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第143話 引っ越しと黒い布

 3月上旬。


 秀人のアドバイスに従った楓子が市営住宅の抽選に申し込んでみると、彼の言葉通り母子家庭の優先枠のおかげですぐに入居を決めることが出来た。

 そこは今住んでいる商店街からは歩いて20分ほど離れた場所なのだが、近くには大きなスーパーや公園もあるし桜子が通学に使っている電車の駅も今までとそれほど変わらない距離だった。


 絹江の残した土地と家の売却の準備もあるので小林家は速やかに引っ越しの準備を始めて、その日程が決まると拓海と詩歌も即座に手伝いを申し出てくれた。


 楓子と桜子が話し合って酒店をたたむ話を決めた事は、すぐ翌日には拓海に伝えてあった。

 彼にはせっかく頑張ってくれたにも関わらず仕事を失う結果になってしまったことを謝罪したのだが、それについてはむしろ拓海のほうが恐縮していたし、その決断に至るまでの小林家の苦悩を(おもんぱか)ると、拓海が何か言うことは出来なかった。

 

 彼はとても残念そうにしていたが、実際彼も酒店の継続が難しいであろうことは薄々感じていたようで、特にその理由や事情について訊いてくることはなかった。

 それよりも、彼は桜子が家業の手伝いからやっと開放されることを密かに喜んでいたようで、これで彼女がやっと普通の女子高生らしい生活ができると恋人の詩歌に話していた。



 

 そんなある日の放課後、家業の手伝いから開放された桜子がややのんびりと健斗の教室に入ってくると、上目遣いに彼の顔を覗き込んでくる。

 相変わらず天使のように愛らしい桜子の小悪魔的な表情に健斗がドギマギしていると、彼女はその薄く紅を引いたような小さな可愛らしい唇に人差し指を当てながら、(おもむろ)に口を開いた。


「ねぇ、健斗、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」


 健斗の視線は彼女の小さな唇とチラリと覗く艶めかしい舌に集中していて、思わず彼はゴクリと唾を飲み込んでいる。それと同時に、その光景を眺めていた数人の男子も、普段とは違う少し悪戯っぽい彼女の仕草に胸を射抜かれていた。


「な、なんだよ、お願いって」


「あのね、今度の土曜日、引っ越しを手伝ってほしいなぁって…… いいでしょ?」



 健斗はかなり早い段階から小林家が店をやめて引っ越す話は聞いていて、その時はどんな事があっても絶対に手伝おうと心に決めていたのだが、まさに今がその時だった。

 彼は昨年末からずっと桜子が大変な時に直接助けてあげられなかった事をずっと悔やんでいて、いつか必ず挽回してやろうと心に決めていたからだ。

 

 遂に機は熟したとばかりに健斗は鼻息も荒く返事をする。


「俺に任せろ!! 力仕事なら誰にも負けない!! お前は見ているだけでいいぞ!!」



 自分の言葉に、何やら急にテンションが高くなった健斗を見つめながら、桜子は密かにホッとしていた。

 桜子は健斗が自分に力を貸すことが出来なかった事をずっと悔やんでいた事を知っていたし、それを申し訳ないとも思っていたのだが、実際に彼が小林家の問題で具体的に何かできる事は無かったのでそれは仕方の無い事だった。


 だから今回のような単純な力仕事であれば健斗にも十分に力を発揮してもらえることがわかっていたので、彼の方から申し出る前に敢えて桜子の方からお願いをしたのだ。

 それは健斗が桜子から頼られているという事実にきっと満足するだろうという、桜子のちょっとした打算だったのだが、実際に目の前の彼を見ているとそれは功を奏したようで、普段無口な彼が無駄にテンションを上げるほど張り切っている姿が微笑ましかった。


 健斗の笑顔に嬉しくなって少しだけ悪戯心を刺激された桜子は、今日のテーマ「上目遣いの小悪魔的彼女」のイメージを崩さないように気を付けながら続けて口を開く。


「ありがとう、さすが健斗だね!! だから大好き!!」


 そう言って周りを憚らずに桜子はギューッと健斗に抱き付いたのだが、自分から抱き着いておきながら桜子自身は相当恥ずかしかったようで、その染み一つない白い顔を真っ赤に染めている。

