第164話 舞の家庭の事情2
7月上旬。
アンアン・ミラーズでのアルバイトを終えた舞が自宅へ帰ろうとしていると、後ろから店長の増田が話しかけて来た。振り返った舞の顔にはどこか意味有り気な笑みが溢れていて、それを見た増田は思わず気圧されそうになっている。そんな増田の顔を見つめて、舞はその美しい顔に妖艶な笑みを浮かべながら口を開いた。
「あら店長、お疲れ様。なにかしら?」
「い、いや、今日は急に残業をお願いして悪かったと思ってね。君はいつも急なお願いにも快く応じてくれるからとても助かっているんだ。ありがとう」
「いえ、いいのよ。私はお給料が貰える、あなたは助かる。ウィンウィンなんだから何も気にする事ないのよ」
「あ、あぁ、そうだね。そう言ってくれると助かるよ」
どうも増田は舞の前に立つと緊張してしまう。
もともと彼女の人を見透かすような視線と心を読まれているかのような話し方がどうにも苦手だったのだが、さらに約2か月前に突然の告白をされて以来ずっと彼女の事を意識してしまって、余計に緊張するようになってしまった。
あれから増田に何も言って来ない舞を見ていると、彼女が一体何を考えているのかわからなくて戸惑ってしまっていたし、お互いに意識し合っているのがわかっているのに敢えて何も言わないままなのにも、最近の増田は疲れてしまっていた。
「今日はいつもよりだいぶ遅い時間になってしまったから、東海林さんの家まで送ってあげるよ」
「あら、いいのよ店長。夜道もべつに怖くもないし」
「いや、今日はもうこんな時間だし、職場の管理者としてこんな遅い時間に女子高生を一人で帰せないよ。ボロい軽自動車で悪いけど、家まで送って行くから乗ってくれないか?」
「……なにか企んでない? ……もしかして、エッチな事がしたいの? 店長ならいいわよ」
「えっ!!」
「ふふふ…… 冗談よ。本当に店長は面白いわね」
「……じょ、冗談はやめてくれよ、まったく……」
まるで人を食ったような態度を見せる舞の姿を眺めながら、増田は彼女の事を考えていた。
この少女の容姿は本当に美しい。
美しいと言っても桜子のように可愛らしさや愛らしさが先に立つタイプでは無く、彼女の場合は純粋に「美人」なのだ。少々気の強そうな釣り目がちの瞳も、スッと通った鼻筋も、少し薄めの唇も、その全てがバランス良く美しく配置されていて、普段から薄く化粧を施されたその顔は、実際の年齢以上に大人びて見える。
そして顔だけではなくその体型もまるでモデルのようなのだ。
身長170センチはあるだろうスラっと背の高いスタイルと長い手足に、異性の興味を引くのに十分なほどに発達した胸と腰回りを見ていると、彼女がまだ高校二年生とは思えないほどだった。
そして彼女も自分の恵まれた容姿を十分に理解していて、男達の視線を集めている事もそれなりに承知しているようだ。悪い男が寄ってこないかなど傍から見ていると少々心配になってくるのだが、彼女の美貌を隠しおおせる術もない現状では彼女はむしろそれを楽しんでいる様子も見て取れるのだ。
それは決して良い趣味だとは言えないのだが、個人の趣向に対して増田が何かを言う権利も無ければそもそも言うつもりもなかった。
「……店長、どうしたの? もしかして疲れてるんじゃない?」
舞の容姿を見つめながらぼんやりとそんな事を考えていた増田は、怪訝な顔で声をかけてきた彼女の言葉に我に返ると、正面から自分の顔を覗き込むようにしている舞と目が合ってしまう。
しかし今の彼女はいつもとは違って、人をからかうような妖艶な笑みを浮かべてはおらず、純粋に増田の様子が気になっているようだった。そして彼女がそんな顔をすると、年相応の少女の顔に見えた。
「あぁ、ごめん、さぁ帰ろうか。車を回すからちょっと待っててくれ」
一瞬垣間見えた舞の素顔にドキッとした増田だったが、気を取り直すと車を取りにレストランの裏手へと歩いて行った。
最近増田は中古の軽自動車を購入していた。
自宅と職場の距離は歩いても5分程度しかかからないのだが、日中に移動の足が必要になることが度々あったために、思い切って自家用車を購入したのだ。
