第152話 彼女の好みの男性
桜子は夢の中で秀人と約束をしていた。
それは今度の日曜日に健斗の家に行って、秀人の記憶に残っているある物を掘り起こしてみようというものだった。もしかするとそこに健斗たちの役に立つ物があるかもしれないという事だ。
もっともそれは彼の根拠のないただの予想、もしくは希望に過ぎなかったし、場合によっては何の役にも立たないかもしれないのだが、それでも過去の秀人少年がそこに何か重要なものを埋めたのは間違いないので、掘り起こしてみるだけの価値は十分にあるのだろう。
翌日の朝、早速桜子は健斗と日曜日に会う約束をした。
彼にはまだ詳しい話はせずに「少し確かめたい事がある」とだけ伝えていたので、その言葉に健斗は電話の向こうで怪訝そうな声を出していた。それでも彼は桜子の事を信頼しているので、彼女の言う事に変に疑問を挟んだりもせずに快く了承してくれたのだ。
もっとも彼は、桜子に会えるのであれば余程の事でもない限り何でも言う事を聞いてくれるので、今回のお願いも電話で連絡を入れる前から健斗が承諾してくれることはわかっていたのだが。
よく考えてみると、これまで健斗が桜子の為に何かをしようと頑張ってくれたことは数多くあったが、逆に桜子が健斗を手助けする機会などは余り無かった気がする。だから彼女は今回の事では健斗の役に立てると思うととても嬉しかったし、ちょっとだけ身の引き締まる思いをするのだった。
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翌日もゴールデンウィーク中の休日だったので、桜子と舞の二人は午前11時からの出勤になっていた。二人で同時に更衣室で着替えをしていると、舞が桜子に声をかけてくる。
「桜子、昨日のデートはどうだった?」
「うん、とっても楽しかったよ。彼オススメのレストランはお洒落で料理も美味しかったし、最後に誕生日プレゼントまで貰っちゃったしね」
「そう、それは良かったわね。なんだか羨ましいわ」
楽しかった昨日のデートを思い出しながらとびっきりの笑顔で桜子が答えていると、それに釣られて舞も嬉しそうな微笑みを浮かべている。
彼女にとって、ずっと不幸続きの桜子が少しでも楽しそうにしているだけで嬉しかったし、桜子には幸せになってほしいといつも願っていた。もっとも舞本人も、家庭環境など諸々の事を考えると決して恵まれているとは言えないのかもしれないが、それでも彼女は桜子のことをいつも気にかけてくれているようだった。
「舞ちゃんは今は好きな人とかいないの? 高校に素敵な男子とかいるんじゃない?」
桜子が舞に何気なく尋ねる。
これは単に話の流れでなんとなく訊いただけで桜子には特に他意はなかったのだが、その質問をされた途端舞は暗く沈み込んでしまう。そんな彼女の様子が気になった桜子は、慌てたように続けて口を開いた。
「ご、ごめん、あたし何か変な事言っちゃったかな? 何か気に触った?」
「ううん、ごめんなさい…… あなたが謝ることじゃないわ。ちょっと色々と悩んでいるのよ……」
「えっ? 悩み? ……あたしに何か手伝えることはある?」
舞の言葉を聞いた桜子が、心配そうな顔をしながら舞の顔色を伺っている。
そんな桜子の姿を見つめながら舞は何か思うところがありそうな顔をして口を開いた。
「ねぇ桜子、ちょっと訊いていいかしら?」
「うん、あたしに答えられる事なら何でも訊いて」
「ありがとう…… あのね、例えば20歳近く年上の男性を好きになったとして、あなたならどうするかしら?」
桜子に質問をする舞の顔には、彼女にしては珍しくその内心の戸惑いや困惑が見て取れるほど眉間に皺が寄っていた。
舞は基本的にいつも飄々としていて、薄く微笑を滲ませたクールな表情をしている事が多い。それは彼女が昔から人に感情を読まれないようにするための癖なのだと舞の幼馴染の田村光が言っていた事を思い出したのだが、いま彼女がそんな顔をしているのはそれだけ彼女に余裕が無いという事なのだろう。
