第144話 友人との再会
3月中旬。
小林親子が入居した市営住宅は、桜子の中学生の時の同級生、東海林舞と同じ団地で、棟は違うがそれぞれが向かい合って立っていて、歩いても一分もかからない距離にあった。
桜子と舞とは進学した高校が違う。
それでも入学してから5月くらいまではお互いに何度か連絡を取り合っていたのだが、その頃からアルバイトを始めた舞は毎日が忙しくなり、徐々に連絡が途切れがちになって今ではそれっきりになっていた。
そこで桜子は、せっかく近くに住む事になったのだからと携帯電話で連絡を取ってみると、すぐに彼女とは連絡がついてこの週末に会う事になった。
桜子は新しい場所でも人気者だった。
特に団地に住んでいる小さな子供たちは彼女の事を「お姫さま」「天使さま」「女神さま」などと呼んで慕っていて、桜子の登下校の時間には必ず公園で遊ぶ子供達から声をかけられている。
引っ越してからすっかり放課後の時間が自由になった桜子は、帰りに健斗に挨拶するのは今までと変わっていないが、同級生の荒木美優や5組の八木七海と一緒につるんで帰りにお茶をしたり雑貨屋に寄ったりと、普通の女子高生らしい生活をするようになっていた。
そんな楽しそうな娘の姿を眺めながら、店をやめて引っ越したのは彼女にとってはむしろ良い事だったと楓子はしみじみと思うのだった。
団地に引っ越してからしばらくは何もせずに荷物の片付けや家事に追われていた楓子だったが、そろそろ何か仕事を探さなければいけないと思っていた。
いまの小林家の収入は、浩司の遺してくれた遺族基礎年金が毎月約8万3千円、母子家庭に支給される児童扶養手当が毎月約4万2千円。
それに楓子がパートで月に10万円稼ぐことが出来れば合計で約23万円になるので、親子二人であればなんとか食べていける。
それに今まで貯えて来た浩司と楓子二人分の老後資金約2,000万円は手つかずでそのまま残っているし、絹江の遺した現金が100万円、まだ売れてはいないが、家と土地の売却代金から500万円、あとは桜子が中学一年生の時のいじめ事件の損害賠償金が彼女名義で500万円と痴漢事件の時の賠償金が100万円ある。
それらはあくまでも桜子の進学費用や臨時支出などのために残しておかなければいけないが、それでも店をやめたからと言ってすぐに二人の生活が困窮するほどではなかったのだ。
この先の事を考えて普通にフルタイムの社員として働くのと、時給制のパートとして無理のない範囲で働くのとどちらがいいのかまだ結論が出ていないので、楓子は一度鈴木さんに相談してみようと何気に思った自分に気付いて愕然としていた。
桜子が叔父の宗司に襲われかけた日、昼過ぎに桜子が意識を取り戻すのと同時に秀人の意識は消え去った。もちろん楓子は娘を抱き締めて喜んでいたのだが、それと同時に幾許かの寂しさのようなものを感じていたのだ。
あの日は早朝から昼すぎまでずっと秀人と一緒にいる事になった楓子だったが、彼が乱暴な話し方をしているのも、彼が下品な仕草を見せるのもちっとも気にならなかったし、外見が天使のような自分の娘ではあったが、あんなに長い時間男性に心を許したのは夫の浩司以外いなかった。
決して自分は惚れやすいとか、男好きだとかではないと思うが、こと秀人に関しては何故か心を許してしまう自分がいる。きっと自分は疲れているのだろうと、その時は思っていた。
週末に桜子は東海林舞に会った。
小林家の桜子の部屋で約一年ぶりに会った彼女の外見は大きく変わっていて、以前は真っ黒な長いストレートの髪が美しい和風美人という感じだったのが、今では肩口の長さに切られた茶色い髪は全体にふんわりとしていて、顔にも薄く化粧をしている。
