第142話 忘れていた依存心
「きゃー!! 何するの、やめて、叔父さん、いやぁぁーーー!!」
明け方近くの薄暗闇に若く甲高い悲鳴が轟く。
それを聞きつけた楓子も宗司の妻も慌てて布団から出たのだが、すぐにその悲鳴の主が桜子だとわかったようだ。
彼女たちが一体何が起こっているのかわからないまま慌てて桜子の部屋に走り込んで来ると、そこにはパジャマの胸の部分を開けさせてベッドの隅で自分の身体を抱きしめて震えている桜子と、少し離れたところで自分の股間を抑えて床に蹲る宗司の姿があった。
彼女たちが目の前の二人を交互に見つめながら状況を飲み込もうと必死になっていると、桜子が泣きそうな声をあげた。
「うぅ…… お、叔父さんが…… 寝ているあたしの部屋に入って来て…… あたしの身体を…… うぅぅ……」
涙を流す桜子はベッドの隅で震えながら恐怖に顔を歪めていて、彼女のその姿を見ただけで女性二人はここで何が起こったのかを瞬時に理解した。
「なっ、お、お前、なにを適当な事を……」
狼狽えた宗司が慌てて反論しようとするが、もちろん桜子はひとつも嘘をついていないので、それに対する上手い反論を宗司は咄嗟に思い付くことが出来なかった。
宗司が勝手に桜子の部屋に入ったのも、脅すような言葉を発したのも、勝手に彼女の身体に触ろうとしたのも全て事実だし、凡そ叔父が姪に対してするような行いとは思えないのも事実だった。
「あ、あんた…… なにしてんのよ!! 人様の娘さんに手を出すとか正気なの!? しかもその子はあんたの姪じゃないの、この変態!!」
「さ、桜子……」
女性二人の反応は全く対照的だった。
驚きのあまり呆然としている楓子に対して、夫の蛮行に怒り狂う妻。
挙句の果てに宗司は妻の手によって何度も平手打ちをされていて、宗司自身も最早言い訳をする気力もなく妻の成すがままになっている。
そんな修羅場を尻目に一瞬の自失から復活した楓子は、慌てて桜子、いや秀人のもとに駆け寄るとそのままその細い身体を抱きしめた。
「だ、大丈夫、桜子!? 酷い事されてない? どこか痛いところはある!?」
「お、おい、そんなに抱き付くなよ、苦しいだろ。大丈夫だ、どこにも怪我はないし何もされていないからな」
秀人が眉間にシワを寄せながら小声で囁くと、楓子は一瞬身体をビクッとさせながら抱き締めていた両腕を思わず伸ばしていた。その顔には驚きと困惑が入り混じったような表情が張り付いている。
「す、鈴木さん……?」
「あとで事情を教えるから今は演技をしていろ。俺の台詞に適当に合わせてくれればいい」
「わ、わかったわ……」
取り急ぎ小声でそう言うと、秀人は夫の胸ぐらを掴んで何やら喚き散らしている宗司の妻をチラリと見ながら、やや大きめな声で泣き声をあげた。
「あぁーん…… あたしが夜中に目を覚ますと、叔父さんが部屋の中にいて…… あたしに裸になれって言ったの…… 言う事を聞いたらこの家を取り上げないようにできるからって…… あぁーん」
この期に及んでも秀人の言葉に嘘はなかった。
その証拠に、宗司は秀人の説明に一切の反論をしてこない。
「あ、あんた…… なんてことを……」
宗司の妻が信じられないものを見るような目で夫を見ている。
「あたしは何度もイヤって言ったのに、叔父さんは無理やりあたしの身体を…… あぁーん、怖かった、怖かったよぉーーーー」
「さ、桜子、もう大丈夫だから…… ね? 大丈夫なのよ」
秀人の少々棒読みの台詞を聞きながら、楓子がおずおずと彼の身体を抱きしめると、楓子の鼻をふわりと桜子の匂いがくすぐって、確かにいまの中身は秀人だけれど、この子は間違いなく自分の大切な一人娘なのだと改めて楓子は確信していた。
楓子が秀人を抱きしめて深いため息を吐いていると、宗司の妻が彼女に話しかけて来る。その顔には今にも泣きそうな表情が溢れていて、ともすれば今すぐにでも土下座しそうな勢いだった。
「お義姉さん、本当に申し訳ありません…… うちの変態馬鹿亭主がとんでもない事を仕出かしまして、何と言ってお詫びをすればいいのか……」