しかしもともとの運動不足と不規則な食生活から最近は体重も増加気味だったのが、通勤まで車にしたせいでより一層体重の増加に拍車がかかりそうで怖かった。
それでも一度車通勤を経験してしまうともう元の徒歩には戻ることが出来ず、最近ではちょっとした短い距離でも車に頼るようになってしまっていた。
「今日は本当にすまなかったね。急に頼んだけど問題はなかったのかい?」
舞の家までは車で10分もかからない。
増田はその短いような長い時間を繋ぐための話題を探そうと努力したのだが、結局口を突いて出たのは舞への謝罪の言葉だった。
「何度も言わなくても大丈夫よ。私の予定は変更できたし」
そんな増田の努力を知ってか知らずか、舞は事も無げに答えている。
「そうか。……予定って、今日は何か予定があったのかい?」
「いいえ、予定というほどの事では無いわ。弟と妹にご飯を食べさせるだけだから。母に連絡をしたら今日は早く帰れるって言っていたから、お任せしたの」
「そ、そうか……」
その言葉に、増田には彼女の家庭環境が垣間見えた。
もともと彼女の家庭環境があまり恵まれていない様子を薄々気付いてはいたのだが、舞とそんなプライベートな話をする機会も無かったし、最近は二人きりになるとまた気まずい思いをしそうだったので、何となく彼女と二人きりになる状況を避けていたのだ。
しかし、職場の上司としてはアルバイトとはいえ部下の家庭環境も把握しておくべきだろうし、これは決して彼女に興味がある訳ではないと増田は自分に言い聞かせていた。
「お母さんは? いつも帰りは遅いのかい?」
「母はいつも遅いわね。早くても夜の9時過ぎだし、それまで夕ご飯が食べられないのは弟も妹も可哀そうだもの。だからいつもは私が食べさせているのよ」
「そうか、東海林さんは偉いんだな。僕が高校生の時なんて自分の事もロクに出来なかったのに……」
それから少し舞の家庭の事情を聞いていた増田の中で、彼女に対するイメージが大きく変わり始めていた。
一年以上も前の事なのですっかり忘れていたのだが、初めて彼女がアルバイトの面接に来た時に働く目的を聞いた事があった。その時彼女は確かに家計を助けるためだと言っていた。
当時は面接相手に好印象を与えるための口実くらいにしか思っていなかったのだが、今思えば彼女は本当の事を言っていたのだろう。
そもそも舞の容姿を初めて見た時もそのあまりの美しさに増田は度肝を抜かれたものだったし、少々釣り目がちとは言え、その整った美しい顔立ちとモデルのようなスタイルに思わず見惚れてしまったのも事実だった。そんな彼女の口から家計を助けるためだなんて言葉が出ても、それは適当な言い訳にしか聞こえなかったのだ。
ちなみに高校の制服で面接に来ていた舞が、ウェイトレスのコスチュームに着替えた姿を初めて見た時の衝撃は今でも忘れられない。
誰がデザインしたのかは知らないが、胸の部分を強調するようなウェイトレスのコスチュームは増田も嫌いではない、いや、むしろ好きだったが、その装いに身を包んだ舞の姿はまさに圧巻だった。
増田も含めて職場の男性陣の全員が、始めて見る舞のウェイトレス姿に鼻血を吹きそうになるほどに凄まじい迫力だったのだ。
推定Eカップはあるであろうその巨乳をどーんと大胆に突き出した姿はまさに圧巻で、身長170センチのスラリと背の高いモデルのような体型にも目が奪われたものだった。
そしてそれは客にとっても同じだったようで、舞がアルバイトを始めてから来客数が増えたことが売上の数字にも現れているのだ。もしかすると偶然なのかもしれないが、それにしてもそれまでターゲット外であった男性客の来店数が伸びている事が如実にそれを物語っていた。
彼女一人でももちろん見る度に目の保養になっているのだが、さらに途中から入って来た桜子と二人で並んでいると、最近客から聞こえてくる「アンアン・ミラーズの天使と女神」の呼び名もあながち間違ってはいないと思うのだ。
「店長、大丈夫? なんだかボーっとしてるみたい。やっぱり疲れているんじゃない?」
またしても思考の底に沈んでいた増田が交差点の赤信号をボーっと見つめていると、舞が心配そうに顔を覗き込んでくる。
