第158話 宿敵との再会
すっかり日も暮れて、もうそろそろ昌枝の施設の面会時間も終わろうとしていた。
少し前に目を覚ました昌枝はもう既に幸が知っている普段の彼女に戻っていて、見るからに認知症が進んだ顔は目の焦点も合っておらず、ただぼんやりとしているだけだった。
それでも彼女の腕には秀人から貰ったフェルト人形がとても大事そうに抱き締められていて、時折それを見ては満足そうに微笑んでいる。
幸は持って来ていた秀人の写真のうちから、彼がまだ小さくて若い昌枝と一緒に写っている物を数枚選ぶとそれを壁のコルクボードに張り付けた。昌枝はそれも気に入って、いつまでもその写真を眺めながらニコニコと笑っている。
その様子を見ていると、彼女はもう家に帰ろうとして暴れる事は無いだろうと思われた。
今回は桜子と秀人本人の尽力もあって昌枝の問題は解決できた。
しかしこの問題は、まさに奇跡としか言いようのない桜子の尽力が無ければ成し遂げられなかっただろう。
幸にはとっくの昔に死んだはずの秀人とここで再会できるなんて思ってもみなかったし、図らずもその事が今回の問題を解決する直接の原因となったのだ。そしてその再会は昌枝を長年の苦しみから解放する切っ掛けにもなったし、幸も自身の心の奥底に仕舞い込んでいた罪悪感を多少なりとも溶かすことが出来たのだ。
これは実際に幸と健斗の目の前で起こった事なのに、今でも二人はそれを信じることが出来なかった。しかし起こった事も、見た事も、訊いた事も全ては現実だったし、いま現在も自分の目の前には秀人本人が確かに存在しているのだ。
その姿は可愛らしい桜子そのものなのだが、その内側には間違いなく秀人その人が存在している。それは間違いようのない事実であり、現実だった。
椅子にふんぞり返りながら、見舞いに持って来た饅頭をもっちゃもっちゃと頬張っている桜子の姿を見つめながら、幸は小さな声で彼に感謝の言葉を呟いていた。
「あんなにもあなたを辛い目に遭わせて来た私たちなのに…… 助けてくれてありがとう…… 秀人……」
「さて、そろそろ帰る時間だろう? それじゃあ俺は失礼するぞ。健斗、こいつの身体をしっかり支えとけよ、いいな?」
そう言うと秀人は椅子に座ったまま身体の力を抜き始める。
一仕事終えた彼はまた桜子の意識の中に戻って行こうとしているらしく、その後の事は全て健斗に任せようとしていた。
しかしそんな秀人に向かって幸が話しかける。
「ひ、秀人、もう行ってしまうの? あ、あの、またいつか会えるのかしら?」
慌てたように話し始めた幸の顔を見つめ返しながら、大きく頭を振る秀人の顔には、いつも通りの皮肉そうな笑みが浮かんでいた。
「あぁ、俺はいつもはこいつの心の奥底で眠っているからな。もしどうしても俺に会いたくなったら桜子に頼んでみるといい。もっとも俺は、もうお前なんかに会いたくもないがな」
「わ、わかったわ。その時は桜子ちゃんにお願いしてみる…… 」
「まぁ、必ず出て来られるわけじゃないから、期待すんなよ。……じゃあな」
「ひ、秀人、ありがとう!! そしてごめんなさい!! また今度、絶対会おうね!!」
幸の言葉に秀人が軽く右手を上げて両目を閉じると、すぐにその両腕はだらりと垂れ下がって桜子の身体がくたりと椅子に沈み込む。
それを健斗がしっかりと両腕で抱き留めながら彼女の顔を見つめていて、その顔は最愛の女性をしっかりと守っていこうとする男の顔になっていた。
そんな息子の姿を満足そうに眺めていた幸だったが、その時ふとさっき秀人が言っていた事を思い出していた。
「……ねぇ、健斗」
「なんだい? 母さん」
「あなた、桜子ちゃんの胸を揉んだって本当なの? ちょっと話を聞かせてくれるかしら?」
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桜子はその後、夜の遅い時間に健斗に付き添われて自宅へと帰って来た。
楓子には事前に幸から連絡が行っていたし、健斗が家まで送り届けると言っていたので全く心配はしていなかったが、帰って来た桜子のゲッソリと疲れ切った顔を見た楓子は、思わず桜子の身体を抱きしめてしまっていた。
