します」


 本当の事を言うと、桜子は舞の家庭環境や境遇について人に話すのは気が進まなかったのだが、増田の様子を見ていると彼が舞に対する理解を深めようと努力している様子が見て取れた。

 桜子は増田が舞に告白されたことを知っていたし、それに対して彼が色々と悩んでいることも知っていた。だから今回の事も、なんとか彼が舞を理解しようとしている姿勢の現れだと思ったし、その思いにはできる範囲で応えてあげたいと思ったのだ。

 



 桜子の口から語られた内容は、大凡(おおよそ)増田が想像していた通りだった。それでも彼女のおかげで詳しい話を聞くことが出来て、舞に対する理解は深まっていた。


 舞の母親は彼女が小学6年生の時に離婚をしたのだが、その時には既に舞の下には3歳の弟と2歳の妹がいたそうだ。外に働きに出なければいけない母親に変わって、舞はその時からずっと弟達の保育園のお迎えから夕食の準備の他、家事全般を担ってきた。

 弟妹(ていまい)が病気になった時には母親の代わりに学校を休んで病院に連れて行ったり看病をしたりもしていたし、母親が家にいない時には常に一緒に過ごしていたので、幼い彼らにとってはもう一人の母親のようなものだった。


 しかしそのせいで舞は中学の時は部活や委員会に所属することは一切出来ずに、放課後はすぐに家に帰る生活を続けていたし、友達と呼べる人間は極端に少なかったのだ。

 もっとも友達が少ない原因は、彼女の少々特異な性格によるところが大きいのだが、それも抑圧され続けた生活の反動なのだと思えば彼女を責めることもできないのだろう。


 舞が高校生になると一番下の妹も小学校に入学したので、放課後は小学2年生の兄と二人で自宅に帰って来られるようになったし、それから洗濯物を畳んだり、家の掃除をしたりといった二人にできる範囲の手伝いをしながら姉の帰りを待つ事もできるようになった。

 それでも夕食は舞が帰って来てから作り始めるのでいつも夜の8時を過ぎているし、それから弟妹を風呂に入れてから寝かしつけるまで彼女は自分の事など一切出来ずに過ごしているようだった。

 

 

 桜子の話を聞いているうちに、増田は自分の中で舞に対する印象が大きく変わっていくのを感じていた。

 彼女はまだ17歳の女子高生だというのに、放課後は毎日アルバイトで働き、家に帰っても幼い弟妹の世話をするうちにその日は終わってしまう。そしてまた翌日からも同じ毎日の繰り返しとなるのだ。一体彼女は何時自分の事をする時間があるのかわからないほど家族のために尽くしている。


 舞はスタイルは抜群だし、見たことがないほどの美少女だ。

 その大人びた独特の雰囲気は並み居る男たちを手玉に取りそうな雰囲気を醸しているし、なんとなく近寄りがたい部分があるのも確かだが、その裏側にはそんな苦労があったとは想像だにしていなかった。


 それにしても、と増田は思う。

 家の中と外でまるでスイッチで切り替わるように性格が変わるのは、一体どういうことなのだろうか。

 桜子もそれに関しては以前から不思議に思っていたらしいのだが、結局彼女にはその理由はよくわからないらしい。


 それには何か意味があるかもしれないし、もしかするとそこには彼女なりの心の闇があるのかもしれない。

 そこに思いが至った増田は、舞の事が気になって仕方がなくなってしまったのだった。




 

 7月下旬。

 

 高校はそろそろ夏休みに入る時期になっていて、何となく浮ついた雰囲気が漂う教室内で皆それぞれが休み中の予定を話し合ったりしていた。

 桜子は休みの前半は夏期講習を受ける事になっていて、その他は只管(ひたすら)アルバイトに精を出す予定だ。健斗も同じく前半は夏期講習を受けるのだが、それよりも8月中旬に行われる柔道の大会に向けてより一層練習にのめりこんでいた。


 顧問の木下の言う通り、この大会での結果如何(いかん)によっては大学への推薦も受けられないかもしれないかと思うととにかく健斗は必死だった。

 すでに大会の個人戦への出場切符は手に入れているので後は結果を出すだけなのだが、同じ階級には剛史も同時にエントリーしているので、そこで優勝するという事は剛史にも勝つという意味になるのだ。

