第161話 彼氏、とても大変な事に気づく
6月中旬。
桜子と健斗の進路相談の日。
「はっきり言って、小林さんの成績は完璧と言っても差し支えありません。授業態度から勉強に対する姿勢、課題の提出まで全てが完璧ですし、特に苦手科目の無い今の成績であれば、あの国立最難関のT大学も十分に狙えますよ」
桜子の担任は鼻息も荒く、両手を強く握りしめて力説してくる。
桜子はこの高校では入学直後から生徒の間でも教師の間でも有名だった。生徒達からはとにかく最高に可愛い新入生が入学して来たと話題を攫っていたのだが、教師達の間では少々事情が異なっていたようだ。
偏差値50前後の決して進学校とは呼べないこの有明高校に、入学試験の全科目でほぼ満点を叩き出しながら入学して来た生徒がいると、教師たちの間で彼女は有名になっていたのだ。
それでも入学当初の桜子のあまりの美少女ぶりとその「ゆるふわ」なイメージの為に、それは何かの間違いだろうと一部の教師は眉に唾を付けていたのだが、その後の定期試験で彼女が全科目満点を叩き出したのを見ると一気に職員室中の話題を攫っていた。
そして彼女の本来の志望校が実は地域最難関の北高校だった事が判明すると、一気に教師たちの熱は上がり、是が非でも桜子をこの高校初のT大学合格者にしようと息巻いていたのだ。
しかし担任の言葉を聞いた桜子は、何やら申し訳なさそうに答えている。
「いえ、T大学には行きません。あたしは隣町のY教育大学に行って学校の先生になりたいんです」
「い、いやしかし…… 教師になりたいのであれば、T大学の教育学部の道もあると思うけれど……」
「いえ、Y教育大学がいいんです。あそこは国立大学だから授業料の負担も少ないですし、場所も電車で二駅の所なので自宅から通えますから。T大学だと一人暮らしになるので、仕送りやアパートの家賃などで母に負担をかけてしまいます」
「さ、桜子、お金の心配はしなくても大丈夫なのよ……」
そこで楓子が遠慮がちに口を挟んだのだが、桜子は母親をチラリと一瞥しただけですぐに担任に視線を戻していた。
桜子の言う事は至極もっともだった。
T大学に通うとなれば必ず実家から出る事になるので、授業料の他に生活費の仕送りからアパートの家賃まで余計な出費が増えてしまう。
しかしY教育大学であれば自宅から通えるうえに、教師になりたいという彼女の夢を叶える点ではどちらもそれほど違いはないのだ。それに無理をしてT大学に行ったとしても、それで得られるものは精々難関大学を卒業したという肩書と満足感以外には思いつかなかった。
もとより桜子はそんな肩書などには全く興味が無かったし、それどころか、人よりも目立つ事を極端に嫌っていたのだ。
だからそんなどうでも良い事で注目を浴びるのは真っ平御免だったし、自分にとって価値の無いものにお金を払うほど桜子は大らかではなかった。
それに母娘二人きりの今の状況で大学まで行かせてもらえるだけでも贅沢だと思っていたので、可能な限り経済的な負担をかけずに自分の夢を叶える方法を検討した結果が、このY教育大学への進学だったのだ。
生徒の口から金銭的な話をされると、担任はそれ以上何も言えなくなってしまった。
小林家が母子家庭である事は彼も知っているし、母親に経済的な負担をかけたくないという桜子の気持も十分理解できるのだ。そして無理にT大学を勧める合理的な理由も今の彼には思いつくことが出来なかった。
「そうですか…… わかりました。とりあえず今の時点での小林さんの希望はY教育大学への進学でよろしいですね? ……それでも一応T大学も視野に入れてみてください」
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一方、2年6組の教室では、健斗と幸が担任の前に座りながら緊張の面持ちを隠す事が出来ずにいた。
健斗の柔道にかける情熱は本物だし、そのためにこの有明高校に入学して来たのだが、こと勉強に関しては彼の頭はお世辞にも良いとは言えなかったのだ。
そして幸には健斗が担任に何を言うのか全くわかっていなかった。
「えぇと、まず木村君に確認するけれど、君は進学希望ですか?」
「は、はい。進学希望です」
「それは専門学校ですか?」
「いえ、違います」
「……私立の文系大学かな?」
