第159話 自分の人生は彼が望んだ通りだった件
「……まさかとは思うが、もしかしてお前は自分の事を鈴木秀人その人だと思っておるのか? 誰がそんな事を言った?」
秀人が神と呼ぶ全身白い姿の老人が、相変わらず胡乱げな表情で秀人の顔を見ているのだが、当の秀人本人はその言葉の意味が理解できずに目の前の神の顔を凝視している。彼の唇はぶるぶると小刻みに震えていて、驚きのあまり最早何を言おうとしても上手く動かす事が出来ないほどだった。
「なっ……な……」
「ええっ!?」
そして桜子も大きな青い瞳で神の顔を凝視していて、秀人と同じように驚きのあまり唇の端がぷるぷると震えていた。
「……いったい何をそんなに驚いておる? そもそも儂にしてみれば、お前が自分の事を秀人だと思っている事の方がよっぽど驚きなのじゃが」
あまりの衝撃に普段は細くて感情の読み難い瞳を秀人が大きく見開いていると、その様子を老人が注意深く眺めている。それはまるで秀人の反応から彼の心中を推察するように見えたのだが、冷静に考えると彼は自分の心の中を読むことが出来るはずなのに、どうしてそんな回りくどい事をするのかが秀人には気になった。
「お、おい、それはどういう意味だ!? それじゃあまるで、俺が鈴木秀人じゃないみたいな言い方じゃねぇか!?」
「……ふぅむ、そうか。儂がちょっと目を離している隙にそういう事になっておったか」
自分の顎髭を手で撫でながら、小さな声で神が呟いている。
「お、お前、なにぶつぶつ言ってんだよ!? 俺の質問に答えろよ!!」
「まぁ、そう慌てるな。それに関しては追い追い説明してやるから、いまは少し落ち着いたらどうじゃ? そんなにカリカリしていると髪の毛が薄くなってしまうぞ。ほっほっほ」
自分で言った冗談が余程面白かったらしく、しばらく大きな声で笑っていた神だったが、秀人と桜子にジトっとした目で見られている事に気が付くとゴホンと咳払いをしながら背筋を伸ばした。
その冗談は目の前の二人には全く面白くないどころか、それのどこに笑い所があるのかもわからなかったし、実際今の二人にはそんな事に構っている余裕などなかったのだ。
「ごほんっ。人の世ではこんなのがウケると言われていたんじゃが…… まぁよい。それにしても良くぞまぁお前のような者が母親と姉と和解できたもんじゃ。それに関しては不本意ながら褒めてやるわい」
「べ、べつに和解なんかしてねぇよ。俺はあいつらを許したつもりはねぇし、それはこの先もずっと変わらねぇだろうよ」
「ふん、口では何とでも言えるがの。儂にはお前の心が読める事はわかっておるじゃろう? まぁ、そういうことだ」
「……くそっ。それで、今日は何のために出てきやがった? まさかいまさら謝りに来たんじゃねぇだろうな?」
秀人の言葉をまるで理解できないかのように、少しの間白い老人はポカンとした顔をしていたが、すぐにその言葉の真意を理解すると急に表情を変えた。
「……謝ると言っても、いったい何に対してなのじゃ? さっきも言った通り、儂は桜子の人生には一切関与しておらぬし、いくら不運続きだとしてもそれは儂には一切与り知らぬ事じゃからな。よって儂がお前達に謝る事など一つもないわい」
目の前の神は、憮然とした顔をしながら両手をひらひらと振っている。
それは全くの濡れ衣を着させられた事に対する不満と腹立ちを表していて、その顔を見た秀人は、思わず神を怒らせたのかと思って一瞬ヒヤリとしていた。
それは17年前に秀人が生まれ変わる直前に見たのと同じ表情で、この老人がこの顔をすると碌な事にならないと思ったからだ。実際に秀人はその顔を見たのを最後に、気が付けば桜子の身体に意識を放り込まれていたのだ。
「す、鈴木さん、このおじいさんは神様なんだから、もう少し丁寧な言葉を使わないと……」
直前までまるで好々爺然とした表情を崩さなかった老人が、秀人の言葉を聞いた途端、急に憮然とした顔と態度になったのを見た桜子は、その姿に神様を怒らせたかと思うと慌てて秀人を窘めた。