そんな顔をしてる時の舞は年相応に幼く見えて、どんなに彼女が大人びて見えても結局は17歳の高校二年生でしかないのだなと思い起こさせるものだった。そしてそんな顔を見ていた増田は、何となく先日の話の続きをしてみたくなった。
「あのさ、東海林さん。こないだの話なんだけど……」
「……やっと店長からその話が出てきたのね…… 私はずっと待っていたんだけど、店長がそれを避けているように見えたから、てっきり私は……」
横に座る舞を見る増田の目には、いつもの自信に満ち溢れた表情が消え去って何かに怯えるような幼い少女にしか見えなかった。
今に限って妙にか弱く見える舞の姿を見つめながら増田が口を開こうとしていると、彼女の方から先に口を開いた。
「店長、信号が青になったわよ」
結局その後の五分間は二人とも何も話さないまま、気が付けば舞の住む団地の前に到着していた。
せっかく二人きりになることが出来たのに、増田には何一つ先日の話の続きをすることも出来なかったし、舞からも何も言ってこなかった。
「東海林さん、着いたよ。それじゃあ、また明日。今日はお疲れさまでした」
「……お疲れ様でした。今日は家まで送ってもらって悪かったわ…… あれ? ちょ、ちょっと!!」
増田への言葉もそこそこに、突然舞が慌てたように車から降りると団地の入り口の方へと走って行く。何事かと思った増田も思わず車から降りて舞の後を追いかけていくと、そこにはまだ幼い少年と少女の姿があった。
その二人は舞の姿を見つけるや否や走り寄って来ると、彼女の身体にしがみ付く。
「あぁーん、お姉ちゃん遅いよぉー、お腹減ったぁー!!」
「うぁぁーん、おねぇちゃーん、もう帰って来ないかと思ったよぉー!!」
「そ、颯太!! 日葵!! こんな時間にどうしたの!? お母さんは!?」
「お母さんはまだ帰って来てないよ。お姉ちゃんも帰って来ないし、怖かったんだよぉ…… うあぁぁん」
現在夜の10時15分、凡そ小学1、2年生の子供が起きて外をうろついている時間では無いし、ましてやそんな子供が夕食も食べさせてもらえずに待っているのもまともな状況ではなかった。
舞が幼い弟妹を抱き締めながら謝っている姿を見ていると、増田には大凡の状況が理解できたのだが、それは彼の目から見ても憐れみを誘うものだった。
彼らから聞こえて来る話から推察すると、弟妹にいつも夕食を食べさせている舞が急にバイト先で残業をお願いされたので、急遽母親に連絡をとったらしい。そこで今日は母親が早く帰って夕食の支度をするはずだったのに、結局彼女はこの時間になっても帰ってこなかった。
そこでお腹を空かせた幼い弟妹は、姉が帰って来るのをずっと団地の前で待っていたようなのだ。
「ごめんね、ごめんね…… お腹空いたでしょ? 寂しかったでしょ? すぐにご飯を作ってあげるから、お家に入ろうね」
あのいつもツンと澄ましている舞が、目に涙を浮かべながら幼い弟妹たちを抱きしめている。
その様子はいつも飄々としてほとんど感情を表に出さない職場での彼女の姿からは想像できないものだったし、いまの彼女が本当の舞なのだと思うと増田の中で何かが変わっていくのが感じられた。
「東海林さん、僕はもう帰るから弟達にご飯を作ってあげてくれ。それじゃあ、また。お疲れ様」
「あっ、店長…… 今日はありがとうございました。こんなところを見せてしまって……」
「いや、とにかく早く家の中へ入りなさい。それじゃ」
増田は自宅へと車を走らせながら、舞の事を考えていた。
さっき見た舞はいつもの彼女とは違っていたし、感情も素直に表に出していたように思う。
と言う事は、普段のバイト先での彼女は本当の彼女では無く、意図的に作られたものなのだろうか。もしそうであるなら、一体何のためにそんな事をしているのだろうか。
増田から見た舞は何を考えてるのかわからないところも多く、到底理解が及ばなさそうな少女に見えていたのだが、それは彼女の作られた姿であって本当の東海林舞では無かったという事なのだろうか。
考えれば考えるほど、舞という少女の事がわからなくなる増田であった。




