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第162話 大学の推薦の条件

「健斗はどこの大学を目指しているの? 体育大学なら一番近くても確かI県だったはずだから、健斗は一人暮らしをするんだね。……そっかぁ、あたしたちは遠距離恋愛になるのかぁ……」



 桜子の言葉に、健斗はとても大変な事に気付いていた。

 まだどこの大学に行くかも決めていなかったが、体育教師になるための大学は全国にもそう多くはないはずだし、仮に桜子の言う一番近くのI県の大学だとしても、そこまでは特急列車で三時間はかかる距離にあるのだ。それではとても実家から通う事など出来ないし、Y教育大学に通う彼女とは確実に遠距離恋愛になってしまうだろう。


 もちろん恋人と離れる事も辛かったが、なにより健斗は桜子の事が心配だった。

 桜子はとても可愛い。見た目に関しては今更言う事も無いが、彼女はその性格もとても可愛らしく、それがより一層人を魅了するのだ。

 だからそんな彼女が一人でいれば幾らでも男は寄って来るだろうし、場合によってはトラブルになる事もあるだろう。


 そんな時に自分が近くにいてあげられないのがとても心配だし、そんな状態に自分が耐えられるかも自信が無かったのだ。今までを振り返ると、彼女を守ると偉そうな事言っておきながら結局守れなかった事も多かったし、今だって何か桜子の役に立っているのか疑問な部分も多かった。

 それでも基本的にはいつも彼女の近くにいたし、いざという時にはすぐに駆け付けられる距離にはいたのだ。それに1歳の時からずっと傍にいたのに、こんなにも離れて暮らすのは初めてだった。



 さっきまでの浮かれ具合もどこへやら、健斗は桜子が何気なく洩らした一言に打ちひしがれて、彼女の顔を呆然と見つめている。


「い、いや、まだどこを受けるとかも考えていないし、もしかしたらもっと近くにそんな大学があるかも知れないしな」


 何気に明るい声を出している健斗だが、その姿はどこか必死に自分自身を落ち着かせているようにも見える。桜子はそんな彼の姿を眺めながら、小首を傾げて何かを考えているようだった。



「そう言えば、さっき推薦を受けるって言ってたけど、健斗は私立大学にするの? 確かY教育大学にもそんな学科があったような気がするけれど……」


「いや、国立の推薦枠はとても狭いからさ。俺は私立一本でいこうと思ってる」


「そっかぁ…… 健斗もY教育大にしたらまた一緒に通えると思ったんだけどね……」


 桜子がとても残念そうにしているのだが、本当に残念なのは健斗の頭だとは、横で二人の会話を聞いている幸の口からは絶対に言えなかった。



「それはそうと、どうして健斗は急に体育の先生になりたいだなんて思ったの? いままでそんな話は一度も聞いた事がなかったと思うけど」


「あぁ、それはさっき思いついたばかりだからな」


「そ、そうなんだ…… ずいぶん急な話だったんだね……」


 桜子は健斗の急な思い付きに何と返事をすればいいのかわからずにいると、健斗がぼそりと呟いた。


「俺…… 木下先生みたくなりたいんだ。あの人は柔道も強いし、生徒にも人気があるだろ?」


 その言葉を聞いた桜子の顔に、パッと理解の色が広がった。

 彼の短い言葉を聞いただけで、桜子には彼が言わんとしている事が大凡(おおよそ)理解できた。思えば健斗は柔道部顧問の木下の事をとても慕っていて、彼の指導には全面的に従っているし、最近は柔道以外の事でも気軽に相談できる相手にもなっているようなのだ。


 以前から健斗の会話の端々に木下の事を信頼している様子が垣間見えていたし、健斗が慕うような大人なのだからきっと人としてとても大きな人なのだろうと桜子も思っていた。


 