 そして最愛の恋人に「大好き」と言われた挙句に柔らかい身体をギュウギュウと押し付けられた健斗は、最早(もはや)中腰でなければズボンが苦しくて立っていられないほどだった。

 そして当の桜子本人は、その時健斗に起こっていた事には全く気付いていなかった。


 その直後から、その姿は通称「天使の大好きホールド」として密かに知れ渡っていったのだった。




 

 その週の土曜日、健斗を始め多くの人々の協力のもと小林家の引っ越し作業が始まった。

 小林酒店には商店街で長年の付き合いのあった近所の人々も手伝いに来てくれて、当事者の小林親子が大した事をする前に荷物の搬出はあっと言う間に終わっていて、後にはガランと無駄に広く見える長年住み慣れた我が家の姿があるのみだった。

 親子二人になった今では新居に持って行く物はとても少なくて、持っていかない物の大半は後日に業者が引き取りに来ることになっている。


 恐らくこれは絹江の影響なのだろうが、もともと桜子は物を大切にずっと長く使うとても物持ちの良い性格だった。そして部屋の中にあまり細かい物をごちゃごちゃ置くような趣味もしていないので、彼女の荷物は学校関係の物を除くと、多少の衣類とちょっとした雑貨程度しか無く本当に少なかった。


 桜子の外見はほとんどの人が驚くほどの美少女なので、彼女は自身を着飾るために相当多くの服を持っているように見られるのだが、実際はそれほどでもなく、特にここ数年は急激に背が伸びたのと胸も急速に大きくなったせいで体に合わなくなった多くの洋服を処分していたのだ。


 部屋着代わりにしているくたびれた上下のスウェットは、既にもう彼方此方(あちらこちら)が擦り切れて相当ヨレヨレなのだが、特に理由もなく何となくそのまま着続けている。そしてその部屋着は今となっては少し小さめなので、今の彼女が着ると胸とお尻と太ももが強調されて、少々煽情的だった。

 ある日曜日には桜子が自宅内をその格好でウロウロしているところを健斗に見られた事があったのだが、彼は彼女のその姿に朝から興奮してしまい、色々と大変だったようだ。

 

 さすがにその部屋着は捨てていくのだろうと楓子が思っていると、何故かちゃっかりと新居用の段ボールに入れてあるのを見て、さすがの楓子も娘のあまりの物持ち良さに若干引いていた。 

 

 そんな訳で、小林家の引っ越しは特にトラブルもなくスムーズに事は運び、後は新居の中の片付けが残るのみとなったのだった。


 



「健斗、今日はどうもありがとう。おかげでまだ昼すぎなのに、全部終わったね」


 小林親子の新居、古い市営団地の三階角部屋の一室で、桜子は健斗に声をかけた。

 荷物の搬入も終わり、手伝いの人たちと一緒に弁当を食べ終わっていま解散したばかりで、桜子と健斗はこれから彼女の部屋になる六畳の部屋の片づけをしているところだ。

 今日の彼は桜子に頼られたことが相当嬉しかったようで、朝から終始にこやかで無駄にテンションも高かった。そしてそのテンションは今もまだ続いているのだった。



「よし、タンスとクローゼットの位置も直したし、後はこの荷物の片付けだけだな」


「もう後は自分一人で出来るから大丈夫だよ。明日は日曜日だからゆっくりと片付けも出来るしね」

 

 健斗の視線が床に積み上げられたダンボール箱の数を数えているのがわかると、桜子はやんわりとした口調で断りを入れる。

 あとここに残っている物は衣類と雑貨程度なので桜子一人でも十分片付けられるし、それにこの中には彼には少々見られたくない物もあるのだ。


「あぁ、大丈夫だ。まだまだ全然疲れてないし、お前の助けになるのならなんでもするぞ」


 相変わらず無駄にテンションが高いままの健斗が、置いてあるダンボール箱の一つに手を掛けてそのまま蓋を開け始めると、急に桜子が慌て始める。


「あぁ、健斗!! それはダメ!!」


 桜子は急に大きな声で健斗に呼びかけたのだが、時すでに遅く、彼はそのダンボールの蓋を開け放っていた。

 


