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第145話 祖母の記憶

 4月上旬。

 桜子は高校2年生になった。


 2年生に進級する際に理系クラスと文系クラスに分かれるので大幅なクラス替えがあり、桜子は理系クラスを選択したので1組になって、健斗は文系の6組、美優は文系の5組、剛史も文系の8組となり、七海と琴音が意外にも桜子と同じ理系の1組になった。


 元々ここ有明高校は進学校ではないので、国公立大学受験も視野に入れた理系クラスの数は1クラスしかなく、さらに女子の数はもっと少なかった。そんな状況の中で理系を選択した女子三人が同じクラスになるのは偶然でもなんでもなかったのだが、それでも同じクラスになった事を三人は手を取り合って喜んでいた。

 ちなみに菊池智樹(きくちともき)森川彩葉(もりかわいろは)ともに文系の5組になり、ギャルの有田ゆかりは文系の6組で健斗と同じクラスになった。

 



 

 数日前から楓子は近所のスーパーの食品売り場でパート従業員として働くようになった。

 そこは以前から彼女が買い物に使っていた大型のスーパーで、ある日買い物に行った時にちょうどパート募集のチラシが目に入ったからだった。実は別の場所でフルタイムの正社員で働く話もあったのだが、実働時間が長いうえに現在56歳の楓子の体力では少々心許ない業務内容だったので、結局スーパーのパートで働く事を選んだのだった。


 彼女の勤務条件は実働1日8時間、週5日勤務の時給制非常勤社員で各種社会保険も完備されている。時給制と言っても手取りで月に10万円以上の収入にはなるし、なにより会社が社会保険に加入させてくれるという事が今まで個人事業主であった楓子にとってはとても魅力的な話だった。

 シフト制なので必ず土日が休みになる訳では無いが、それでも週に二日は休めるのでそれも彼女にとってはありがたかった。




 舞にアルバイトの話を聞いてもらえるようにお願いしていた件は、現在調理補助を担当しているアルバイトが今月末で一人辞めるところなので、もしも入れ代わりに来てくれるのならとても助かると言われたそうだ。

 以前に舞が言っていた通り、調理補助とは野菜を切ったり盛り付けたり、食器を洗ったりする仕事で、時には既成の食材を使ってデザートやサラダなどを作ったりもするらしい。


 それならば今の桜子にも何とかできそうだと思ったし、なにより厨房から出る事が殆ど無いので、人前で目立つ事を避けたい彼女の希望とも合致する。

 そこで桜子は舞に話を聞いたその日の夜に早速楓子にアルバイトの件を話してみると、予想に反して彼女はあっさりと承諾の意思を示したのだった。




「あなたがしたいのであれば全く構わないわよ。それにお店もいつも使っている駅の近くだから、学校帰りに直接寄れて便利なんじゃないの?」


 随分とあっさりした母親の返事に桜子は少々拍子抜けしていた。

 彼女の予想としては、さすがに頭ごなしに断られはしないだろうが、母親はある程度の難色を示すのではないかと思っていたからだ。


「えっ、いいの? あたしはてっきりダメって言われるかと……」


「まぁね。確かに少し心配なのは確かだけれど、いつまでもあなたに紐を付けておく訳にもいかないでしょう? だけど学校の成績に影響が出るようであれば考え直すけどね」


「うん、わかった。お母さんありがとう」


「はい。頑張りなさい」



 実は楓子は、桜子がしたいと言うのであればアルバイトをさせても構わないと前から思っていた。

 もちろん職種にもよるが、いま彼女から聞いた限りでは通学に使っている電車の駅の近くなので放課後の帰宅途中に直接出勤出来るし、内容も調理補助という事で危険な事も無いだろう。なにより桜子の中学生の時の友人が既に1年近く勤めているのだから、おかしな人がいるという事もなさそうだ。


 桜子が高校に入学してからずっと家業の酒屋の手伝いをさせて来て、それが彼女の貴重な青春の時期を犠牲にさせている事実に長らく楓子は苦しんできた。

 それが店を畳んだせいで自由に遊べるようになると、放課後に桜子は友達とお茶をしたり買い物に行ったりして楽しむようになったのだが、約束のない日には早々に家に帰って来るとぼんやりとテレビを見ているだけの事が多かった。


 その背中には何か儚さのようなものが垣間見えて、酒屋の手伝いという小さい頃からの彼女なりの生き甲斐を失って燃え尽きているように楓子には見えた。だから彼女がしたいという事であれば、無理のない範囲で何でもやらせてあげようと思っていたのだ。

 それが部活でも委員会でも構わなかったし、今回のようにアルバイトでももちろん構わなかった。とにかく今は、彼女がしたいと言う事を自由にやらせてあげる、それが大切だったのだ。


 いつの間にか自分で考えて自分で行動を起こすようになっていた大切な一人娘の姿を見つめながら、楓子は嬉しそうな笑みを漏らしていた。



 

 ----


 

 

「健斗、日曜日の午前中におばあちゃんの様子を見に行くから付き合ってね」


 金曜日の夜に風呂から上がった健斗がシャツとパンツでリビングをウロウロしていると、母親の(みゆき)が声をかけてきた。彼は言葉を発する代わりに右手を上げて合図をすると、その会話を一切膨らませることなくそのままソファに座ってぼんやりとテレビを見始めた。

 そんな自宅でも極端に無口な一人息子の姿を眺めながら、幸はわざと聞こえるような大きさで呟いている。

 