「うん、そうだね。木下先生は学年に関係なく生徒に人気があるし、健斗があの人みたいになりたいと言うのもわかる気がするよ」 


 実は去年の痴漢事件の時に、桜子が犯人へ暴行しているところを木下に止められた事があった。しかしあの時の桜子の意識は秀人に切り替わっていたし、その後の学校側の対応の際も木下とは直接話をすることは無かったのだが。 


 それでも彼が途中で止めてくれたおかげで過剰防衛で警察に咎められる事もなかったし、その後の裁判でもその点については誰も触れる事はなかった。しかしもしもあのまま誰にも止められずに秀人がやり過ぎていたとしたら、もう少し話は違っていたかも知れないのだ。

 それを考えると、木下はある意味桜子の恩人とも言える人物でもあった。



「そっかぁ…… 健斗は木下先生に憧れているんだね。あの人みたいになりたいんだね。それってとっても素敵な事だと思うよ。自分の将来なんて、案外そんな風に決まるものなのかも知れないね」


 桜子が健斗に向かって屈託のない笑顔で笑いかけてくる。

 体育教師になりたいという発言は実際には健斗の咄嗟の思い付きでしかなかったが、桜子の言葉を聞くうちに本当に木下のようになりたいと思い始めた健斗は、彼女の笑顔を眩しそうに見つめていたのだった。





 翌日の放課後、健斗が部活の練習を始めていると、遅れて顔を出した顧問の木下が話しかけて来た。


「おぅ木村、話は聞いたぞ。お前、体育教師になりたいんだってな」


 練習の手を休めて健斗が振り返ると、相変わらず男らしい豪快な笑顔を浮かべた木下が立っていて、目を細めながら健斗の姿を眺めていた。


「あっ、先生…… 内田先生から聞いたんですか? 昨日の進路相談で話したんです」


「あぁ、そうだ。それでお前に少し話があってな。いまちょっといいか?」




 武道場の片隅に置いてあるベンチに腰を掛けると、早速木下が口を開いた。


「お前、本当に体育教師になりたいのか? どうしてなんだ?」


「あっ、いや、それは……」


 木下の質問に思わず健斗が口籠ってしまう。

 まさか本人を目の前にして「木下先生に憧れているから」とは、照れ臭くて自分の口からは言えなかったし、あの時はただ漠然とした思いを口にしただけで何一つ具体的な事は考えていなかったのだ。


 しかしそんな健斗の姿を見た途端、木下は豪快に笑い始めた。


「ははははは、お前の口から言わんでいいぞ。心配するな、それも内田先生から聞いているからな。なに、お前、俺のようになりたいんだってな。俺に憧れているのか? そうかそうか、なんだかそれは嬉しいな。ははははは」



 目の前の木下が豪快に笑っているのを呆気に取られた健斗が眺めていると、一頻り笑った木下は突然健斗の肩をポンポンと叩く。


「あぁ、笑って悪かったな。俺もちょっとだけ恥ずかしかったから、まぁ、照れ隠しだと思ってくれ。人に憧れているなんて言われたのは初めてだったしな。……それで、お前本気なのか?」


「はい。まだ何も具体的な事は決めていませんが、体育の先生になりたいのは本当です」


「そうか…… 隣町のY教育大学にも体育学科があるはずだが、そっちはどうなんだ?」


「……さすがに国立はちょっと…… あまりにもレベルが高すぎて、俺には無理だと思います」  

 

 健斗は自分の学力を十分理解しているので、国立大学を普通受験で合格する自信など全く無かったし、もとより彼が2年の進級時に文系クラスを選択した時点で既に手遅れだったのだ。

 文系クラスの授業数では国立大学を受験するには科目数が足りないので、その分を独学でカバーしなければいけないのだが、定期試験ですら桜子の手伝いでやっとクリアーしている彼にそんな事は土台無理な話なのだ。


