第141話 取引と叔父の要求
「桜子!! お願いだからもうやめて!! これ以上お母さんを困らせないで!!」
静まり返った会食会場に、楓子の悲鳴が響き渡る。
その言葉を聞いた桜子はハッとした顔をして楓子の顔を見るとそのまま黙り込んだのだが、直前まで怒りに震えていた彼女の顔には、今では何か深い悲しみのようなものが満ちていた。
楓子はそんな娘の姿に、直前の自身の発言を思い出していた。
『これ以上お母さんを困らせないで!!』
この言葉以上に今の娘を傷つける言葉は無いだろう。
彼女は母親の為を想ってその怒りを表してくれたのにも関わらず、自分はそれをヒステリックに遮ってしまった。自分の事を慮ってくれた娘の気持ちをまるで踏みにじるような自身の発言を深く後悔した楓子だったが、それだけ彼女の心にも余裕がない証拠でもあったのだ。
法要の会食も終わり、遠くに住んでいる親戚から順に帰り始めると徐々に小林家の中は静かになっていく。今日はこれから数人の相続関係者による話し合いと遺産分割協議書の作成が待っているのだが、その席で楓子は先程の騒動を思い出していた。
今回の相続に関しては、もちろん楓子にも色々と思うところはあったし言いたい事もあった。しかし今回は彼女は相続人ではないので、そもそもその内容に関して彼女が何かを言う権利はないのだ。
確かに未成年の桜子の親権者としてある程度の口出しは許されるのだろうが、それはあくまでも桜子本人の利益を守るためでしかなく、楓子自身の事情を語ることは許されないのだ。
「さて、それじゃあこれから遺産分割の話し合いを始めるぞ」
誰が決めた訳でもなく宗司がこの場を仕切り始めたのだが、それについて特に異論を挟む者もなく粛々と話が始まった。
今回の出席者は宗司、宗司の妻、直江、直江の夫、桜子、楓子の六名で、小林家の和室で全員で顔を突き合わせている。この中でも宗司の妻と直江の夫に関してはあくまでも立ち合いのみで、あまり積極的に話に加わる気は無いようだ。
まず預貯金の約300万円は、相続人3名で約100万円ずつ均等に分配する事に誰からも異論は出なかったので、すぐに決着した。そして次に家と土地の話に移ると、宗司が急にニヤニヤとしたいやらしい笑みで桜子の事を眺め始める。
どうやら彼は桜子を構うのが楽しいようで、彼女が困ったり怒ったりすると余計に嬉しそうな顔をするのだ。どうも宗司の性格はどこか屈折しているのではないかと以前から楓子は思っていたのだが、どうやらそれは当たっているようだ。
「……という訳で母所有の家と土地は売り払い、その代金を相続人三名で均等に分配するものとする…… っと、これで異論はないな?」
遺産分割協議書にいま決まった内容を書き込みながら、宗司が他二名の顔を順に見ていく。
「はい、兄さん。それでいいです」
「……」
宗司の宣言通りに直江はすぐに返事をしたのだが、桜子は顔を俯かせたまま何も言おうとはせず、只只管に足元の畳の縁の模様を見つめている。そしてそんな彼女の姿を楓子が心配そうに見ているが、桜子に対して返事を促すような素振りを見せようとはしなかった。
しばらく待っていたが、いつまでも返事をしない桜子に痺れを切らした宗司は、彼女に向かってニヤリと笑いかける。
「どうした、桜子ちゃん。この決定に何か異論があるのかい? 今ならまだ間に合うから言ってごらんよ」
宗司にニヤニヤと笑いかけられた桜子は、俯いていた顔を上げると、その美しい瞳でキッと彼を睨みつけながら口を開いた。
「……いいえ、ありません。その通りでお願いします……」
彼女の口調はゆっくりと穏やかだったが、その顔には烈火のごとく怒りが溢れていて、ともすれば宗司の横面を全力で張り倒す勢いで睨みつけている。
基本的に桜子が怒る事は少ない。
それは彼女が優しくて思い遣りのある性格をしているうえに情緒面も安定しているからなのだが、それもここ最近の事件やトラブル続きの日常の中で少しずつ失われているのかも知れなかった。
そして今回の自分たちの家を失う件については、彼女は自分の事よりも母親の身をとても案じていて、これだけ絹江にもお店にも長年尽くしてきた母親が、どうしてこんな理不尽な仕打ちを受けなければならないのか、それを思うと桜子は自分の怒りを抑える事が出来なかったのだ。