「いえ、違います」
「……もしかして国立大学? それならクラスが違うと思うけど……」
担任が怪訝な顔をしながら健斗と幸の顔を交互に見ている。
ここ文系クラスでは国立大学を受けるだけの授業内容が不足しているので、自力でそれを補わなければならない。そもそも国立を狙うのであれば2年生への進級時に理系クラスに行っていなければいけなかったはずだし、彼がこのクラスにいるという事は理系大学を希望しているわけでもなさそうだ。
「それじゃあ……」
「俺、体育教師になりたいんだ。だから体育大学に進学希望なんです」
「えっ!?」
健斗の担任教師を前にしている事も忘れて、幸は思わず声をあげながら隣に座る健斗の顔を凝視してしまう。
先日の朝食の時にこの話をした後に息子からは何も言ってこなかったので、幸の方から何度かこの話題を振った事もあったのだが、その度に彼は「考えてるよ」としか言わなかった。
そしてそれから何も言わないままに今日の日を迎えてしまっていたのだった。
「け、健斗、母さん何も聞いてないわよ」
「あぁ、そうだろ。さっき決めたばかりだからな」
「ちょ、ちょっと、健斗、そんな急に……」
「ま、まぁ、良いじゃないですか、お母さん。木村君の考えを少し聞いてみませんか?」
木村親子が目の前で言い合いをしそうになっているのを、担任が慌てて止めに入る。
「す、すいません。それじゃあ健斗、先生に話をしてちょうだい」
幸の声を合図にして健斗はぽつりぽつりと自分の考えを話し始める。
しかしそれはまだぼんやりとした形のない夢のようなもので、具体的な大学名も受験科目なども何一つ決めてはいなかった。
「健斗、もう少し具体的な話は出来ないの? せめてどこの大学とか。これじゃあ先生も困ってしまうんじゃないかしら」
「いや、構いませんよ。なるほどねぇ…… ははぁ、それはもしかして柔道部の木下先生の影響かな?」
初めは怪訝な顔をしていた担任だったが、急にピンと来たような顔をして健斗を眺めている。
その顔には優し気な微笑が浮かんでいて、その表情は健斗の希望がそれほど突拍子も無い事ではない事を物語っていた。
「体育大学ねぇ…… ごめん、ちょっと先生にはそっち方面の指導経験が無いから即答できないけど、体育大学なら確か推薦という方法もあるんじゃなかったかな」
「推薦……ですか?」
担任の言葉に幸の眉がキュッと上がった。
「えぇ、推薦です。普通受験をせずに学校から推薦状を出すんですよ。場合によっては簡単な筆記試験と面接だけで済む場合もありますね」
その話を聞いた健斗と幸の顔にパッと明るい色が浮かんだ。
いくら体育大学と言えど入学試験は避けて通れないだろうし、お世辞にも頭が良いとは言えない彼にはその試験自体が大きな障壁だったのだ。
しかしそれから担任の話を聞くうちに、そんな彼にも一つだけ望みがあることがわかった。
桜子の尽力のおかげで健斗の定期試験の成績は決して悪いものでは無かったし、そのおかげで彼の各科目の評定もそれなりに良い方だった。それは大学によっては十分に推薦を受けられるレベルを満たしていたのだ。
それはまさに桜子のおかげと言っても過言では無く、彼女の尽力無くしてはここまでの評定、ひいては大学への推薦を貰えなかった事を考えると、この時ばかりは桜子の事を心の底から愛していると健斗は叫びそうになっていた。
「わかりました。それでは木村君は体育大学への推薦入学の方向で話を進めます。よろしいですね。私は経験が無いのでわかりませんから、木下先生に詳しい話を聞いておきますね」
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桜子が教室から出て来ると、ちょうど健斗と幸も6組の教室から出て来るところだった。
遠目に桜子が健斗の顔を見ていると、その顔には何やら嬉しそうな表情が溢れていて、彼女の姿を見つけて小走りに近付いて来る。
「あっ、健斗。健斗もちょうど終わったんだね。それじゃあ一緒に帰ろ……」
桜子がそこまで言ったところで、健斗が突然彼女の細い身体を抱きしめた。
その姿はまさに「スライディング抱擁」そのままで、走り込んできた勢いそのままに突然抱きしめられた桜子は、驚きのあまり目を白黒させている。