 そして木下も健斗の学習面での残念さを知っているので、今の話は軽い様子見のつもりなのかも知れなかった。



「なるほど…… それで内田先生は私立の推薦の話を俺に訊いて来たんだな、わかったぞ」


 ふむふむと木下が頷きながら何かを考えている。


「そうだな…… お前、俺の後輩になる気はあるか? 俺の出身大学なら多少は顔が利くんだが」


 その言葉に健斗が申し訳なさそうな顔をした。


「先生の出身大学って…… どこでしたっけ?」


 健斗の言葉を聞いて、木下はズルっとズッコケるようなリアクションをしていた。

 そんな少々お茶目な部分もある木下なのだが、身長180センチ体重90キロ超の体格でそれをすると結構な迫力があるので、ふざけた彼は時々3歳の愛娘を泣かせてしまう事もあり、よく10歳年下の奥さんに怒られているのだ。


「……おいおい、お前、俺に憧れているとか言いながら、俺の出身大学も知らんのか」


「す、すいません……」


 木下が思わず胡乱(うろん)げな顔で見つめると、健斗はバツの悪そうな顔をしながら頭を掻いている。それから木下は小さなため息を吐きながら話を続けた。



「俺の出身大学はI体育大学だよ。たぶんこの高校からだと一番近い私立の体育大だと思うぞ。まぁ、近いと言っても特急列車で三時間はかかるけどな」


「I体育大学……」


 その時彼は、I県に体育大学があると桜子が言っていたのを思い出した。 

 そこは健斗たちが住むS町から一番近い私立の体育大学で、体育教師になるための体育系の教職課程も設置されている。

 もちろん桜子が目指しているような国立の教育大学であれば、同じように体育系の学部も設置しているところがほとんどなのだが、健斗の学力ではそれは無理だと言う事で早々に諦めていたのだ。


 全国に教職課程を持つ大学は数あれど、体育教師になるための学部を設置しているところはそう多くはなく、特に国立大学の場合はもともと募集人数も少なく非常に狭き門なのだ。

 しかし国立に比べるとまだ健斗の手が届きそうな私立の体育大学が近くにあった事はとても幸運な事だと言えた。

 しかもそこは木下の出身大学だと言う事で、目の前の彼から直接詳しい話が聞けることに健斗は興味津々の面持ちで木下の事を見つめていた。



 どうやら健斗がこの話に興味を持ちだした事がわかった木下は、それからI体育大学の概要や推薦に必要な条件、試験科目などの説明を始める。すると健斗は木下の言葉の一字一句を聞き逃さないように、まるで食い入るようにその話を聞いていた。


「それで、恐らくお前が一番興味があるだろう推薦の話なんだが……」


 遂に木下が健斗が一番知りたいであろう話の核心に近付くと、健斗はゴクリと唾を飲むような仕草を見せながら前のめりになっていた。健斗の担任の内田には良くわからないという事で回答を先延ばしされたのだが、木下はこの場にその回答を持って来たようだ。

 食い入るように自分を見つめている健斗の様子を観察しながら、木下は口を開いた。



「お前の成績の評定は内田先生に見せて貰ったが、まぁ、お前にしては頑張っていると思うぞ。これならまずは推薦の条件の一つ目はクリアーしているな」


 その言葉に健斗の顔にパッと明るい色が浮かんだのだが、すぐに彼の顔に怪訝な表情が浮かんだ。


「……条件の一つ目? ……と言う事は、その他にも何か条件があるんですか?」


 その時木下の顔にニヤリとしたあまり(たち)の良くない笑顔が浮かんだ。

 その顔は健斗も部活の最中に良く見る顔で、木下がその顔をする時は大抵禄でもない事を言い出すのだ。彼がここでその顔をしたという事は、この後に何かとんでもない事を言い出すのは目に見えていた。

 

 健斗が今日二度目に唾をゴクリと飲み込んでいると、木下がゆっくりと口を開いた。



「お前、今年の夏の大会で優勝しろ。それが推薦の条件だ」


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