舞の質問に少し驚いた桜子だったが、それでも彼女は友人の問い掛けに真摯に答えようとする。20歳年上といえばちょうど店長の増田くらいの年齢だなと、桜子は思いながら慎重に答えた。
「そうだねぇ…… 舞ちゃんの20歳上なら、37歳とかでしょう……? うーん、あたしなら有りかな。お互いに好きならそのくらいの歳の差は問題ないと思うけど。実際にそのくらいの歳の差カップルなんて時々いるじゃない?」
桜子の言葉に、舞の顔がパッと明るくなる。
「そ、そうよね…… 20歳ならまだ親子ほど歳が離れている訳じゃないし…… うん、大丈夫よね」
「ど、どうしたの、舞ちゃん? もしかして…… 年上の人で誰か好きな人が出来たの?」
ぶつぶつと一人で呟いている舞を見つめながら、桜子が恐る恐る尋ねてみる。彼女が時々突拍子もない事を言いだす事を桜子はよく知っているし、実際にその現場に居合わせたことも一度や二度ではなかったからだ。今度は一体何を言い出すのかと、彼女は内心ヒヤヒヤしていた。
中学生の時から、舞は同級生や同年代の異性にはあまり興味が無いようだった。
実際彼女は昔から背も高くスタイルも抜群だったし顔も美少女と言って差し支えないほどだったのだが、不思議と浮いた話は一つもなかったのだ。疑問に思った桜子が光に訊いてみると「性格がおかしいから」と身も蓋もない答えが返ってきたのだが、実際は舞が言い寄ってくる男子全員を断っていたからだった。
桜子も舞が男子にラブレターを貰ったり告白をされる現場を何度も目撃していたが、その全てを舞は即座に断っていた。その姿には相手の事を理解しようとか、歩み寄ろうとする姿勢は一切見られず、頭ごなしにその申し出を切って捨てていたのだ。
その当時は単に相手が舞の好みではなかったのだろうと桜子は思っていたのだが、あながちそれも間違ってはいなかったようだ。
恐らく彼女は同年代の男子の事をまるで子供としか見ておらず、凡そ恋愛の対象としては見られなかったのではないかと思うのだ。。
放課後は弟と妹の保育園のお迎えから夕食の準備、仕事の遅い母親に代わって家事全般をする彼女には異性と付き合ったり遊んだりする時間は無かったはずだし、そんな生活を送る舞のものの考え方が少し大人びていたとしても少しも不思議ではなかった。
だからそんな彼女が好きになる相手がかなり年上の男性だったとしても、ちっともおかしい事ではなかったのだ。
などと、そんな事を桜子が考えていると舞が顔を覗き込んで来る。
「ふふふ…… 内緒、教えない。もう少し話が進んだら教えてあげるけど、それまではダメよ」
その時すでに舞の表情にはいつものクールな微笑が戻って来ていて、桜子を見つめるその瞳にもさっきの戸惑いはもう見られなかった。
「おはようございます」
「はい、おはよう。今日も日勤をお願いして申し訳なかったね。せっかくのゴールデンウィークなのに、ごめんね」
「いえ、あたしはべつに用事も無かったし、大丈夫です」
更衣室から出て来た桜子の挨拶に増田が応えていると、その後ろから舞が姿を現した。
昨日の増田との一件があったのにも関わらず、彼女は普段通りの平然とした顔をして目線もバッチリと増田に合わせて来る。その様子からは全く気まずさや気を遣っている様子は感じられなかった。
彼女のその様子に少しドキドキしながら増田が声をかける。
「東海林さん、おはよう」
「おはようございます…… 店長、ネクタイ曲がってるわよ」
そう言いながら舞が増田に正面から近付くと両手で彼のネクタイを直し始める。
背の高い舞は増田の身長とそう変わらないので、その姿勢だとどうしても両者の顔は近くなり、お互いの息がかかるほどの近さになっている。いつもであれば増田は一言礼を言って即座に離れていたのだろうが、今回ばかりは違っていた。
増田が顔を赤くして身動きできずに固まっていたのだ。
「あ、あぁ、ありがとう……」
「いいえ、どういたしまして」
思わず硬直する増田の顔を間近で見つめながら、舞がいつもと変わらない微笑で答えている。
本当であれば、増田はこのタイミングで彼女に後で話があるからと伝えようとしていたのだが、出会い頭のハプニング(?)で彼はそれ以上口を開くことが出来なかった。