「桜子、ありがとう!! お前のおかげで推薦が貰えるかもしれないんだ!! 定期試験の時にお前が一緒に勉強してくれたおかげなんだよ、ありがとう!!」
「え、え、えっ!? な、なに!? どうしたの!?」
「桜子!! 大好きだ!!」
なにやら興奮冷めやらぬ健斗は、桜子に向かってそう叫ぶと突然彼女の顔を押さえてその頬に唇を押し当てた。
「け、け、け、健斗、ど、ど、どうしたの? んんーっ!?」
あまりの衝撃に桜子が全身を固まらせていると、その勢いのまま最後に健斗は彼女のその可愛らしい小さな唇に吸い付いたのだった。
「……痛ってぇ…… なにもそんなに本気で殴らなくてもいいじゃないかよ……」
自分の頭を押さえて健斗が涙目になりながら母親の顔を睨みつけている。その恨みがましい視線からは彼があまり反省していない様子が窺われた。
そしてその横には、真っ赤に染まった顔を恥ずかしそうに俯かせている桜子の姿があった。
「あんたねぇ、人様の娘さんにいきなり何してくれてんのよ!! そういう事は親のいないところでするもんでしょうがぁ!!」
「だ、だって、桜子の顔を見たら思わず嬉しくなっちゃって……」
「だからって周りの目も気にしないで、辺り構わずキスする馬鹿がどこにいるのよ!!」
珍しく幸が健斗に対してマジ切れしていて、その姿からは得も言われぬ迫力が感じられるのだが、当の健斗にしてみればそんなものは既に慣れたものだった。
「ま、まぁ、幸さん、健斗君には何か事情があるんだろうし、うちの娘もそんなに悪い気はしていないみたいだから、もう許してあげて」
「いやいやいや、楓子さんがいくらそう言ったとしても私には許せないわよ。公衆の面前で人様の娘さんにキスするなんて絶対にダメでしょ」
幸のあまりの剣幕に逆に気圧されてしまった楓子は、たじたじの様相で冷や汗を流している。
確かに幸の言う通り他家の若い娘に公衆の面前でキスをして恥ずかしい思いをさせたのは確かであるし、男の子の親としてはそれは看過できないという事なのだろう。
「ま、まぁね、確かにそうだけど…… でも普段の彼からは想像できないような浮かれ具合だったけれど、進路相談でなにかあったの? うちの娘に思わずキスするほどの事だったのかしら?」
「それは健斗本人に説明させるわね。ほらっ、健斗、楓子さんと桜子ちゃんに説明しなさい。これだけの事をしたんだから、あんたには説明責任があるのよ!! ほらっ!!」
幸が未だ頭を押さえて痛そうにしている健斗に話をするように促すと、彼は渋々話を始めた。
最初は痛む頭を押さえながらしかめ面をしていたが、話をするうちにまた嬉しくなってきたらしく、最後には細い目をさらに細めて満面の笑みを浮かべていたのだった。
「ふぅーん、なるほどねぇ…… そうかぁ、健斗君は体育教師になりたいんだね。それは奇遇だね」
健斗の話を聞き終わった楓子は、あまり見る事の無い健斗の笑顔を楽しそうに眺めている。
「奇遇? どういうこと?」
「あぁ、ちょっと待ってね。ほら桜子、あなたの口から説明してあげなさい」
楓子が未だ恥ずかしさに顔を真っ赤に染めて俯いている一人娘に声をかけると、彼女は頬を上気させたまま顔をあげた。
その顔には愛らしさの中に少々の艶めかしさを感じさせる表情が浮かんでいて、それを見た健斗の頬もまた赤く染まり始める。
それを幸が小さなため息を吐きながら見つめていた。
「えぇと、その、あたしも将来は学校の先生になりたくて。隣町のY教育大学を目指そうかと思ってるの」
「えっ、お前も先生になりたいのか? そうか…… それは本当に奇遇だな…… Y教育大学って事は、自宅から通うのか?」
「うん、そう。電車で二駅だから近いでしょ。それにお金も節約できるしね」
「そうか、お前は偉いよな。もうそこまで考えていたんだな…… それに比べて俺は……」
健斗の言葉の最後の方は殆ど呟きに近い声になっていて、桜子にはそれが聞き取れなかったらしい。
「健斗はどこの大学を目指しているの? 体育大学なら一番近くても確かI県だったはずだから、健斗は一人暮らしをするんだね。……そっかぁ、あたしたちは遠距離恋愛になるのかぁ……」
「あっ……」
桜子の最後の呟きに、まるで大事な事をすっかり忘れていたかのように、健斗は思わず細い目を大きく見開いていた。




