第157話 過去の謝罪と彼なりの優しさ
「でもな、俺はあんたを絶対に許さない…… ふざけんじゃねぇよ」
健斗の短い言葉とともにその場の空気が凍り付き、昌枝が全ての動きを止めて彼の顔を凝視する。自らその言葉を発しておきながら、急に変わった室内の雰囲気に飲まれそうになった健斗は思わず背後の秀人を振り返っていた。
「お、叔父さん……」
「ひ、秀人!!」
健斗の声から一呼吸置いて、今度は幸の声が響く。
その声には驚きと嘆きとほんの少しの憤りが混じっていて、その視線は言葉を発した健斗ではなく、その背後の秀人へと向けられていた。
「……なんだよ、お前ら全員不服なのか?」
眉間にシワを寄せながら自分を見つめる三人を威嚇するように睨みつけている桜子の姿は、その愛くるしい外見とのギャップからどこか滑稽に見えるのだが、今は全員がそれを笑えるような状態ではなかった。
「まさかここで俺が『はいそうですか』と簡単に許すとでも思ったのか? はっ!! くだらねぇ。安い三文芝居じゃあるまいし」
「で、でも叔父さん、これじゃ可哀想だよ…… ばあちゃんだって一生懸命謝っているじゃないか、許してやってよ!!」
どこか愛らしさを感じさせながら、それでも精一杯凶悪な顔をしているつもりの秀人を健斗が大声で説得しようとしている。しかしまるで聞こうともせずに手をひらひらとさせていて、秀人のその仕草は健斗の必死の訴えをまるで小馬鹿にしているように見えた。
その様子を傍から見ていた幸も思わず健斗に同調しそうになったのだが、秀人に対して昌枝と同じ罪を犯している自分が、いまここで彼に何かを言える立場では無い事を思い出すと、そのまま口を噤んでしまった。
今まで黙って聞いていたが、幸にも秀人の言葉には色々と言いたい事や訊きたい事もあるのだ。
しかし今はそんな事よりも、呆然とした顔で叫び出しそうになっている目の前の母親を何とかしなければいけなかったし、秀人もまだ何かを言いたそうにしているのでその続きを聞く方が先だった。
幸が自分の言葉を飲み込みながら秀人の顔を見つめていると、その視線に気付いた彼は幸と目を合わせないように顔を横に向けながら続きを話し出した。
「ふんっ…… だけどな、もうこの婆はボケちまってるし、これ以上何か言ったってわかんねぇだろ。そもそも俺の言っている事だって理解できているのかもわかんねぇしな……」
「お、叔父さん……」
「秀人……」
「ふぅ…… だからもういいよ、そんな昔の事は忘れちまったよ……」
幸と健斗が見つめる中、相変わらず眉間にシワを寄せたまま何やら難しい顔をしていた秀人は、まるで彼の中に溜まっていた何かを吐き出すように、突然ふぅと肩で息を吐き出した。
それから少しの間彼は天井を見上げるような姿勢で目を瞑った後、矢庭に健斗に向かって大きな声を出す。
「おい、健斗!! 通訳しろ!! 俺が言う通りにちゃんと伝えるんだぞ、わかったか!?」
「は、はいっ」
突然強い口調で秀人に怒鳴られた健斗は、思わず背筋を伸ばしてしまう。それでも桜子の声とともに彼女の匂いがふわりと鼻をくすぐって、彼は少しだけ背中がゾクッとしていた。
しかしそんな事などおくびにも出さずに、健斗は目の前で頭を抱えて泣いている昌枝に向かって口を開き始める。
「おい、母さん、もう一度言うから良く聞け」
「ううぅぅ…… なんだい、秀人……」
「俺はあんたを許すつもりはない。これは俺の本心だから今更変えられねぇよ。だがな、もうそんな昔の事は忘れてしまったし、今となってはどうでも良い事に思えて来た」
「……秀人?」
「確かに子供の頃の俺はあんたを憎んだし、母親だとは思わなかった。でも大人になった今の俺には、あの時のあんたの気持ちも少しはわかるようになったってことだな」