ここで彼女はビビリで小心者の性格を発揮して、もしかして神を怒らせてしまったかも知れない事に恐れを抱いていたのだ。
「わ、わかったよ、気をつけるよ…… それじゃあもう一度訊くが、今日はどうして顔を出したんだ?」
「……相変わらずタメ口か。少しは敬語を使う事を覚えなくてはいかんじゃろ…… まぁよい、教えてやるから良く聞くのじゃ。今日はお前を褒めてやろうと思ってな。それで出て来たんじゃよ」
「……褒める? 俺を褒める?」
今度は秀人が怪訝な顔をする番だった。
彼には神に褒められるような事をした憶えは全く無かったし、そもそも秀人は前世の罰としてこうして桜子の深層心理の世界に閉じ込められているのではなかったのか。それを思うと、なにやら彼は釈然としないようだった。
「そうじゃよ。儂はお前を褒めに来たんじゃよ。お前は今日、前世での罪を贖ったのじゃ、わかるか?」
「……まったくわからん。日本語で言え」
「ちょ、ちょっと鈴木さん!! もっと丁寧な言葉で……」
桜子が慌てたように背後から秀人に声をかけたのだが、彼はその声には全く注意を向けていなかった。
「そうじゃのう、頭の悪いお前の為にもう少しわかりやすく説明してやろうかの」
「ぐぬぬぬ、早く言え」
「ふんっ、良く聞け。お前は生前、母親と姉の心に大きな傷を残したまま死んだのじゃ、わかるか? それは決して一生癒える事の無い傷であり、彼女たちもその事にずっと苦しんで来たのじゃよ」
「ちょ、ちょっと待てよ!! だってそれはあいつらの自業自得じゃねぇのか!! それは俺に対しての行いの報いだろう!?」
予想外の神の言葉に、秀人は憤りを隠す余裕もないほどに感情を高ぶらせていた。
だってそうだろう。心に傷を負ったとしても、それは彼女達自身の行いの結果であり、秀人が責められる謂れは全く無いのだ。それを謝られた事で過去の事を水に流した秀人が褒められこそすれ、彼女たちが救われたなどと、どの口がそれを言うのか。
そもそもそんな状況を作ったのも彼女達自身であれば、それを苦しんで来たのも彼女達の勝手ではないのか。
などと、そんな事を考えながら秀人が唇を噛んでいると、それを諭すような口調で神が話し続ける。
「お前の母親も姉も妹も、全員が被害者なのじゃよ、それがわからんか? お前は父親に逆らうことが出来なかった、間違いないな? では、彼女たちもお前と同様に父親に逆らえなかっただけではないのか?」
「くっ……!!」
「お前だとて、死ぬ前の10年間は会社勤めをして来たのであろう? 組織という枠組みの中で、強権的な権力者に逆らう事が一度でもお前に出来たのか? 仲間たちを庇った事が一度でもあったのか? それが出来なかったお前に、母親たちを責める資格は無いのではないか?」
その瞬間秀人の脳裏には、彼が死ぬ直前まで勤めていた会社の社長の姿が浮かび上がっていた。
確かに社長は強権的な独善家で、部下の話などはまるで聞かずに自分の意見を押し付ける事しか考えていない人間だった。秀人の前で何度も上司や同僚が感情に任せて怒鳴りつけられていたり、時には暴力を振るわれているのを見て来たのだ。
そして自分はそれを一度として庇った事はなかったし、言い返したり口答えをする事も無かった。
つまりそれは自分の身を守るための保身でしかなく、社長の怒りの矛先が自分に向かってくることを恐れて、それらを見て見ない振りをしながら只管首を竦めていたに過ぎなかったのだ。
もちろん会社と家族を一緒にする事は出来ないのだろうが、結局自分は母親たちと同じことを会社でしていただけだった事に、今更ながら気付いたのだ。
その気付きに呆然とした秀人の顔を覗き込みながら、尚も神は話を続ける。
「ほう…… この説明でやっとお前にも理解ができたようじゃのぅ。結局一番悪いのはお前の父親であって、母親や姉妹はお前同様に被害者であるに過ぎぬのじゃ。もっとも母親にはもう少し強い心を持っていてほしかったと、少々苦言を呈したいところではあるがな」
「……」
「まぁ、安心せぇ。お前の父親は然るべく運命を辿るように生まれ変わらせたからの。……いまヤツがどうなっているか知りたいか?」
