第151話 過去の記憶と思い出と
午後11時30分過ぎにアパートに辿り着いた増田は、届いていた郵便物の差出人の名前を確認しながら狭い玄関を上がってリビングへと入っていく。リビングと言っても、彼の住んでいる部屋は八畳と六畳の部屋が繋がる2DKの間取りなのでその境目は曖昧だった。
彼は六畳の部屋の仕切りになっている襖を普段は取り外して全体を十四畳のワンルームのような使い方をしているのだが、残念なことに奥の六畳の部屋は畳敷きの和室なので、床に段差ができていて今ひとつ使い勝手が悪い。
誰もいない一人きりの部屋に上がった増田は、部屋の中央に置かれた座卓の上に途中のコンビニで買ってきた弁当とビールを置くとその前にどっかりと座り込む。
職場がファミレスなので夕食も賄いが出るのだが、彼はいつも家に帰って来てから二度目の夕食を食べていて、そしていつも後悔していた。
「こりゃあまたスラックスを新調しないといけないかもなぁ…… ズボンのベルトも苦しくなってきたし、本格的に太ってきたかもしれんなぁ……」
毎日のように同じ事を呟きながら、それでも帰りにコンビニの弁当を買うのがやめられない。
そんな自分には学習能力がないのではないかと小さな後悔を噛み締めながらテレビのスイッチを入れると、今日一日のニュースをぼんやりと眺めながらビールで弁当を流し込んだ。
午前0時を回った頃にようやくシャワーを浴びる。
部屋に備え付けの風呂にはもちろん浴槽もあるのだが、ここに入居してから一度もお湯を張ったことは無く、いつもシャワーで済ませていた。そのせいなのかはわからないが、最近皮膚の表面が妙にガサガサするのが気になっている。
それから午前一時過ぎに一年以上敷きっぱなしの万年布団で眠りについて、翌朝10時にはまた職場に行くという生活をずっと繰り返している。しかし今日に限って彼はなかなか寝付くことが出来なかった。
それは舞に言われた一言がずっと彼の頭から離れなかったからで、一人で考えていても決して答えの出ない問いを自分自身に向けて問いかけ続けていたからだった。
増田は現在36歳の独身で今までに結婚歴はなく、暮らしぶりからもわかる通り現在は恋人もいない。
いや、「現在は」という言い方は語弊があるだろう。彼は高校を卒業してから現在まで女性と交際した経験はなく、10年以上前に友人に無理やり連れて行かれた風俗でしか女性経験がなかったからだ。
増田が高校生の時に同級生に好きな女の子がいたのだが、地味な性格の彼には告白どころか挨拶程度の会話をするのが精一杯だった。
結局遠くから彼女を眺めるだけで高校の三年間を終えてしまった彼は、その子の事を今でも大切な初恋の思い出として胸の中に秘めている。それはロマンチストと言えば聞こえは良いが、単に未練を引き摺っているだけなのだろう。
高校を卒業すると増田は今の会社に就職して地元を離れて行き、その女の子も地方の短大に進学して同じく地元を出て行った。
数年後に開かれた同窓会に増田は仕事のために顔を出せなかったので、その後その子がどうなったのかはわからなかった。しかしクラスでも人気者だった彼女の事だから、きっと素敵な男性と今頃どこかで幸せに暮らしているのだろうと思っている。
そんな風にいつまでも初恋の相手が忘れられない益田だったが、べつにその子に拘っていたり彼女以外の女性に興味がないわけでもなく、機会があれば恋人くらいは欲しいと思っていた。しかしそのための努力を特にするわけでもなく、ただ「出会いが無い」とボヤいているうちに、気付くと今の年齢になっていたのだった。
ファミレスの店長という立場上、どうしても拘束時間が長くなりがちの彼にはプライベートで女性と親しくなるような機会もなかったし、そもそも家と職場を往復するだけの毎日なので、増田にはプライベートな時間などというものは殆ど無かった。
それでも職場には女子高生も含めて若い女性のアルバイトは何人もいる事を考えると、ただ単に増田がそれほど本気で恋人を探そうと思っていないだけなのかもしれないし、もとより彼が魅力的な男性として異性から見られていないだけなのかもしれなかった。
「……しかし、女子高生は無理だろ…… 話だって合わないだろうし、彼女から見たら俺なんてただのキモイおっさんだと思うんだが……」
増田は自分の事を男として魅力があるとは思っていなかった。
身長こそ人並だが、運動をせずに夕食を毎日二回食べる生活のせいで最近は腹が出て来たし、身体全体にも脂肪が付き始めてきているのも自覚している。
顔は特にブサイクではないが、かと言ってイケている訳でもなく、これと言って特徴の無い外見をしている。
社会人としてずっと長い間揉まれてきたので、職場での立ち居振る舞いや部下に対する態度などは意識して作っているところもあるし、ある意味割り切っているところもあるのだが、本来の彼は穏やかで優しい性格をしている。
今では学生の時のようにただ大人しいだけの性格では無くなっていたが、それでも決して押しが強いとも思わないし、率先してリーダーシップを発揮するような人間ではないと自分では思っている。
だから普通の女性はこんな自分にはあまり魅力を感じないだろうし、一緒にいても楽しくないだろうと思うのだ。
それがどうして舞のような美少女が自分の事を好きだと言うのか、増田にはどうしても理解できなかった。
東海林舞は身長が170センチもあるうえに、胸も腰も魅力的に発達した所謂モデル体型をしていて、さらに滅多に見ないほどに整った顔立ちをした美少女だ。
増田の目から見ても彼女はとても綺麗だし、女性としても魅力的だとも思う。特にあの大きな胸は破壊力抜群だ。
