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第148話 叔父の不遇の過去

 5月上旬。

 5月1日の誕生日に桜子は17歳になった。


 ゴールデンウィークに突入した世間は何やら浮かれた雰囲気を醸しているのだが、ここ小林家と木村家には全く関係がないようだ。


 連休中の桜子はバイト先のレストランが繁忙の為に朝から夕方までの勤務をお願いされていて、彼女も特に用事がなかったのでそのまま連日勤務することになった。

 母親の楓子もパート先のスーパーには連休は関係ないので普段と変わらない勤務状況だし、むしろ連休中の方が忙しいくらいだ。


 木村家では健斗は連休の殆どを柔道部の練習に費やす事になっていて、この中で唯一幸だけがゴールデンウィークの恩恵を受ける事になった。

 幸の仕事は近所の個人病院の受付なので、そこは中日の平日も休みにすることによって驚異の9連休となっていた。それでも彼女は普段できない家事や母親の面会に行ったりするので、それほどのんびりもしていられなかったし、健斗が毎日部活に行っている手前自分だけが遊びに出掛ける訳にも行かず、只管(ひたすら)何も無い毎日を過ごしている。 



 そんな中、幸の母親の昌枝が入所する特別養護老人ホームから電話が来た。

 それはまた昌枝が暴れたという知らせで内容も前回と同じだったが、ただ前回と違う点は、彼女の暴れ具合が激しすぎるので、この状態がこのまま続くようであれば本当に施設からの退去を視野に入れてほしいというところだった。

 このままではいずれ他の入居者に怪我をさせてしまう恐れがあるし、そうなる前に施設側も対処が必要なので家族にもそれを協力してほしいというお願いだ。いや、もう既に要請と言える内容だろう。



「なぁ母さん、うちに秀人叔父さんの形見とか何か残っていないのか?」


「それがね、秀人の写真はあの子が中学生の時に自分で全部処分してしまったし、もともと少なかった私物も高校を卒業した時に全て捨ててしまったみたいでね……」


「一体なんでそんな事になってるんだ? そもそも叔父さんってどんな人だったのさ」


 健斗の質問に対する幸の答えは歯切れが悪く、彼が訊ねたことに対してもどこか言葉を濁したような返事しか返ってこない。叔父について話す時の母親の眉間にはいつも深い(しわ)が刻まれていて出来れば語りたくないようにしか見えなかったのだ。


 実は健斗が自分に叔父がいた事を知ったのはほんの数年前の事で、それまで自分には叔母が一人いるだけだと思っていた。叔父の存在はまるで母親も祖母も意図的に隠しているように感じたし、出来ればその話題には触れたくない様子が二人からは見て取れた。

 不思議に思った健斗は、その年の盆に叔母の(さき)が実家を訪れた時に思い切って聞いてみた事があったのだが、その時の叔母も言葉を濁して多くを語ろうとはしなかった。



「そうね、こんな事いつまでも隠していても仕方ないし、あんたの血の繋がった叔父さんでもあるんだから全部話してあげるわね」


 今回の昌枝の件では、どうしても秀人の話題は避けて通れないだろう。それならば健斗には全て話すべきだし、そうする事が秀人に対する贖罪になるとは思わないが、それでもそのまま秀人を過去に葬ってしまう事は幸の良心が許さなかった。

 そう思った幸は姿勢を正すと健斗に向かって口を開いた。




 母の話を聞いた健斗は、とても驚いていた。

 その話からわかった事は、叔父の秀人は実の父親から虐待を受けていたという不遇の少年時代を送っていた事と、祖母も叔母もそして母親の幸もそんな彼に救いの手を差し伸べなかったという非情な現実だった。

 もちろんそれぞれの家庭にはそれぞれの事情があるので、彼が一方的に彼女たちを非難することは出来ないだろうし、その一連の出来事が彼女たちの心の奥深くに決して癒やされない深い傷を残している事を考えると、健斗が敢えて言及すべきではないのだろう。

 

 それにしてもと健斗は思ってしまう。


   

 叔父が高校に進学した少し後に父親が病気で亡くなったのだが、その時既に父親を凌ぐ体格に成長していた彼は、もしもその時に父親が健在だったとしたら、もしかすると父親の事をどうにかしていたかもしれない。


 父親が亡くなった後には、今度は祖母と母親姉妹が彼を恐れ(おのの)くようになった。それは父親から開放された秀人が残った家族に対して無言の恐怖を与え続けたからだった。