 その中には白や黄色、水色からピンクまで色取り取りな布の塊が入っていて、その鮮やかな色彩に健斗の目が瞬間チカチカしてしまう。そしてその一瞬の後、布の正体に気付いた健斗は思わず顔を真っ赤にしていた。

 そのダンボールの中身は横に黒いマジックの大きな字で「あたしの下着」と書いてある通り、弱冠16歳の少年には(いささ)か刺激の強すぎる物だった。

 

 彼は至ってノーマルな趣向の持ち主なので、その布自体には特に価値を見出してはいなかったが、それを着用した恋人の姿を想像するとそれはまた話が違ってくるのだ。



 そして彼は見てしまった。

 色取り取りの布の一番上に置かれた、まだパッケージも開けられていない一組の布の塊を。


 それは薄い黒のレース生地で作られていて、どう見ても布の面積が少なすぎるうえに向こう側が透けて見えている。

 一体これはどういうシチュエーションで着用する物なのかが健斗にはわからなかったし、そもそも桜子がこんな下着を持っている事に興奮…… いや、違和感を感じていた。



 下着というものが肌を隠すために存在しているのであれば、それはすでにその機能を初めから放棄しているもので、もしもそうであるならば、そもそもこれは下着と呼べるものではないと言える。そして清楚なイメージの桜子がこのような物を持っているという事は、それは一体何を意味して、どういう意図のもとに新居まで大切に持って来たのか。

 そもそもこの布を着用した彼女の姿を想像すると、それはそれでまた色々と(はかど)る……


 

「け、健斗!! ねぇ健斗、ちょっと、ねぇってば!!」


 黒いレースの下着のパッケージを見つめたまま思考の渦に巻き込まれていた健斗の腕を焦ったように桜子が引っ張ると、彼はハッと一瞬の自失から戻って来る。しかしその視線は相変わらず黒いレースの布の塊に吸い寄せられたままだった。

 健斗のその様子に尚も焦った桜子は、慌ててダンボールの蓋を閉じると少し怒ったような顔で頬を膨らませてみた。


「もうっ!! 女の子の下着をガン見しないでよ、恥ずかしいじゃない!!」


 とりあえず桜子は怒ったような口調で健斗を(なじ)ってみたのだが、その顔には焦ったような表情も垣間見えていて、彼女が相当慌てているのがわかる。



 あの下着を健斗に見られた事は桜子にはわかっていた。

 あの大人のデザインの下着は、前に拓海の恋人の詩歌からプレゼントされたもので、もしも健斗とそういう関係になりそうな時に着用しろと言われていたのだ。


 しかしいくら勝負下着と言っても初めての相手がこんなスケスケの下着なんて着ていれば絶対に引いてしまうだろうし、そもそもこの布の大きさでは明らかにあそこの毛がはみ出して……


 などと思った桜子はこの下着は絶対に着る機会は無いと思ったのだが、そこで元来の物持ちの良さを発揮して、人から貰った物で()つ新品の下着を捨てる事など彼女には出来なかったのだ。

 そしていま、それが完全に裏目に出てしまったという訳だった。



 凄い勢いで桜子にダンボールの蓋を閉められた健斗は、何となくバツの悪い顔をしながらこっそりと彼女の顔色を窺っているのだが、その顔にはやはり疑問と言うべきか、怪訝な表情が浮かんでいる。どうして彼女がこんな下着を持っているのか、絶対に彼は訊いてみたいと思っているはずだ。


「……見た? ねぇ、見たでしょ?」


 桜子が健斗の目をジィーっと正面から見つめながら問い詰める。


「……いや、何も、なにも見てない……」


 しかし健斗は桜子の目を正面から見られない様子で、視線だけを斜め下に向けている。

 その顔には照れとバツの悪さと怪訝さが複雑に入り混じった表情が浮かんでいて、彼が絶対に何か言いたい事があるのが桜子にはわかった。



「……ねぇ、何か言いたい事があるんじゃないの?」


「……いや、べつに……」


「そう……」


「……」


「着たところを見たい?」


「う、うん!!」


「……やっぱり見たんだ……」


「うっ……」



 こうして小林家の引っ越しは全て終わり、それぞれがそれぞれの生活に戻って行ったのだった。


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