それでも増田は一生懸命話をしようと両手に力を込めたのだが、桜子が意味有り気な眼差しで見つめている事に気付いたのと、舞の名前を呼ぶ声がホールの方から聞こえて来た事もあり、結局何も話せないままになってしまったのだった。
それからずっと桜子は厨房で調理補助の仕事をしながら時々舞と増田の様子を気にしていると、調理師の一人の小野寺が話しかけてきた。
小野寺はメインの調理を担当する調理師で、茶色の髪が目立つ少しチャラい感じの20代後半の男性社員だ。彼は桜子が新人アルバイトで入って来た時からずっと面倒を見てくれている兄のような存在で、桜子の事を年の離れた妹のように可愛がってくれていた。
「おぅ、桜子ちゃん、さっきからキョロキョロしてどうした?」
「えっ、あ、はい、すいません。仕事に集中します」
「あ、いや、べつにそういう意味じゃなくて……」
勤務態度を注意されたと思った桜子が姿勢を正しているのを眺めながら、小野寺は慌てたように手を振った。
「べつに注意しているわけじゃないよ。今日の桜子ちゃんがなんだか落ち着きがないからどうしたのかと思ってさ。……ははぁ、これはもしかして、昨日の彼氏とのデートで何かあったとか?」
小野寺が急にニヤニヤとした表情で桜子にウィンクをして来て、彼女の事を少しからかっているように見えた。しかし当の桜子は小野寺の言葉に昨夜の健斗との甘いひと時を思い出すと、少し顔を赤らめて俯いてしまう。
その様子を見つめ続けていた小野寺は、尚も追及の手を休めようとはしなかった。
「なになに、お兄さんに教えてごらんよ。昨夜は何かいい事あったのかい?」
小野寺のそれは可愛い妹をからかって遊んでいるのに近いものだったのだが、真面目な桜子はそれに対して真摯に答えようとしている。彼女は顔をさらに赤くしながら、それでもとても嬉しそうに口を開いた。
「はい。昨日は彼に誕生日プレゼントを貰ったんです。これですよ、とっても素敵でしょう?」
そう言いながら桜子が左手首の袖を軽く捲ると、そこには淡い緑色のストーンブレスレットが鈍く光を反射していて、それを見つめる彼女の青い瞳は優し気に細められている。小野寺はそんな桜子の姿を見つめながら、この少女にこれほどまでに好かれている彼氏とは一体どんな男なのかとても気になっていた。
しかし、これだけの飛び抜けた美貌を誇る彼女は、その外見からは想像できないほどに地味で真面目な性格をしている事を最近理解して来た小野寺は、彼女が選んだ恋人なのだから決して変な男ではないのだろうと思ったし、ストーンブレスレットを見つめる桜子の優しい眼差しは、きっとその恋人にしか向けられる事の無いものなのだろうと思うと微笑ましい気持ちになるのだった。
同じ頃、事務室でアルバイトの来月のシフト表を作っていた増田は、なかなか仕事に集中できずに何度も椅子の背もたれに身体を投げ出していた。
本当であれば舞の出勤の時に声をかけようと思っていたのだがそれも出来なかったし、今日の彼女の様子も表面上はいつもと変わらないように見えた。彼女の昨日の一言でこれだけ自分が動揺しているというのに、舞はちっともそんな素振りを見せないどころか、さっきのようにさり気なく接触を図ってこようとしている。
彼女の真意は一体どこにあって、どうしたいのだろうかと増田がマウスを握ったままの右手を見つめていると、突然背後のドアがノックされた。
突然の物音に思わずビクリと背筋を震わせた増田だったが、とりあえず声をあげる事にした。
「はい、どうぞ、入って」
「失礼します……」
油の切れかけたドアの蝶番から軋む音を響かせながら事務室に入って来たのは、他でもない東海林舞だった。彼女はいつも通りの薄い微笑を顔に浮かべながら部屋の入り口から滑り込んで来る。
「店長、お話があるんだけど……」
直前まで舞の事をずっと考えていた増田は、あまりのタイミングの良さと舞の言う「お話」の事が気になって、思わず声が裏返ってしまった。
「ど、どうしたんだい? 何の話かな?」
増田のその若干裏返った声を聞きながら、舞は変わらぬ微笑みを湛えた顔で彼を見つめたまま、後ろ手で部屋の扉を静かに閉めた。




