第160話 明るくなった未来
結局その日は、おいおいと泣き続ける桜子を一頻り宥めた後に、秀人は逃げるようにその場から姿を消してしまった。
その直前まで彼に訊きたい事も言いたい事もたくさんあった桜子だったが、当の秀人本人が今の感情的になっている彼女を前にしてあまり口を開こうとはしなかったし、桜子もいまは冷静にそれを受け止められる自信が無かったので、とりあえずその話は次に会う時にじっくりと聞く事にしたのだった。
秀人が消え去って一人きりになった真っ白い夢の中の世界で、桜子は考えていた。
確かに自分の容姿が人に比べてずば抜けて優れているのは事実だし、自分もここ最近それを理解するようになっていた。それでもこの容姿は自分を生んでくれた実の母親から遺伝したものだと信じていたし、この姿で生んでくれた事を感謝こそすれ恨んだりしたことは一度も無かったのだ。
それがあの神の話では、自分のこの外見は前世の自分である秀人の要望が叶えられた結果であるという事らしいのだ。それでも自分の存在がある日突然この世に現れた訳でもないだろうし、ましてや土の中から生えて来た訳でも無いのだから、そこには必ず自分を生んでくれた実の母親の存在があるはずなのだ。しかしその話を聞いた後では、それ自体も怪しく思えるようになってきていた。
そして自分の中々にハードで不運な人生は、前世の自分が生まれ変わる際に神に意地悪をされたせいなのだと信じて疑わなかったし、時には神に対して恨み節を言った事もあったのだが、それすらも間違っていたようなのだ。
自分のこの人生は、秀人が良かれと思って来世に希望した要件が複雑に絡み合った末の結果であって、決して神が意図的にそうしている訳では無かったらしい。
その事実は桜子にとって朗報とも言えるものだった。
自分の人生が神によってコントロールされていると思い込んでいた彼女には、何をするにもなんとなく無駄な事をしているという一種の徒労感や諦めに似た感情があったのも事実だし、自分がどう頑張っても結局は神の手によって良くない方向に物事が進んで行くという閉塞感すら感じていたのだ。
それが今回神自身の口から決してそうではない事を聞くことが出来たし、自分の人生に対する希望を見出すことも出来たのだ。
初対面の相手とはいえ、あの神と呼ばれている老人が嘘をついているようには見えなかったし、そもそも彼には人の人生に干渉するような権限は無いとも言っていた。
自分の人生は自分で変えることが出来る。
普通の人間であれば当たり前の事が自分にも出来るとわかった桜子の顔には、どこか吹っ切れたような明るい表情が浮かんでいて、この先の自分の明るい未来を想像すると思わず笑顔が零れていた。
それにしても、今まで自分が不運続きだったのは一体どういう事なのだろうか?
つまりはあれか?
見た目や基本性能にステータスを極振りしたせいで、言わばLUCK(運)をマイナス側に振り切ってしまったような状態なのだろうか?
……そんな、なにかのゲームじゃあるまいし、そんな事がある訳無いだろうに……
「……それにしても権限ってなんだろう? 神様の世界にも人間の会社みたいに上司がいたり、規則があったりするのかなぁ……」
桜子のぼんやりとした焦点の合わない呟きが、目の前の真っ白な世界に溶け込んでいった。
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6月上旬。
彼女はあの日以来ずっと秀人を問い詰めてやろうと思って、寝る前に念じてみたり、壁に「鈴木さんとお話」と書いた紙を張り付けてみたり色々と頑張ってみたのだが、遂に一度も会えないままに一ヵ月が経過していた。
それまでは会おうと思えば大抵3日以内には夢の中で対面出来ていたのに、今回に限っては只管会えない日々が続いていて、これはもう秀人の方が面会を拒絶しているとしか考えられなかった。
それでも秀人の言っていた事が気になってしょうがなかった桜子は、「もう怒ってないから帰って来て下さい。桜子より」と書いた紙を壁に張り付けたりもしてみたのだが、それでもやはり効果は無かった。
結局これに関しては彼が会おうと思うまで桜子にはどうにも出来なかったので、そのまま秀人の気が変わるまで待つしかないのだろうと思うようになっていたのだった。
「桜子、あなた最近変わったわね。なんだかとても明るくなったと言うか、前向きになったと言うか…… 何かあったの?」
ある日の朝食の時間に、母親の楓子が桜子に向かって問い掛けてきた。
ここ最近の娘の様子が少し変わって来ている事に敏感に気付いていた楓子は、今朝それをさり気なく訊いてみると、桜子は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「うん。少し前にとっても良い話が聞けてね。少し自分の将来に明るい展望が見えたと言うか…… うーん、上手く説明できないけれど、とにかく頑張り甲斐があるというか…… まぁ、そんな感じ?」
「……良くわからないけれど、将来に夢を持つのは良い事だと思うわよ。なんにしても悔いが残らないように、何でも一生懸命頑張りなさい」
「うん、そうだね。頑張るよ」
一昨年からずっと身内の不幸や暗い話題が続いていた小林家ではあったが、ここ最近の桜子を見ているととても楽しそうにしているし、学校にもアルバイトにも嬉々として足を運んでいる。それに今朝の彼女が朝食のソーセージを美味しそうに頬張る顔から零れる笑顔は、いつもより2割増しに見えた。
そんな娘の笑顔に心を癒されながら、楓子は話し続ける。
「そうそう、将来って言えば来週の水曜日なんだけど、学校であなたの進路相談があるでしょう? その日はお母さんの仕事が休みになるようにシフトを調整したからね。学校で待ち合わせしましょう」