秀人の言葉に、昌枝の顔がパッと明るくなる。
重度の認知症であるはずの昌枝の瞳には、今に限ってどこか理性の色が宿っていて、秀人の言葉の全てを正確に理解しているように見えた。その証拠に、彼の言葉を聞く彼女の顔には少しずつ何かを期待するような表情が生まれていて、それはここ最近の彼女の状態では考えられない事だったのだ。
「秀人…… それじゃあ、わたしを許してくれるのかい? こんな母親を許してくれるの?」
「いや、許すわけじゃねぇよ…… だけどもう忘れたから気にするなって事だ。あんたの言いたい事は全部聞いたし、ずっと謝りたかったっていう言葉も嘘じゃないのもわかった。それにあんたは俺の弔いもしてくれたし、その後もずっと後悔しながら生きて来たって言うしな」
「それでもいいよ、許してくれなくてもいいんだ。それでもお前はわたしの言いたい事をわかってくれたという事なんだろう?」
「……まぁな。あんたの気持ちはわかったってことだな」
その言葉を聞いた途端、昌枝の顔には涙とともに満面の笑みが広がった。
いまここに彼女の願いが叶ったのだ。それは今では何の望みも無い彼女の唯一とも言える願いであり、決して叶う事の無い、遠い昔に諦めていた願いでもあったのだ。
秀人本人の口からその言葉を聞けたという事は、彼女にとってまさに奇跡のような出来事であったのだ。
「あぁぁぁ…… ありがとう、秀人、ありがとう…… たとえお前が許さなくても、わたしはお前に謝ることが出来たんだ。お前が死んでしまって、もう絶対に無理だと思っていたのに…… あぁ、お前に謝ることができたんだよ…… あぁぁぁ…… 母さんは嬉しいよ、秀人、ありがとう、本当にありがとう……」
まるで天に祈るような姿勢で一気に言い切った昌枝は、秀人の写真と人形を両腕に抱き締めたまま後ろのベッドへ倒れるように座り込んでしまう。そしてぽろぽろと大粒の涙を流しながらおいおいと泣きじゃくり始めた。
「か、母さん、大丈夫? ほら、そんな姿勢だと体が痛くなっちゃうわよ……」
興奮して泣きじゃくる昌枝の背中を幸が優しく擦っていると、泣きつかれた彼女はそのまま眠ってしまった。その寝顔には何か憑き物が落ちたようなスッキリとした笑顔が浮かんでいて、ここ数十年間で一番幸せそうな顔に見えた。
その様子を眺めながら、秀人は誰にも見られないように小さなため息を吐いていた。
「秀人…… あなたは本当に秀人なのね……」
ベッドの上で寝息を立て始めた母親の姿に優しい眼差しを向けながら、幸は桜子の姿をした秀人に声をかける。その顔には未だに目の前の光景が信じられないような表情が垣間見えていた。
「……まぁな。大凡の事情は知ってるだろう? さっき桜子がお前らに話した通りだな。もっとも、いきなり信じろと言われても信じられないだろうがな」
「え、えぇ…… もちろん私は信じるわよ。そうでなければ説明のつかない事も多すぎるし……」
幸の言葉を聞いた秀人は、その愛くるしい青い瞳を鋭く細めて、可愛らしい小さな唇を震わせながら口を開く。
「……幸姉ぇ、俺はお前にも色々と言いたい事があるんだがな。わかってんだろうな?」
夕暮れの差し迫る昌枝の個室の中で、秀人と健斗、そして幸の三人が向かい合って立っている。背後のベッドには幸せそうな寝顔で眠っている昌枝がいて、今のこの場には鈴木家に所縁の四人が一堂に会しているのだ。
「秀人…… 本当にあなたなのね…… さっき母さんがあなたに謝っていたけれど、それは私も同じなのよ、私も謝らなければいけないのよ」
「ふんっ、いまさらだな。べつにいらねぇよ、謝罪なんてされても困るだけだろ」