 彼は決して家族に直接手を出したりはしなかったが、無言で彼女たちを睨みつける秀人の視線は彼女達にとっては恐怖の対象でしか無く、それはそれまで彼女たちが秀人に取り続けた態度に対する後ろめたさも多分にあったことは想像に難くない。


 そして高校卒業と同時に家族には行き先を一切告げずに彼は忽然と姿を消してしまい、10年後に母親が再会した既に冷たい遺体になっていた。

 結局昌枝はそれを期に仕事も辞めて自宅に引き籠るようになり、外に働きに出る幸の代わりに家事をしながら健斗の面倒を見てきたのだった。




「……わかった。それじゃあ、叔父さんの遺品は何も残っていないんだな?」


 ある意味告白に近いような幸の話を聞き終わった健斗は、彼なりに思う事も言いたい事も訊きたい事もあったのだが、それについては敢えて何も言わずにいて、まるで自分の古傷を自ら抉るような胸の痛みに耐えながら話し終えた幸にとっては、彼のその態度はとても有難かった。

 それでも幸は、母親として息子に自身の過去の過ちを告白した思いは、なんとも筆舌に尽くし難いものだった。


「そうね、秀人が家からいなくなる時に私物は全て捨てるか持っていくかしてしまったから、彼の持ち物も一つも残ってはいないのよ」


「それじゃあ、写真はどうしようか?」


「そうねぇ…… ねぇ健斗、あんたの写真だとバレるかな? おばあちゃん、あんたの事を秀人だと思ってるし」


「……どうだろう、やってみないとわからないけど…… でもなんかばあちゃんが可哀想だな」


 どうやら祖母を騙す事になりそうなので健斗の良心は痛んだのか、少し顰め面をしている。

 

「まぁね。でも背に腹は代えられないしねぇ。おばあちゃんが施設を追い出されたら困るし……」


「そうだな…… あっ、もう行かないと。晩飯は済ませてくるからいらないよ」


 チラリと時計を見た健斗が慌てたようにソファから立ち上がると、そのまま何処かへ出掛けようとしている。椅子の背もたれにかけてあったジャケットを羽織りながら幸の方をチラリと見ながら声をかけた。


「あぁ、はいはい。そう言えば今日は桜子ちゃんと久しぶりのデートだっけ。それじゃあごゆっくりー」


「……」


 幸のニヤニヤ笑いに若干イラッとしながらも、母親に背中向けた健斗の顔にはワクワクとした嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。




 ----




 その日の桜子のバイトは午後二時で終了して、その後は健斗と駅前で合流してデートをする予定だった。もちろん夕方は二人で一緒に夕食を食べてから帰る事になっていて、数日前から二人ともとても楽しみにしていたのだ。

 健斗の部活は連休中今日だけ休みなので、桜子も今日だけは早くバイトを上がらせてもらえるように何日も前から店長の増田にお願いしていた。


 桜子がバイトを初めてからまだ半月も経っていないとは言え、仕事の飲み込みも早く上司の指示にも素早く正確に対応する上にいつもにこやかで人当たりの良い桜子は、既にアルバイト先の先輩社員たちの間でも人気者になっていて、多少の無理は店長の増田も聞いてくれたのだった。



「あぁ小林さん、もう時間だから上がっていいよ」 

  

 増田が2時5分前に桜子を呼びに来ると、仕事を終えるように促してくる。

 彼はいつも顔ににこやかな笑みを浮かべていて物腰も柔らかいのだが、その目は全ての社員の動きを正確に把握していて、状況の理解もその指示も常に正確だった。だから桜子がこの後に用事があることもきちんと憶えていて、時間ちょうどには帰られるように気を利かせてくれたのだ。


「店長、ありがとうございます。今日は無理を言ってすいませんでした」


「いや、いいよ。君は今日までずっと連勤だったから、今日くらい早く帰っても誰も文句は言わないさ。ところで…… もしかしてこれからデートかい?」


 増田の最後の言葉は彼なりの冗談だったのだが、その言葉に思わず顔を赤らめた桜子の様子に興味深そうな顔をしている。


「おっと、ごめんよ、冗談だから。それじゃあ気を付けて。あぁ、君は明日は休みだから、一応確認ね」


「はい、ありがとうございます。それでは失礼します」




 ペコリとお辞儀をして去って行く桜子の背中を見つめながら、増田は彼女の事を考えていた。


 あの小林桜子という少女は大した人物だと思う。

 もちろんそれは仕事の覚えが早いとか、先輩社員に対する態度が素晴らしいなども確かにあるが、それ以前に一人の人間として好ましいと思うのだ。


 言うまでもなく彼女の容姿がずば抜けている為にそれを見る目が影響を受けている部分は否定できないが、それでも彼女の人間性は人としてとても魅力的だと思う。

 先輩社員の言う事には真摯に耳を傾けるし、指示された事を素早く正確に処理していく能力も非常に高いものを持っている。また、手すき時間に自ら仕事を考えて作り出し、勤務時間を一秒たりとも無駄にしない姿勢も称賛に値するものだ。