増田だって男なのだから、あれほどの美人と付き合えるのであればこれほど男冥利に尽きるものはなかったし、できればそうしたいとも思う。
しかし舞の大人びた顔つきのせいで時々本当の年齢を忘れそうになるのだが、実際には彼女はまだ少女と言える年齢なのだ。
舞は最近高校二年生になったばかりの16歳で、まだ子供とも言える年齢だ。一般的に16歳といえばまだまだ恋に恋する年齢で、凡そ増田が恋愛の対象として見られるものではなかったし、そもそも18歳未満の少女と変に親しくなったりすれば速攻で逮捕案件になってしまうではないか。
それはさすがにマズイと思うし、果たしてこんなに歳の離れたおっさんの一体どこがいいのだろうか。
とりあえず、明日は職場で彼女と話をしてみよう。
そうしなければ何もわからないし、自分一人でこのまま悩んでいても答えなど出るわけも無く、全くの無駄だろう。
布団の中でぼんやりとそんな事を考えてるうちに、増田は睡魔に飲み込まれて行った。
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「何故だ!? どうして俺はあの日よりも前の事が思い出せない!? どうしてだ!?」
辺り一面真っ白な世界に秀人の悲鳴が響き渡る。
彼は桜子に言われた言葉通りに自身の幼少期の記憶を呼び覚まそうとしたのだが、何度記憶を辿ってみてもある日の光景よりも前の事が思い出せなかった。
桜子の言う通り、確かに自分にも幼少期があったはずなのに、その当時の記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。
それはまるで突然記憶喪失にでもなったかのように思えて、無駄だとわかっていても秀人は何度も記憶を辿っては愕然としていた。
「ど、どうしたの? 何が思い出せないの? 大丈夫?」
「……あ、あぁ、どうにもおかしな話だが、ある日を境にそれ以前の記憶が全く無い事に気付いてな」
「……どういう事?」
秀人の言葉の意味がよく理解できなかった桜子が、怪訝な顔で訊き返しながらそのままジッと秀人の顔を見つめると、彼はそれに耐えられないように不意に視線を外した。それはいつも強気で目力の強い秀人にしては珍しい仕草で、それだけ彼が動揺しているという証拠でもあった。
「それが俺にも良くわからんのだ…… 実は俺が中学一年の時に家族と訣別する決心をした事があってな……」
「家族と訣別……? お父さんに辛い目に遭わされていた時の事?」
「そうだ、俺があのクソ親父に虐待を受けていた時だ。家族の誰も味方になってくれないと確信した俺は、あいつらと家族でいる事をやめたんだ」
「そ、そんな…… 鈴木さんがそこまで追い詰められていたなんて…… ううぅぅ…… ぐすっ……」
秀人の言葉から当時の様子を想像した桜子は、感極まって思わず涙を流してしまう。
どうも彼女はこの手の話を聞くと必要以上に感情移入してしまう癖があるようで、悲しい話を聞いたり、そんな映画を見るだけで涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしてしまうのだ。
もしもこんな顔を健斗に見られでもしたら、一瞬にして100年の恋まで冷めてしまうのではないかというような酷い顔をしていたのだが、そんなぐしゃぐしゃな顔の桜子もやっぱり可愛いと絶対に思うのだろう。
しかし秀人にとって彼女のその反応は、目障り以外の何物でも無いようだった。
「だぁぁ!! いちいち泣くんじゃねぇよ、鬱陶しい!! 」
「だ、だって……」
桜子が目を赤くしながら唇を尖らせていて、その顔はまるでアヒルのようだった。
「いいから聞け!!」
「は、はひっ!!」
「俺は奴らとの過去を捨てるつもりで、ある物を捨てる事にしたんだよ」
「捨てた…… 何を?」
過去を捨てる為に捨てる物とは一体何なのだろうかと、桜子の頭の中には大きな疑問が湧いていた。
「……それが思い出せんのだ。自分が何を捨てたのかも憶えていないんだ」
秀人が苦々しい表情で吐き捨てる。その言い方はいまにも唾をペッと吐き出しそうな勢いだった。
「それも憶えていないの?」
「そうだな、全く思い出せん……」
その時秀人の頭にある考えが浮かんだ。
今となっては、自分の疑問を解決するためにはその方法しかないのだろうと思った彼は、桜子にもそれを協力させる事にした。
「わかったよ、お前がさっき言っていた話だがな、その顔に免じて健斗に力を貸してやろうじゃねぇか」
突然の秀人の提案に、桜子の顔にはパッと喜色が溢れてくると、ついさっきまで涙と鼻水を流してべそをかいていた顔とは全く違い、その青い瞳は明るく輝いていた。
「えぇ!! いいの!? 協力してくれるの?」
「いや、協力というか、何かわかるかもしれないという程度の話だがな。もしも見当が外れたら、すまねぇな」
ぼそぼそと小さな声で秀人が助力を申し出たのだが、もちろんそれは彼の好意などではなく、途切れた自分の記憶の謎を解き明かそうとしているに過ぎなかった。なぜならそれは、過去の記憶が途切れた最後の光景が、彼が家族と訣別する証として実家の庭の木の下に何かを埋めている光景だったからだ。
そしてその光景はそれから30年以上経った今でもハッキリと憶えていて、それからまた始まった虐待の日々の記憶から父親が死んだ記憶、喧嘩に明け暮れた高校時代の事も全て鮮明に思い出せるのだ。
しかし不思議な事に、自分がそこに埋めた物が何だったのかはまるで記憶になかった。
あそこを掘り返せばきっと何かがわかるはずだ。
秀人は桜子に力を貸すと言いながら、実際は自身の記憶の謎を解き明かそうとしていたのだった。