「んもう、いくら無口だって声に出して返事くらいしなさいよ。よくそれで桜子ちゃんに愛想を尽かされないものねぇ…… あんた彼女と二人の時は何を話しているのよ」

 

「……いいだろ、べつに」


 健斗は普段から無口というか寡黙というか、とにかく極端に口数が少ない。

 それは母親の幸の前でも全く変わらないのだが、幸にはそんな彼の考えている事や思っている事は大抵わかっているし理解もしている。

 それに健斗は昔から嘘をついたり曲がった事が大嫌いな性格なので、彼が親を困らせるような事は今までした事も無いし、これからもそういう事はしないだろうと母親として信頼しているのだ。

 だから息子とはあまり会話が無くても、幸はそれほど気にした事は無かったのだ。



「わかったよ。日曜日の午前中な。出来る限り起きるようにするよ」


「出来る限りじゃなくて、絶対に起きなさいよ。なんなら桜子ちゃんに起こしに来てもらおうかしら」 


「……」


 息子に恋人の名前を言うと、目に見えて顔が赤くなる。

 その度にこの子はどれだけ彼女の事が好きなのかと、その純粋な気持ちが少し羨ましくなるのと同時に彼の事が少し痛ましく思えてしまう。

 それは幸も桜子の病気の事を知っているからだ。決して彼女のせいだと言っているのではなく、不幸な事故だったのだと思うようにしているのだが、健斗が桜子を想う気持を間近で見ている幸にとっては、さすがに少し気の毒に思えてくる。

 

 二人は付き合ってもう3年以上にもなるのに、未だに一定以上の関係になれていない事を思うと二人がとても不憫だし、可哀そうに思うのだ。

 もちろん愛し合う男女に肉体関係が必ずしも必要だとは思わないが、あれだけ想い合っている二人であればもうそれも許されるのではないだろうか。もっとも娘親の楓子はまた違う考えなのかも知れないが、幸としては二人の気持ちを思うと居た堪れなかった。


 そしてそんな健斗は、母親の気持ちを知ってか知らずか、テレビのバラエティ番組を仏頂面のまま見つめているのだった。



  

 日曜日の午前中に、幸の母であり健斗の祖母である鈴木昌枝(すずきまさえ)が入所している施設を訪ねていた。

 昌枝は数年前から認知症を患っていたが、初めの数年間は症状も軽かったため幸が仕事をしながら自宅で介護していた。しかし昨年の夏ごろから急に症状が重くなって自宅で暴れたり外を徘徊するようになったため、やむなく特別養護老人ホームに入居を申し込んだのだ。


 母子家庭の木村家では、幸は平日はフルタイムで働いているし、健斗も高校と部活でいつも帰りが遅い。だから認知症が進行した状態では一人では危険すぎて自宅に置いておけなかったが、それでも実際に入居できるまでに3ヵ月も待たされてしまった。

 その間は有料老人ホームなどを利用したりショートステイを申し込んだりと手間と金銭面でも大変だったのだが、なんとか特別養護老人ホームに入居することが出来たのだった。


 

「やぁ、ばあちゃん、元気にしてるか?」


「あぁ、秀人や、よく来たねぇ。どうだい、お前も元気にしていたかい?」


 一週間ぶりに会う健斗が声をかけると、祖母の昌枝が嬉しそうに近寄って来て口を開く。その様子はどこか無邪気な子供のように見えて、最早(もはや)健斗が知っている祖母とは違っていた。


「お母さん、この子は秀人じゃないでしょ。孫の健斗だよ」


「あぁ、そうだったかねぇ…… 秀人じゃないのかねぇ」


 この会話を毎回のように繰り返すのだが、次に会う時にもまた同じ会話をするのだろう。

 すっかり昌枝は健斗の事を長男の秀人だと思い込んでいて、しかも彼がまだ子供だった頃の遠い昔の記憶の中に生きているようだった。

 その様子を切なそうに見つめる幸の目には薄っすらと涙が浮かんでいて、母親がこうなってしまった理由を思うと幸自身も後悔の念に捕らわれるのだった。


 昌枝は健斗の事を秀人と呼ぶが、それもあながち無理のない話だ。

 特に最近の健斗の顔には母親の幸から見ても自分の弟の秀人の面影を感じられて、さすがは叔父と甥だと、その血の繋がりを感じさせるものだったし、特に彼の表情を読みづらい細い目と仏頂面で無口なところは秀人そっくりだった。


 もっとも秀人の仏頂面で無口なところは彼の元々の性格ではなく、本来の彼は明るく朗らかな優しい少年だった。それが父親に虐待を受け始めて数年経った中学一年生の頃に、急に人が変わったように性格も変わってしまったのだ。

 それまでは幸が話しかければ普通に返してきたり時には笑ったりもしていたが、ある日を境に急に性格が変わってしまい、姉妹どころか母親の問い掛けにも一切返事をしなくなった。それ以来顔を合わせる度にもの凄い目で睨みつけて来るだけで、一切口を開くことはなかったのだ。


 そしてそんな彼の様子に恐怖すら感じるようになった姉の(みゆき)と妹の(さき)は、家の中でも彼に話しかける事は無くなっていった。しかしその時に自分がもっと勇気を持つ事が出来ていればもう少し違う結果になったのではないかと、幸は今でも後悔しているのだった。



「いいよ母さん、ばあちゃんの呼びたいように呼ばせてあげよう」


 自分の事を忘れてしまっている祖母の姿に少し哀れな視線を投げかけた健斗だったが、それでも彼は祖母の思いを尊重しようとしている。そんな彼の優しさを見ながら、幸はそっと小さなため息を吐いたのだった。


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