 聞けばつい先日まで家業の酒屋の切り盛りを手伝っていたとかで、彼女自身も店の運営や経営の経験もあるらしく、そもそも労働に対する考え方が普通の人間とは違うのかも知れない。人に雇われた事しかない人間と自ら経営を経験してきた者との違いというべきか、とにかく他の社員たちとは少し見ている場所、つまり着眼点が違うようなのだ。


 そういう自分も一介の雇われ店長でしかないのだが、それでも彼女が少し他の者とは違う事くらいは当然わかるし、自分もそうでありたいとずっと思って来たのだ。

 それにしても、容姿も性格も人間性も、まるで神が造り出したかのような完璧な人間が本当にいるものだと、増田は興味深そうにしていた。



 

 増田が事務室で桜子の事をぼんやりと考えていると、背後から声をかけられた。


「てんちょー、お昼入りまぁーす。失礼しまぁーす」


「あ、あぁ、東海林さんか、お疲れ様。もう(まかな)いは受け取ったかい? まだなら……」


 ランチタイムの営業が終わったので、これから遅めの昼休憩に入るために舞が事務室まで下がって来ていた。彼女は桜子を見送ったままの姿勢で考え事をしている増田を見つけると、にこやかに話しかけて来たのだが、いつもクールな表情を崩さない彼女にしては珍しいと増田は思っていた。

 

「ねぇ、店長、何を考えてたの? もしかして桜子の事かしら?」


「あ? あぁそうだな。小林さんの事を考えていたよ。彼女は仕事の覚えは凄く早いし……」


 舞が増田の言葉を平然と遮って話し続けて来る。彼女は相手が店長であっても相変わらず敬語を使おうとはせず、常にタメ口をきいて来る。そんな舞には増田ももう慣れてしまって、今ではなんとも思わなくなっていた。


「やっぱり店長も桜子の事を考えるのね…… まぁ、私よりもずっと綺麗な子だから仕方ないけれど……」

 

 先ほどとは少し様子の違う舞に気付いた増田が彼女の事を観察していると、(うつむ)き気味の彼女の顔はさっきに比べると表情も若干暗いような気がした。

 

「……どうしたんだい? 東海林さん。急に元気がなくなったようだけど……」


「店長…… やっぱり店長も桜子は可愛いと思うの?」


「小林さんかい? そりゃあそうだろう。僕だって今まであんなに可愛い子は見た事がないよ」


「……そうよね、あの子は可愛いわよね…… 店長もそう思うのよね」


「……さっきからどうしたんだい? なんだか元気がないね。大丈夫だよ東海林さん。君だってとっても綺麗だと思うよ、スタイルも抜群だしね。僕もあと10歳若かったら君に告白していたかもね。ははは」


「……」


 なんだか元気のない舞を励ますように軽い冗談を言ったつもりの増田だったが、彼の言葉に益々舞が沈み込んでいるように見えた。そして増田が早く休憩に入るようにと舞を促していると、急に彼女は増田の左腕を掴んだ。


「ど、どうしたんだい、東海林さん、早く休憩に入らないと……」


 舞に急に腕を掴まれて驚いた増田はそれでも表情を崩さないように平静を装っていたのだが、彼女の次の言葉を聞いた瞬間にもう驚きを隠す事は出来なくなっていた。



「店長、10歳若くなくてもいいから…… 今のままで私は構わないから…… 私は店長の事が好きなの。だからあの子じゃなくて私を見てほしい……」


「えっ!? しょ、東海林さん!?」


 舞の言葉に驚いた増田が思わず彼女の顔を凝視したのだが、舞はその視線から避けるように顔を俯かせる。舞の表情を伺う事も出来ずに増田が言葉に詰まっていると、舞がそのままの姿勢で口を開いた。



「……私、お昼に入るわね。店長、失礼します」


 明らかに動揺している増田の顔を確認するように一瞬チラリと視線を向けた舞は、それ以上何も言わずに休憩室へと入っていく。


 増田はその背中を呆然とした顔で見送っていた。


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[気になる点] 秀人が生前持っていただろう携帯に、仲間内で撮った写真は無いだろうか、と思った。
[一言] おう、何という「恋雨」!ウラヤマシすぎる 店長が大泉洋に見えてきた
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