「……はぁ……」
もうこの時点でさっきまでの楓子の怒りはどこかへ行ってしまっていて、義理の妹の言葉にも気の抜けた返事しか返すことが出来なかった。
それでも宗司の妻は、自分の夫の仕出かしたことに対しての責任の取り方がわからなくて挙動不審になっている。
「と、とにかく、あんたも謝りなさい!! ほら、はやくっ!!」
妻に促されて半ば強制的に土下座をさせられた宗司ではあったが、さすがの彼も自分がとんでもない事をしてしまった事を時間の経過とともにだいぶ理解してきたようで、その額には脂汗が光っていた。
「す、すいません…… 大変申し訳ありませんでした……もう二度とこのような事は……」
宗司が床に額を付けて土下座をしている。
楓子はその姿に冷ややかな視線を注ぎながら、彼のしたいようにさせるだけで決して彼女から声をかける事は無かった。
一通り状況の確認と宗司側の謝罪が終わると、まだ朝の4時だというのに宗司夫婦はタクシーを呼ぶと逃げるように自宅へと帰って行った。
嵐のように去って行く二人の姿を見送りながら、楓子は本当に深い深いため息を吐いていて、その横にはぼんやりと鼻をほじっている秀人化した桜子の姿があった。
「……お願いだから、その子の姿で鼻をほじるのはやめてちょうだい……」
「細かい事にうるさい奴だな。いくらこいつが美少女だからって、鼻はほじるし、うんこだってするだろ。昔のアイドルのような事を言うんじゃねぇよ」
「……昔のアイドルって…… なんであなたがそんな事を知ってるのよ」
「……べつにいいじゃねぇか。知ってんだからよ」
「まぁいいわ。それより、今回も娘を助けてくれてありがとう。それで桜子はいまどうしてるの?」
「あぁ、例によってまた気を失っているところだ。まぁ、数時間で目を覚ますだろうから、心配するな」
「……ありがとう、安心したわ。それでさっきの話なんだけど、実際はどうなの?」
秀人が実際に起こった出来事を楓子に全て語ると、彼女はまた深いため息を吐いていた。
以前から宗司が桜子を見る目付きが気になってはいたのだが、まさか実際に彼が事を起こすとは思ってもみなかったのだ。
それは楓子や桜子の危機感が足りないと言われれば確かにその通りなのだが、実際に叔父が姪を襲うなどこの世の中のどのくらいの人がそれを想定しているのだろうかと思えば、彼女の責任を問う事は出来ないだろう。
「……実際に彼がこの家を取り上げないとか、あり得ると思う?」
楓子は秀人に何となく疑問をぶつけてみる。しかしそれに対してまともな返答は期待していなかった。
「まぁ、ないだろうな。あいつはただ桜子の身体に興味があっただけで、本当はそんなつもりは無かったと思うぞ。要は体のいい口実だな、こいつの身体を見るためのな」
「……そうよね。直江さんまでサインしたものを勝手に反故に出来る訳もないんだし」
楓子の予想に反して秀人がまともな答えを返して来る。元々は桜子が作り出した架空の人格のはずなのに、やはりこの人と話をしているとなんだかおかしな錯覚に陥りそうになるなと、楓子はぼんやりと思っていた。
「ところでお前、店をやめるのはいいがこれからどうするつもりなんだ? もう何か考えてあるのか?」
架空の人格が一体何を言っているのかと楓子は一瞬思ったのだが、その時彼女は、相手が本物の人間でないのなら、後腐れなく何でも話すことが出来るのではないかと思いつく。
それならばと、彼女はぽつりぽつりとそれまで胸の中に仕舞っていた事を話してみた。
一度話し始めると止まる事はなく、それは人には話せない弱音や親戚への愚痴、浩司が亡くなってからずっと寂しい事など、普通の人間相手では絶対に話せないような赤裸々な事柄も多く含まれていたのだが、楓子は躊躇うことなく秀人に話し続けていた。そして秀人も時折相槌を打ちながら彼女の話を最後まで聞いていたのだった。