それでも彼女の少し釣り目がちな気の強そうな眼差しは変わっておらず、そこを見ると彼女は間違いなく東海林舞なのだと思った。
舞は桜子がいつも酒屋の手伝いをしているイメージが強かったので、実家の店を畳んで自分と同じ団地に引っ越してきたことにとても驚いていた。
「桜子、久しぶりね。元気にしてた…… って、ごめん、おばあちゃん亡くなったんだっけね」
「ううん、大丈夫だよ、気にしないで」
舞の外見は大きく変わっていたが、話をしていると彼女の中身は全く変わっていない事がわかった桜子は、なんだか少しホッとしていた。
相変わらず彼女は少し高飛車な話し方とツンと澄ました容姿をしているが、髪型のおかげで昔に比べるとだいぶ印象が柔らかくなっていて、それはむしろいい方向に作用している。
桜子はそんなことをぼんやりと考えながら、しばらくお互いの近況を報告しあったり、中学の時の友達のその後の話などで盛り上がっていたのだが、そこでやはりと言うべきか、舞は健斗との仲を聞いて来たのだった。
「木村君とはその後どうなの? いまでも付き合っているんでしょう?」
「うん、彼とは続いているよ」
「それじゃあ、もうそういう関係にはなってるのね。もう高二になるし当たり前よねぇ…… あぁ、私だけが置いて行かれるぅー」
舞が天井を見上げながら呆けたような顔をして口をポカンと開けている。
彼女はとても整った顔立ちの美人なのだが、そんな顔をしているとむしろ可愛らしく見えた。
「……あたし達もまだなんだよ。あたしのせいで彼には我慢させてるの」
「……えぇ!! そうなの!? だってあなた達って付き合ってもう三年は経ってるのよね!?」
舞の反応の見て居た堪れなくなった桜子は、痴漢事件や後遺症の事を舞に簡単に説明すると、舞は今度はポロポロと涙を流し始める。
「ううぅぅ…… そ、そうなのね、桜子も辛いのねぇ…… ごめんなさい、変な事言って」
「う、ううん、そんな事ないよ。あたしは平気だから泣かないで」
突然泣き始めた舞の姿に、桜子は思わずたじろいでいた。
言い方は悪いが、記憶の中の舞は空気を読まない強気な性格と高飛車な話し方で、こんなにすぐに泣くようなキャラではなかったはずだ。
この一年で何かあったのだろうか。
「そ、そういえば舞ちゃんはアルバイトしてるんだっけ?」
桜子が半ば強制的に話題を変えた。これ以上健斗との話をしたくなかったからだ。
「え? えぇ、そうね、今はファミレスでバイトしてるわよ。ウェイトレスなの」
「へぇ、ウェイトレスかぁ。いいなぁ。制服は可愛いの?」
「えぇ、とっても可愛いわよ。でもね、ある部分のデザインがちょっとね……」
「ある部分って?」
「……胸の部分が妙に強調されたデザインでね…… お客の目がいやらしいのよ」
そう言いながら舞は自分の胸をぐいっと持ち上げて、その重量感を見せつける。彼女の胸は相変わらずその存在感を見事なまでに自己主張していた。
「そ、それはまた……」
それからしばらく舞とは昔話に花を咲かせたりしていたが、途中で舞が桜子に訊いて来た。
「桜子はバイトはしないの? 私は家計の足しにしているけど、あなたはどうするの?」
舞に言われて桜子も思い出していた。
実は桜子もそろそろアルバイトをしてみようと思っていたのだ。先日母親と雑談をした時には特に桜子が働かなくても収入的には問題ないと言ってはいたが、母一人子一人の母子家庭なのに自分だけが家と学校の往復をしているだけでいいのだろうか。
お金は貰っていなかったが、いままでだって放課後はずっと店の手伝いをしてきたし、今のように放課後に時間を持て余すのがなんだか落ち着かなかった彼女は、できれば一度はアルバイトというものをしてみたいとは思っていたのだ。