その日の午後はほとんど秀人が身体を動かしていたとはいえ、身体の持ち主の桜子は身体の疲れをはっきりと感じてしまい、その日は早く寝る事にしたのだった。
桜子は夢を見ていた。
今ではもうすっかり見慣れてしまった、どこが上でどこが下かもわからない真っ白な世界で、彼女はふよふよと浮かんでいる。
この感覚は秀人と会う直前のもので、このまま少し待っていれば目の前に彼が現れる事を知っていた。
今日の彼女は、秀人の深層心理の中に沈み込んだ状態でずっと事の成り行きを見守っていたのだ。秀人と昌枝の出会いから幸との別れまで全てを見ていた桜子は、秀人の心の中の世界でずっと涙を流して泣いていたのだった。
秀人は母親と姉の事は許さないと言ってはいたが、桜子には彼の本心を理解することが出来た。彼は彼なりにずっと苦しんで来たのだし、それを一言謝られたからといって簡単に許してしまう事はどうしても出来なかったのだろう。それを思うと桜子はどうしても涙が止まらなくなってしまったようだった。
「おい、お前、酷い顔をしているな」
ぐしぐしと桜子が涙を拭っていると、目の前に秀人の姿が表れる。
その顔は相変わらず皮肉そうに片側だけ口角を上げていて、少しだけ意地悪そうに見えた。
「あぁ、鈴木さん、今日はお疲れさまでした」
「……べつに疲れてなんかねぇよ。ちょっと精神的に参ったけどな。それよりも今日は悪かったな。急にお前の身体を乗っ取ったりしてよ」
「ううん、大丈夫。むしろあれで良かったんだと思うよ。健斗のお祖母ちゃんもおばさんも喜んでいたでしょ」
桜子のその言葉に、秀人の顔が少し曇っていた。何か思う事でもあるのだろうか。
「いや、正直あそこで自分があんな事を言うとは思ってもみなかったんだ。あんなにあいつらの事を憎んでいたはずなのに……」
小さくため息を吐く秀人の顔には、後悔とも悔悟とも言える表情が浮かんでいる。
「でも良かったじゃない。ずっと恨んで来た人に謝られて、それを許す事ができたんだもの。こんなに素晴らしい事はないと思うよ」
「お、俺は許してなんかいねぇよ。ただ、あんなに昔の事をもう忘れてしまっただけだろ。それにちょっと謝られただけで、はいそうですかって、そんな簡単に許せるわけねぇだろうがよ」
言葉では許さないと言っているのだが、苦み走った彼の顔はその言葉が本心ではない事を証明していた。実際、あれだけ恨んでいた母親の姿を見た時に、秀人自身も己の心境の変化に驚きを隠せずにいたのだ。
歳をとり認知症も進み、やけに小さく見える母親の姿を見ていると、あれだけ恨んで絶対に許さないと思っていた硬く凝り固まった気持ちが次第に薄れていくのを自覚していたのだ。そして母親が涙ながらに謝るのを見ていると、最早彼は昔の事がどうでも良くなっている自分に気付いていた。
「辛い思い出だって、いつか必ず笑い話になる」とは秀人が生前に勤めていた会社の課長が言っていた言葉だが、彼はその時その言葉を思い出していた。
自分が子供の時にはあれだけ辛いと思っていたのに、気付けば今ではその気持ちもぼんやりとしか思い出すことが出来ないし、あれだけ憎いと思っていた母親と姉の事も、いざ本人を前にするとそれほど憎いとも思えなくなっていたのだった。
「……まぁ、なんだ、俺が死んでまで呪い続けるほどの事でもないような気がしてな…… 婆はもうボケちまってるし、姉はそのうちお前の義理の母親になるかもしれねぇしな」
「義理の母親……? ……えぇ!? そ、そんな、気が早すぎるでしょ、それ!!」
桜子が頬を染めながら狼狽えている姿を眺めながら、秀人は気持ち良さそうに大きな口を開けて笑っている。彼がそんな顔をするとどこか健斗の面影が薄っすらと見え隠れして、間違いようのない血の繋がりを感じることが出来た。
「はははは、冗談に決まってるじゃねぇか。面白いな、お前」
「や、やめてよ、冗談でもそんな事を言われたら、彼の前で意識しちゃうじゃない!!」
「ははははは」
「ほう、お前もそんな大口を開けて笑うようになったか。それは良い事じゃのう」