図らずも胸の内を全て曝け出してしまった楓子は、少しの後悔を味わいながらもなんだかスッキリと長年の胸のつかえが取れたような気がして、ここ最近で一番の清々しい笑顔を見せている。その笑顔を眩しそうに見ていた秀人は彼女に向かって口を開いた。
「あぁ、いい笑顔だな。やっぱりあんたはそんな笑顔が一番似合うよ。だからあんたにはいつもその笑顔でいてほしいもんだな」
秀人の何気ない一言に、楓子の胸が騒いだ。
彼女は昨年の一月に夫を亡くして以来ずっと家の中心として頑張ってきたのだが、その後絹江も亡くなり、気が付けば彼女の周りには誰も彼女を支える者はいなくなっていた。
もちろん一人娘の桜子はいるのだが、彼女はむしろ守るべき存在であって楓子を支えるという意味では少し違うと思っている。
楓子は元々独立心の強い人間だったし、高校生の時に両親が他界してから結婚するまでずっと一人で生きて来て、その時も寂しいと思った事は一度もなかった。だからまた一人になっても全然平気なのだと思っていたが、実際はそうではなかった。
浩司が亡くなってからは全ての判断は自分でしなければならないし、店の経営も自身の両肩にずっしりと伸し掛かっている。判断を誤れば即座に店を失う恐怖に耐えながら日々を過ごしてきたのだ。
そんな時にはやはり彼女は自分を支えてくれる大きな存在を無意識に求めたのだが、既に浩司亡き後ではそれは望むべくもない望みでもあった。
しかしもうとっくに諦めていたものを、いまの楓子は秀人の中に見ていた。
確かに彼は口は悪いし品もなく、それどころか男性である前に本物の人間ですらない。それでも楓子は秀人と話していると何とも言えない安心感のようなものを感じていたのだ。
もちろん彼は浩司とは全く似ても似つかない性格だし外見も声も桜子そのものなのだが、その内側にははっきりとした大きな男性の存在を感じたのだった。
「なんだよ、俺の顔に何か付いてるか?」
少し早めの朝食を摂りながら楓子が秀人の顔を見つめていると、彼に胡乱な顔をされた。
「ねぇ、宗司さんのしたことなんだけど、訴えるべきだと思う?」
「いや、そこまでは必要ないんじゃないのか? こいつもそれは望んでいないだろうし、どのみち今回の事であの変態親父はもう俺たちには近づいて来られないだろうしな」
秀人の言葉に、楓子は安堵していた。
またぞろ裁判沙汰とか、もう懲り懲りだったからだ。それでも訴える必要があるのならしなければいけないのだろうと思ってはいたようだ。
「……そうね、わかったわ。あなたの言うとおりにする」
秀人はフンと小さく鼻息を吐いた。
「ところで、家を処分するなら次に住む場所を探さないといけないが、どうするんだ?」
「そうね、まだなにも…… ほんと、急がないといけないのに考えが先に進まなくて」
楓子は皿の上のソーセージを箸で弄びながら小さくため息を吐いた。
「それなら市営住宅を申し込め。あそこは抽選だが母子家庭の優先枠があるはずだから、早めに申し込めばなんとかなるだろう」
「あぁ、市営住宅ね、それはいいかもしれないわね。……それにしても、なんでそんな事を知っているのよ?」
「……まぁ、いいじゃねぇか。偶々だよ、偶々」
「そう……」
迷っていることを秀人に相談すると、彼は明確に道を示してくれる。
この感覚は浩司が生きていた時には当たり前の事だったのだが、彼が亡くなってからは久しく経験していなかった。
これまでも自分は独立心が強い人間のつもりだった。しかし、結局は要所の大きな選択を夫に依存していた事を痛いほど味わっていたのだ。
……ちょっと待って、もしかして自分は鈴木さんの事を頼もしく思っている?
そんな馬鹿な、彼は娘が自分で作り出した架空の人格であって、そもそも普通の人間ですらないではないか。それを自分は何を考えているのだ。きっと自分は疲れているに違いない。
突然気付いた自分の考えに楓子が愕然としていると、尚も秀人が口を開く。
「まぁ、それはいいや。それにしてもお前の作る飯は本当に美味いな。また今度食わせてくれ、こいつが俺の時にな」
秀人のその言葉に、楓子の心は揺れ動いていた。