「ありがとう。それじゃあ先生にお母さんも同席するって言っておくね」
「よろしくね。……それでね、桜子、あなたは将来どうしたいの? 今まであまりこんな話はしたこと無かったけれど、進路相談の日までにはある程度話が出来るようにしておかないとね」
思えば娘と将来についての具体的な話をした事が無かったことに楓子は気付いていた。
それまでも雑談の中でその話題に触れたこともあったのだが、それはあくまでも雑談の中の話題の一つでしかなく、具体的な彼女の考えを聞いた事はなかったのだ。
いままで楓子は高校卒業後の桜子はきっと実家を出ていくのだろうと漠然と考えた事もあったし、絹江の相続時に小林酒店を手放したのも楓子が一人で住むには広すぎる事が理由の一つでもあった。
娘の朝食風景を見つめながら楓子がそんな事をぼんやりと考えていると、頬張っていた目玉焼きを飲み込んだ桜子が遠慮がちに口を開いた。
「……あたしね、学校の先生になりたいんだ。隣町に教育大学があるでしょう? そこはどうかなって思ってる」
「えっ? 学校の先生?」
突然の娘の告白に少々驚いた顔をした楓子だったが、その言葉に即座に反応していた。
「あぁ!! 教師ね。そうね、あなたなら向いているかも知れないわね」
そうか、教師か。
それは確かに彼女には向いているかも知れない。
普段の娘は緩くてぼんやりとしているようにしか見えないが、自分に課された事、やり遂げなければならない事を最後までやり抜く強さを持っている。
実際に中学生の時には弱小水泳部を立て直した中心人物となっていたし、その面倒見の良さで後輩達からも慕われていたと聞く。今はアルバイトが忙しくて部活には所属していないが、それでも担任教師の話では彼女は同級生にも普段から人気があるし定期試験の時も皆からとても頼られていると聞いている。
それに団地の子供達からもとても慕われているし、彼女自身も子供の扱いがとても上手いのだ。
桜子の口から直接聞いたからではないが、確かに教師は彼女には向いているのかもしれない。
などと、そんな事を考えながら楓子は話を続けた。
「隣町のY教育大学って言ったら、拓海君の通っている大学じゃないかしら? 確か彼はいま3年生だと思ったけれど……」
「そうだよ、土屋さんと詩歌さんと同じ大学だよ。ここからなら電車で二駅だから通うのも楽だしね」
「あぁ、そうね……」
その時楓子は桜子の言葉の中に何か救いのようなものを見つけていた。
それまで彼女は高校を卒業した桜子は家を出て何処か遠くへ行ってしまうものだと漠然と思い込んでいたのだが、もしも娘の希望が叶った場合はこのままこの家から大学へ通うつもりのようなのだ。
高校生の時に両親が他界して以来ずっと一人で生きて来た楓子ではあったが、浩司との結婚を機に再び温かな家族との絆を手に入れることが出来た。しかしそれも今ではたった一人の娘を残すのみとなってしまい、桜子が母親の手を離れた後にはまた一人の孤独な生活が待っているのだ。
昔は自分の事を寂しがり屋だと思った事は無かったし、一人で生きて行く事に慣れてもいたが、いざ結婚をして家族が出来て、ずっと娘とともに生きて来た彼女にはもう一人きりで生きていける自信は無かったのだ。
まさか娘が自分のそんな気持ちに気付いているとは思わないが、それでも桜子がこの先もしばらく一緒にいてくれる事がとても嬉しかった。
そんな喜びに心を震わせている楓子だったが、そんな様子を噯にも出さずに目の前で朝からご飯をお代わりしてる娘に向かって口を開いた。
「それじゃあ、進路相談の時にはその話をするわよ、いいのね?」
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ちょうど同じ頃、木村家でも幸と健斗が朝食を摂りながら話をしていた。
小林家とは違って食卓には明るい笑い声は響いておらず、かちゃかちゃと食器を使う音が聞こえるだけだった。
「健斗、来週の水曜日はいつも通り母さんは午後から仕事が休みだから、学校の進路相談には行けるから大丈夫よ」
「……いいよ、来なくても」
相変わらず無口で不愛想な健斗は母親の申し出を断ったのだが、そんな事を幸が聞くはずも無かった。
「なに言ってるのよ。大切な一人息子の進路相談なんだから、たとえ仕事を休んだって行くわよ。まぁ、今回は丁度良かったって事だけどね」
「……わかったよ、遅れんなよ」
あまりにも乗り気ではない健斗の返事を聞いていると、幸の口からはため息しか出て来なかった。一体どういう育て方をしたらこんなにも不愛想でぶっきらぼうな男に育つのかと疑問に思うと、思わず自分で自分の事を小一時間ほど問い詰めたくなってしまう。
「それで、あんたは将来をどう考えてるのよ? 就きたい職業とかはないの?」
「……べつに」
「べつにって…… あんたねぇ、来週の水曜日にはある程度の事を先生に伝えないといけないんだから、しっかりしなさいよ、もう」
むっつりとした顔で不愛想に朝食を食べ進める息子の姿を眺めながら、幸は小さな溜息を吐く。
さすがに自分とあのクソ亭主の遺伝子を受け継いでいるだけあって、お世辞にも彼は頭が良いとは言えないし、さりとて世渡りが上手いとも口が裂けても言えないだろう。それにこの性格では営業職なんかは絶対に向かないだろうし、要領の悪さや頭の回転の速度から言っても一般事務職でも少々心配だった。
「進路相談の日までにはちゃんと考えておくから、大丈夫だよ」
「そうね。他でもないあなた自身の将来の事なんだから、しっかり考えるのよ、わかった?」
「……あぁ、考えておくよ」
気の無い返事を返しながら、またしてもむっつりと黙ったまま食事を摂り始める一人息子の姿を見つめながら、幸はとても心配になるのだった。