二人が真っ白な空間の中で笑い合っていると、突然空中からどこかで聞いた事のある声が響く。
その声は秀人が遠い昔に聞いた事のあるもので、決して忘れる事のない声だった。
その声を聞いた途端、秀人の顔からはそれまでの笑顔が嘘のように消え去って忙しなく辺りを見回していた。ただでさえ細い目はさらに鋭く細められていて、長年探し続けた己の宿敵の姿を見つけようとしている。
「ジジイ!! 出てこい!! てめぇなのはわかってるんだ姿を現しやがれ!!」
「えっ!? だ、誰? ジジイ?」
突然の秀人の剣幕に気圧された桜子が怯えたような表情で周りを見渡している。
この真っ白な夢の中の世界に桜子と秀人以外の人間が現れるのは初めての事で、桜子は少し顔色を変えていた。
「ほっほっほ…… 随分と久しぶりじゃのう…… 17年振りか? と言うても儂からすればついさっきの事のようじゃがな」
その時二人の前に真っ白な姿をした老人が現れた。
長い髪も生えている髭も、着ている着物も真っ白でまさに「白いジジイ」そのものだ。そしてそれは秀人が死んだ時に会った神、その人だった。
「ジジイ……」
突然目の前に現れた神を睨みつけながら、秀人の口からは掠れた声が漏れている。
「誰が白いジジイじゃ、失礼な奴め…… ん? このセリフは前回も言ったような気がするがのぅ」
「も、もしかして…… か、神様なの?」
突然の白い老人の乱入に桜子が驚きを隠せない顔で見つめていて、その口からは秀人と同じように掠れた声が漏れていた。すると神と呼ばれた老人は桜子の方を振り返ると、とても優しそうな顔で話しかけて来る。その顔にはまさに慈愛の笑みが溢れていて、そんな顔をしていると確かに彼は神という名が相応しくも見えた。
「ほう、桜子よ、お前は随分と器量良く育ったものじゃのう。まさかそこまで美しい姿になるとは露にも思わなんだ。それにしても、その姿ではさぞかし苦労も多かった事じゃろうのぅ」
「えっ?」
「てめぇ、何言ってやがる!! 桜子の人生をこんなにしたのはお前自身じゃねぇのかよ!! それを他人事のように言いやがって、ふざけんじゃねぇ!!」
秀人の両手はワナワナと震えていて、その顔もかなり物騒な表情になっている。これがもしも現実の世界であったなら、彼は速攻で目の前の老人を殴り倒していただろう。
しかし秀人の言葉を聞いた老人は、少々怪訝な顔をして桜子と秀人の顔を交互に見ていた。
「……ちょっと待て。お前は儂が桜子の人生を台無しにしたような言い方をしておるが、それは違うぞ」
「なにが違うんだよ!? こいつがこんなに辛い目に遭ってきたのは、てめぇのせいじゃ無いってのか!?」
「そうじゃ、儂のせいではない。儂はこやつの人生には一切関与しておらんし、そもそも儂にそんな権限なぞ無いしのぅ」
そう言いながら、白い老人が胡乱げな顔で秀人を見つめていて、その横では桜子が自分の口に手を当てながら驚きのあまり声も出せなくなっていた。
そもそも自分の人生がなかなかにハードなのは、前世の秀人が生まれ変わる時に意地悪な神に仕組まれたせいだと聞いていたのだが、目の前の神と思しき存在の言葉を聞いている限り、実はそうでは無かったという事らしいのだ。
もしもそれが本当であるならば、少々話が違ってくるではないか。
「じゃあ、どうしてあたしはこんなにも不運なの? あたしはてっきり前世の鈴木さんが神様に意地悪されたからだって思ってたのに……」
「そ、そうだ、俺だってずっとそう思ってたんだ。この俺の生まれ変わりになったばかりに、こいつの人生がおかしくなっちまったって……」
神と呼ばれている白い老人は、目の前の二人に同時に責められる形になっても全く焦ることもなく淡々と話を続けていく。その様子からは彼が二人を宥めようとするつもりが全く無いように見えた。
それから事も無げに秀人に向かって次の言葉を放り投げた。
「ちょっと待たんか」
「なんだよ、ジジイ」
「……まさかとは思うが、もしかしてお前は自分の事を鈴木秀人その人だと思っておるのか? 誰がそんな事を言った?」




