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第156話 母親の想いと謝罪と

「おいお前、それでも俺の甥っ子なのかよ、しっかりしやがれ。そんなんだからお前はヘタレだって言われんだよ。わかってんのか?」


「す、鈴木さん…… 秀人叔父さん?」


 外見も声も間違いなく金髪碧眼美少女の桜子で間違いないのに、その表情と話し方、そして仕草が全く彼女とはかけ離れている。一見して可愛らしく小さな唇から紡がれる言葉は粗野で荒々しい。

 それは間違いなく以前から健斗が知っている「鈴木さん」であって、いまでは「秀人叔父さん」である存在なのに、その愛らしい容姿と荒々しい態度のギャップに思わず健斗は複雑な感情を抱いてしまう。そしてその可愛らしい声で罵られる事に、説明のできない新鮮な感動を覚えていた。



「男にはなぁ、ビシッと決めなきゃならねぇ時があるんだよ。だからお前は乳を揉んだくらいで桜子に気絶されんだよ」


「乳……?」


 幸の眉毛がピクリと動いた。


 その間にも健斗の背後では昌枝がいまにも悲鳴をあげそうな勢いで頭を抱えていて、最早(もはや)彼女が暴れ始めるのは時間の問題に見えた。


「いいか、俺がお前の耳元で台詞(せりふ)を伝えるからその通りに言え。要は伝言ゲームだ、わかったか?」


「お、叔父さん……」


「いいから早くしろ!! ばばあが暴れ始めても良いのか!?」


「わ、わかったよ」


 桜子の姿をした秀人の剣幕に恐れを抱いた健斗は、慌てて昌枝の方を振り向くと深呼吸をするように大きく息を吐く。これから祖母が暴れ始めるかどうかは自分の肩にかかっているのだと思うと、緊張のあまり思わずごくりと唾を飲み込んだ。




「なぁ母さん、母さんは俺の事をどう思っているんだ?」


 健斗が(おもむろ)に昌枝に向かって口を開いた。

 背後からは秀人が彼の耳に小さな声で耳打ちをして、秀人としての言葉を伝えている。健斗はそれを注意深く聞き取りながら彼なりに感情を込めて話し出したのだが、その姿はまるで素人が演じる舞台のようだった。



「お前はわたしの可愛い息子だよ。腹を痛めて生んだ子供なんだ、可愛くない訳が無いじゃないか」


「それじゃあ、どうして俺の事を助けてくれなかった? 手を差し伸べようとしなかったんだ?」


 いきなり核心を突くようなその言葉を聞いた途端、昌枝の両目が大きく見開かれると同時に両手がワナワナと震え出す。まったく血の気が引いた彼女の顔を見ていると、その言葉が彼女の心のひだに触れている事が良くわかった。


「わ、わたしは……わたしはお前を何度も助けようとしたんだ。でもその度にあの人の暴力が襲ってきて…… あぁ、でもわたしはお前の母親なんだ、そのくらいの事でお前を……」


「だけどあんたは俺を助けようとしなかったじゃないか。母親なら自分よりも子供を優先するべきじゃないのか?」


「そうだ、そうだよ、お前の言うとおりだ!! あぁぁぁ、ごめん、ごめんよ、秀人…… 母さんは、母さんは…… ううぅぅあぁぁ……」



 健斗の、いや、秀人の言葉がザクザクと昌枝の心を削っていく。

 その一言ごとに身を捩らせる母親の姿を見る幸の目には涙が浮かび、出来ればすぐにでも健斗の口を塞いでしまいたかった。しかし、ずっと秀人に会う事だけを願って来た母親の気持ちを考えると、それが如何に彼女にとって辛い事であったとしても幸にはそれを止めることが出来なかったのだ。


 同時に、健斗の口から語られる秀人の言葉は幸の心にも鋭く突き刺さっていた。

 彼女はずっと秀人に謝らなければいけないと思っていたが、まるで人が変わったかのように粗野で乱暴になってしまった彼の態度と剃刀のように鋭い視線に、怖れのあまり何も言うことが出来なかったのだ。そして遂に一言も謝ることが出来ないまま、高校を卒業した秀人は目の前からいなくなってしまった。

 

 その後長らく幸は弟に対する罪悪感と後悔の念を胸に秘めたまま過ごしてきた。

 もしも再会する機会があれば必ず謝罪をしようと思っていたが、やっと10年後に再会した時には彼は冷たい遺体となっていたのだ。

 結局は幸も秀人に対しては母親と同じ罪を背負っているのだと思っていたし、それを弟に謝ろうとも思っていたのだが、最後まで謝罪するチャンスは(つい)ぞ訪れなかったのだった。

 

 幸は部屋の中の少し離れた所から昌枝と健斗を見つめていて、その顔からは血の気が引いて真っ白になっている。血が滲みそうなほどに強く唇を噛み締めながら、秀人に責められている母親の姿に自分の姿を重ねていたのだ。




「俺は…… 俺はな、途中であんたを母親だなんて思うのをやめる事にしたんだよ。その気持ちがわかるか?」


 健斗は秀人の囁きを代弁しているだけなのに、思わず全身に力が入ってしまう。そして次第に二人に対して感情移入し始めた彼の瞳は涙で潤み始めていた。


「……そうだね、わたしはお前にあんな仕打ちをしたんだ。嫌われたって文句は言えないんだよ。でも、でも…… やっぱりお前は私の息子なんだ、忘れられるものか」


 いまの昌枝は普段からは考えられないほどにしっかりとした受け答えをしていて、事情を知らない人間が見れば彼女が重度の認知症患者だとはまるでわからないだろう。そしてずっと会いたいと願っていたのに決して叶う事の無かった秀人との対面を前にして、昌枝はしっかりと正気を保っているように見えた。