「それでもお願い、謝らせてほしいのよ。ごめんなさい、ずっと言えなかったけれど、本当にあなたには酷い事をしたと思ってる……」
それからしばらくの間、幸も秀人に謝罪の言葉と当時の事情や父親の事などを話すと、秀人は一言も発することなく黙って聞いていた。その横で何やら居た堪れない顔をしていた健斗は、その話を聞きたくないらしく祖母の枕元の方へと歩いて行ってしまった。
「ふんっ、さっき婆にも言ったが俺はお前らを許すつもりなんて毛頭ねぇし、いまさらそれを撤回するつもりもねぇよ。ただそんな昔の事はもう忘れたと言っているだけだ」
「ううん、それでもいい。それでもいいから…… でもきっとこれは私の自己満足なんでしょうけれどね……」
「……へっ、勝手にしろ」
どうやら秀人は幸の事も許すつもりはないようなのだが、それでももう気にしていないと言っている。その物言いは世の中の多くを見て来た大人のように達観しているようだった。
それにしても幸は大人になった秀人と初めて会話をしたのだが、最後に見た高校生の時の彼とはかなり変わっているように感じていた。どこがどう変わったかと訊かれると困ってしまうのだが、とにかく彼と普通に会話が成立している事に驚きを隠せなかったのだ。
昔流行っていた歌謡曲の歌詞ではないが、高校生の時の彼はまるでナイフのように尖っていて、話しかける事すら幸には恐ろしくて出来なかったのだ。それにいつも自分を睨みつける彼の鋭い視線も幸にとっては恐怖の対象でしかなかったし、彼女には秀人自身が家族全員を拒絶しているようにしか見えなかったのだ。
それがこうしてお互いに大人になって話をしてみると、確かに口は悪いし言動が粗野ではあるが、それなりに大人としての会話が出来ている事に驚きを禁じ得なかった。
彼女の内心の驚きがその表情に出てしまっていたのか、幸の顔を見た秀人が急に怪訝そうに彼女の顔を覗き込む。
「……幸姉ぇ、いまさらだが、どこか俺の事を信じていないんじゃねぇのか? なんなら信じられるように証拠を見せてやろうか?」
「証拠?」
「あぁ証拠だ、よく聞け。……お前が高校一年の時に付き合っていた真田の話を聞きたいか?」
「えっ!? そ、それは……」
「それならテニス部の熊田は? お前、桜子との付き合い方を健斗に偉そうに語っているようだが、お前が高校生の時だって大概だったじゃねぇかよ」
「だめだめだめだめ!! 絶対に言っちゃダメ!! それはダメっ!!」
秀人の言葉に思い切り慌てた幸がチラリと健斗の方を見ている。それから秀人の口を塞ぐような仕草で手を伸ばしかけた。
「それじゃあ、バスケ部の萩原はどうなった? 奴とはそれっきりなのか?」
「あぁーーー!! 誰も信じてないなんて言ってないでしょう!? だからもうやめてぇーー!!」
幸と秀人が一頻り話をすると、それは普通の姉弟としての会話になっていた。
それでも幸は長い間その心に抱えていた罪悪感を雪ぎ切ることが出来ずに、未だ後ろめたい気持ちで彼と話をしていたのだが、傍からみる秀人にはもう昔のような近寄り難い怖さも無くなっていたのだ。
秀人は幸の事を許すつもりないと言ってはいるが、その言葉の端々からは既に過去への拘りも感じられずに、彼は至って普通に話をしていた。そして最後には母親への気遣いすら見て取れたのだ。
それは昔の彼からは全く想像できないほどの変化であり、幸はまさかこうして彼と姉弟として普通の会話が出来る日が来るとは全く思っていなかった。
そして今の彼の外見が愛くるしい桜子の姿をしているのも多少影響があるのかも知れないが、それでも幸はこの短時間で秀人に対して紛れもない姉弟の親愛の情を抱くまでになっていたのだった。