「うーん、実はね、あたしも一度アルバイトをしてみたいって思っていたんだよね。まだお母さんには言ってないけどね」
「ふぅーん、それじゃあ私の所で働いてみない? ちょうど今バイト募集中なのよ」
舞が人差し指を目の前でクルクルと回しながら桜子を誘ってくる。その申し出は桜子にとって非常に魅力的に映ってできれば是非にとお願いしたかったのだが、一応母親と学校の許可がいるだろうと思った桜子はその場で即答することはしなかった。
ただ一つだけ桜子には懸念があって、実はウェイトレスなどの人前に出る仕事が苦手だったのだ。
それは別に人に対するのが嫌な訳ではなく、ただでさえ普段から目立っている彼女が人前でこれ以上目立つのが嫌だったからだ。
特に舞のように胸の部分が強調された可愛い制服を着て人前に出た日には、絶対にストーカーに寄り付かれたり、お客さんにナンパされるのが目に見えている。
そんな訳で可能な限り人前に出るのを避けたい桜子は、事務や清掃などの裏方の仕事が希望だった。もちろん今までずっと家業の酒屋の看板娘を勤めてきた自負があるので、いまさら人前に出てもどうという事は無いのだが、前述のように可能な限りトラブルを避けたかったのだ。
「募集中のアルバイトの内容は?」
「えーっと、確かウェイトレスと調理補助だったと思うわね」
舞の言葉に桜子の眉がキュッと上がる。
「調理補助ってどんなお仕事なの? 自分で何か作るの?」
「そうねぇ、例えばパフェを作ったり、サラダを盛り付けたり…… 直接火を扱わない仕事じゃないかしら」
舞の話から推測すると、恐らく既成の食材を組み合わせて料理を作るもので、自分で焼いたり煮たり、味付けをするものではないらしい。さすがに素人の自分が客に出す料理をいきなり作れるとは思っていなかったが、そのくらいなら自分でも出来そうだし、何よりも人前に顔を出さなくて済むので自分の希望にも合致する。
「舞ちゃん、ちょっとその話を詳しく聞いてくれないかな。調理補助の方で」
「いいわよ。なに? 桜子もバイトを本気で考えてるの?」
「うん…… あたしも少しでも家計を助けられればいいかなと思って」
「そう。でもあなたならウェイトレスのほうがいいんじゃない? きっと人気出るわよ」
「いや、あたしはあまり目立つのは……」
「そう…… せっかくあなたと二人でおっぱい同盟を復活させようと思ったのに」
そう言うと舞は自分の豊満な胸をぐいっと持ち上げた。
「いや、だから何それ…… それに再開って、元々そんな同盟なんて一度も作ったことないでしょ……」
相変わらず舞のノリはよくわからなかったが、とりあえず彼女はアルバイト先で調理補助の仕事内容と待遇等を聞いてくれる事になったので、しばらく桜子はそれを待つことにしたのだった。
舞の話によると、彼女が高校に入学するのと同時に一番下の妹も小学校に入学した。
おかげで放課後の保育園へのお迎えから開放された彼女は、早速放課後にアルバイトを始めたのだが、彼女は弟と妹に夕食を食べさせなければいけないので仕事は平日の夕方3時間だけにしている。それでも幼い二人の兄妹の夕食はいつも夜の八時過ぎになってしまうので、少し可哀そうだと言っていた。
それから二人を風呂に入れて寝かしつけるともう夜10時をまわっているので、相変わらず舞自身の自由な時間は無さそうだ。
彼女の母親の仕事は不定休だし、仕事がある日は帰りがいつも遅いので仕方のないことだが、相変わらず舞は自分のことを顧みる暇もないほどに忙しくしている。
決して彼女が可哀想だとか不幸だとかは思わないし、その考えは傲慢以外の何物でもない事はわかっている。
それでも舞に比べればまだ自分は恵まれているのだと桜子は思うのだった。