「……そうだな。確かにあんたは母親としてはクズみたいな人間だったが、クソ親父が死んで自由になった時も、俺が高校で手がつけられなくなった時も、変わらず俺に接してくれたな……」


「……当たり前じゃないか、わたしはお前の母親なんだ、確かにあたしは心の弱いクズみたいな母親だよ……でもね、あんたを愛している事に嘘はないんだ…… 愛しているんだよ、お前を」



 

 昌枝の感極まった言葉を聞いた秀人は、それでもなお責めるような口調を止めなかった。


「ふんっ!! 愛している、か…… その言葉をもっと俺が子供だった時に聞きたかったな。いまさらだ…… いまさらなんだよ!!」


 後ろから健斗の耳に囁く秀人の声が次第に大きくなってきて、いまやそれは囁きと言える大きさの声ではなくなっている。それは最早(もはや)叫び声に近かった。


「ううぅぅ…… わかってる、わかってるんだ…… だからわたしはお前に許してほしいとは言わない、いや、言えないんだよ。だから許してくれなくてもいいから、ただ一言謝らせてくれればそれで良いんだよ」


「……随分と虫のいい話だな。一言謝ればあんたはそれで救われるかもしれないが、俺の気持ちはどうなる? あ、あんたが、お、俺の……ううぅぅ……」


 昌枝と秀人に挟まれながら秀人の言葉を代弁していた健斗は、すっかり二人に対して感情移入してしまっていた。それまでも彼はずっと涙を流しそうになっていたのだが、昌枝のその言葉を聞いて限界を超えた彼は遂に堪え切れずに泣き出してしまう。その様子に気付いた秀人は、知らずに高ぶっていた感情を少し落ち着かせようとしていた。



「おい、お前が泣いてどうするんだ!? しっかりしろよ!! ちゃんと伝えてくれないと困るだろう!!」


「で、でも、叔父さん…… ううぅ…… ひっく…… これじゃあ、ばあちゃんが可哀そうだよ……」 

 

 健斗が後ろを振り向きながら桜子の姿をした秀人に向かって訴える。すると彼は小さく溜息を吐きながら二度ほど頭を振ると、再度健斗の顔を睨みつける。


「おい、しっかりしろ。ここでお前がヘタレると全てが台無しになってしまうぞ、わかっているのか? いまは可哀そうとか言ってる場合じゃねぇんだよ」


「わ、わかったよ…… ぐすっ」


「わかったんならちゃんと前を向けよ、おら!!」


 健斗は秀人に背中を小突かれると、急かされるようにまた祖母の方を向く。

 正直な事を言うと、健斗はもうこれ以上祖母を傷つけるような事は言いたくなかったのだが、秀人の言葉を聞いていると彼には彼なりに何か考えているらしい。どのみちここは秀人の言う事を聞かなければ昌枝の暴走は止める事は出来ないのだ。




「母さん…… あんたさっき俺に謝りたいって言ってたな? わかった、聞くだけ聞いてやるから言ってみろよ」


 健斗の言葉を聞いた昌枝の顔に驚きの表情が広がる。

 それからすぐに表情を変えると、彼女は涙を流しながら今までずっと胸の内に秘めてきた秀人に対する後悔の念と、如何に自分が母親としての役割を果たしてこなかったかを滔々(とうとう)と語り出した。

 その言葉には真摯で正直な母親としての気持ちが溢れていて、決して自分を取り繕ったり言い訳をしようとはしなかった。


 涙ながらに語るその姿には、最早(もはや)彼女が重度の認知症患者である様子は欠片も見当たらず、幸と健斗が良く知る以前のような昌枝の姿がそこにはあった。



「母さん…… 母さんはずっと秀人にそれを言いたかったんだね…… 病気でもう全部忘れてしまったかと思ったけれど、ちゃんと憶えていたんだね…… 母さん…… それだけは忘れなかったんだね……」

  

 最愛の息子に向かって涙ながらに訴える母親を見ていると、幸の目からはとめどなく涙が溢れてくる。そして自分も彼女と同じように最愛の息子を持つ母親として、昌枝の気持ちが痛いほど良くわかったし、もしも自分が彼女と同じ立場だったとしたら自分には耐える事が出来ただろうかと想像すると、それはとても無理だと即座に思った。



 遂に思いの(たけ)を全て言い尽くした昌枝は、涙を流しながらもどこか緊張した面持ちで健斗の顔を見つめている。その顔には自分の想いが息子にきちんと届いているのだろうかと心配するような表情が浮かんでいて、そこには全て言い切ったという達成感のようなものは全く見られなかった。

 健斗がその視線に耐えられずに俯こうとしているとその後ろから秀人が耳打ちをしてきたのだが、その言葉を聞いた健斗の顔には驚愕の色が広がり始める。


 そして、そんな二人の様子を不安そうに見つめていた幸は、健斗の次の言葉を聞いて思わず凍り付いていた。



「あぁ母さん、もういい、もう何も言うな。あんたの正直な気持ちも、ずっと思っていた事も良くわかったよ。そしてあんたの謝罪の言葉も十分に聞かせてもらった」


「秀人…… それじゃあ……」



「でもな、俺はあんたを絶対に許さない…… ふざけんじゃねぇよ」


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― 新着の感想 ―
[一言] 父親に歯向かわなかったのに学校とかでは暴れてました、ていうのがアンバランスでちょっとダサいんだよな。元凶には太刀打ちできないけど他にはあたります、なんてまさにイキリでしかないわけで。秀人に同…
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