神の言葉を聞く限り、父親の来世はそれなりに厳しくされたようだ。しかしそれがどんなものであるのかを秀人は敢えて訊こうとしなかった。
もちろん聞いてみたいという純粋な好奇心はあるのだが、いまさらあのクズ父親の事を知ったところで自分には何の得にもならないと思ったからだ。
「……興味ねぇな。お前の話じゃ、どうせロクな人生は送っていなさそうだが」
「ふむ、賢明だな。父親の事は過去の記憶の中に留めておくだけにするがよい」
「ふぅ…… さて、そんな事より、さっきの話の続きなんだが」
肩で大きく息を吸って気持ちの切り替えをしながら、秀人が話題を変えようとしている。
それはさっきからずっと訊きたいと思っていた話で、これを聞かなければ神を帰らせないくらいの勢いだった。
「はて…… なんじゃったかのう? 歳のせいか最近は耳が遠くていかんのぉ」
「おい、ふざけんなよ。さっきお前は俺が秀人じゃないという意味の事を言っていただろ!? その事だよ!!」
秀人が神の耳元で大きな声で叫んでいる。
その後ろでは桜子がうんうんと頷いていて、彼女もこの質問には大きな関心を持っている事が伺い知れた。
「わかった、わかった、聞こえているからそう大きな声を出すな。ごほんっ、ではその前にお前に一つ訊こうではないか」
「……なんだ?」
「どうして今、このような事になっていると思っておるのじゃ?」
「どうして……? それは俺が死んで生まれ変わった時に、お前が嫌がらせをしたからだろう? 違うのか?」
「違うな。儂はべつにお前に嫌がらせをしようなどとは思っておらんかったぞ。結果的にお前がそう思ったのであれば悪かったとは思うが、そもそもそんな下らない理由でこんな事が出来ると思うのか?」
「違うのか? 俺はてっきり……」
「お前は桜子の容姿が美しすぎるのが全ての元凶だと思っておるようじゃが、そもそもお前自身がそれを望んだのではなかったか? 彼女の美しい容姿も、人から好かれる性格も、天然の人たらしの才能も、両親に愛されておるのも、友人に恵まれておるのも、幼馴染にいい男がおるのも、これらはすべてお前が望んだ事であろう?」
「うっ…… た、確かにそうだが……」
「儂はただお前の要望を叶えてやっただけだというのに、それを人のせいにされても困ってしまうがのぅ。それはとんだお門違いと言うものじゃぞ?」
「えぇ!? そうだったの!? あたしの人生って全部鈴木さんが望んだ結果だったの!? えぇ!?」
神の言葉に思わず桜子が叫び声を上げていた。
彼女は小さな時から自分の容姿や運の無さなどの理由をずっと考えていたのだが、それがまさか前世の自分の希望だったとは夢にも思っていなかったのだ。それも前世の自分とはまさに目の前にいる秀人の事であり、ずっと自分が「鈴木さん」として慕って来ていた人物だった。
「い、いや、その…… すまん……」
「あぁぁぁーん、酷いよぉ、どうしてもっと早くに言ってくれなかったのぉ!? あたしはその事でずっと悩んで来たのにぃーーー!!」
突然桜子が天を仰いでおいおいと泣き出してしまう。
目を固く瞑って口を大きく開けて、彼女はまるで幼い幼女のように泣きじゃくっている。今知ってしまった真実が、それほど彼女にとっては大きな衝撃である事をその姿が物語っていた。
「さ、桜子…… お、おい、泣くな、なぁ……」
泣きじゃくる桜子の横でオロオロと彼女を宥めている秀人を尻目に、神が腕時計を確認するような仕草をしたかと思うと突然大きな声をあげた。
「おっと、もうこんな時間ではないか。儂はもう行かねばならぬ。話の続きはまた今度にしようではないか。それではさらばじゃ、アデュ」
「お、おいジジイ!! まだ俺の質問に答えてないぞ!! に、逃げるなよ、おい!!」
「あぁぁーーん!! 酷いよ、鈴木さぁん!! あぁぁぁぁーーーーん!!」
神が突然姿を消し去った空間を呆然とした顔で見つめている秀人の背後では、まるで小さな子供のように桜子が大きな声をあげて泣きじゃくっていた。