 そしてそれが今の健斗には頭の痛い問題だった。


 確かに中学3年の時の大会で一度剛史には勝っているのだが、あの時は彼の体調が最悪だったのが原因だし、もしもあの時剛史の体調が万全だったとしたら、ほぼ健斗には勝ち目は無かった筈だ。

 実際に日々の練習を彼と一緒にこなしてきた健斗には、今の自分ではどう足掻いても敵わない事はわかっていたし、剛史自身も同じ相手に二度負けるなどという不名誉は絶対に許さないだろう。


 絶対に勝てない相手に勝たなければ自分の未来は見えてこない。

 大会までの残り3週間、健斗には只管(ひたすら)練習に打ち込むしか無かった。




 ----




 今日は桜子の心理カウンセリングの日だ。

 昨年の痴漢事件以降、彼女が浅野医師の元で心理カウンセリングを受けるようになってから既に1年以上が経過していて、当初は週に一度の来院も今では2週間に一度で済むまでになっていた。


 現在の桜子の状況は、密着する状態でなければ満員電車に一人で乗ってもある程度は平気なほどになっていて、最近は通学時でもそれほど気を使わなくても済む程度まで回復していた。それは昨年の痴漢事件以前と同程度まで回復したという事で、バイト先の休憩室で男性社員と二人きりになっても平気である事がそれを証明している。


 それでも痴漢に触られた脚や胸、お尻などに男性が実際に触れた場合に一体彼女がどうなるのかは実際に試してみなければわからないので、ここはそろそろ健斗の出番かというところらしいのだが、肝心の桜子本人がそれに難色を示しているのだ。

 とにかく母親や医師がいるところで健斗に身体を触らせる場面を想像するだけで冷静ではいられないのに、実際にそんな事をしたら恥ずかしさで死んでしまうかもしれないと本気で思っていた。



「まぁ、それはいま無理に試す必要もないでしょう。いずれお嬢さんが恋人君と自然にそうなれるように我々は応援してあげればいいじゃないですか」


 桜子の順調な回復具合に満足そうな笑みを浮かべながら浅野医師が楓子に話しかける。すると彼女はなんとも言えない複雑な表情で浅野の顔を見返していて、隣で顔を赤くしている一人娘の様子を流し見ていた。

 確かに娘の回復具合はそれなりに順調らしいので母親としてもそれは安心するところなのだが、桜子が恋人の健斗と身体を触れ合えるようになると、それはそれで別の心配事が増える事を意味するのだ。


 とはいえ、彼らももう17歳の高校2年生だし、世間一般の高校生カップルであればそれなりにもう経験はしているのだろうが、それが自分の娘の事となると話は別なのだ。

 彼らがお互いを愛する過程で肉体関係になるのは自然なことだし、それは人を愛する経験値を積み増すうえでも必要なものであることは楓子も十分に理解できるのだが、やはり可愛い娘の母親としては理性よりも感情が先走ってしまう。


 しかし自分が娘と同じ歳の時には既に二人は経験していたことを考えると、あまり偉そうにも言えないのは事実だし、相手が0歳の赤ん坊の頃からよく知っているあの健斗であることを考えると、これ以上心配するのはむしろ過保護になってしまうのだろう。

 いずれにしても、桜子の病気が良くなったからといってすぐに彼らが肉体関係を結ぶとも限らないし、そうなったらなったでそれを受け入れるしかないと思うのだ。もうこれ以上は彼らの判断に任せるべきなのだろうと楓子は考えていた。


「そうですね。とりあえず娘の病気が順調に回復している事がわかっただけでも満足です。先程の件については娘達に任せようと思います」 


「わかりました。それでは今後の治療方針を次回までに考えておきますね。今日はお疲れ様でした」




「あ、あの、少し訊いてもいいですか?」


 カルテに何かを書き込んでいた手を止めた浅野医師が小林親子の方を見ながらニコリと笑いかけていると、桜子が遠慮がちに話しかけてきた。心理カウンセリングが終わったばかりで疲労の色が濃く出た顔で、浅野の顔を上目遣いに見つめている。


「あぁ、なんだい? 何か心配事でもあるのかな?」


「いえ、あのぅ…… あたしの病気とは全然関係がないんですけど、少しだけ聞きたいことがあって……」


「うん? どうぞ、私に答えられることなら何なりと」


 遠慮がちに訊いてくる桜子を安心させるように浅野がニコリと笑いかけると、それに少し安心したのか彼女はおずおずと口を開いた。



「あの…… 家の中と外で性格が変わる人っているんでしょうか?」


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