そんな桜子の姿を眺めながら、それでも楓子は少しホッとした顔をしていた。彼女としてはこの話し合いの最中にまた桜子がキレるのではないかと内心ハラハラしていたのだ。
しかしもうこれ以上この状況をどうにもできない事は当の桜子にもよくわかっているので、彼女は腸が煮えくり返るような思いを噛み殺しながら宗司の差し出す遺産分割協議書に記名と押印をしたのだった。
その日の夜、直江とその夫は夜の便の飛行機で帰って行ったのだが、宗司と妻は一晩小林家に泊って行く事になった。本当はホテルでも良かったのだが、これが見納めだと言って宗司が自分の実家に留まりたいと言ったからだった。
夜の十一時過ぎに宗司夫婦が客間に引き上げて行くと、楓子は昼間の自身の発言を桜子に謝罪した。
「桜子…… ごめんね。お母さん、あなたにあんな言い方をしてしまって…… あなたが私の事を想って言ってくれたことはわかっていたのに、それをあんな言い方で……」
「ううん、大丈夫。あたしもつい感情的になってしまって…… 反省してるよ……」
「いいのよ、それがあなたなんだから。ごめんね、ちょっとお母さん、最近心に余裕がないみたい」
「しょうがないよ、最近はこんな事ばかりだし。とにかくあたしは気にしてないから大丈夫だよ。さぁ、もう寝よう。なんだかもう眠たいよ」
楓子たちもそれぞれ休む用意をして自室へと入って行く。
十数時間ぶりに自分の部屋に戻った桜子は、そこで今日初めて地面に足が着いたような気がして、ほうっと小さな溜息を吐いていた。
その夜に限って眠りの浅かった桜子は、明け方になると何かの気配を感じて目を覚ました。
明け方とはいえまだ日も昇り切っていない時間だし、窓にはカーテンをかけているので部屋の中はまだ薄暗かったが、妙な気配を感じた桜子が部屋の中をキョロキョロと見渡していると、部屋の入り口付近に何か影のようなものがあるのに気が付いた。
彼女が薄闇の中で目を凝らしていると、その影が急に話しかけて来た。
「俺だよ、宗司だ。怖がらなくていい」
「ひぃ!!」
その影は叔父の宗司だった。
その時の桜子は影の正体が宗司だった事よりも、自分しかいないはずの夜の部屋の中で誰かに話しかけられたことに悲鳴を上げそうになっていたのだが、何を勘違いしたのか慌てた宗司は一直線に彼女に近付いて来ると、その手で桜子の口を塞いだ。
「しぃー!! 声を立てるな!! いいか、騒ぐなよ?」
宗司は早口の小声で話しているが、その声には得も言えぬ迫力があって決して彼には逆らってはいけない雰囲気があった。口を塞がれた桜子は、あまりの恐怖に震え上がって既にもう何も言えるような状態ではなかったが、その沈黙を承諾と受け取ったのか、宗司はその姿勢のまま小声で話し始める。
「しぃー、いいかよく聞け。昼間の遺産分割協議書だが、今ならまだ内容を変更できる。その話を聞きたくないか?」
その時すでに桜子は気を失いそうになっていたのだが、宗司の口から出た言葉に気を取られると少しずつ正気が戻って来る。しかしこんな夜中に年頃の少女の部屋に忍び込んで来た叔父の行動が既に常軌を逸している事については最早意識の外にあった。
「いいか? 俺の話が聞けるか? 大人しくできるか?」
宗司の言葉に桜子は無言のままコクコクと首を上下に振る。
「よし、いい子だ…… もしここで俺の言う事が聞けたら、この家も土地もお前たちに残してやれるが、どうする?」
「……」
このままでは会話にならないと思った宗司は少し何かを考えていたようだったが、すぐに桜子の瞳を覗き込むとゆっくりと話しかけた。
「いいか、これから手を放すが、大きな声を出すなよ」
「……」
桜子が返事をしないのをその承諾だと思った宗司は、ゆっくりと桜子の口から手を離すと彼女の口から長い溜息が漏れた。
「よぉし、いい子だ。これから少しの間だけ、俺が良いというまで目を瞑ってくれさえすればいい。そうしたらお前たちの家を取り上げないでやろう」
「……どうするの……?」
桜子はいまの状況でも既に気絶寸前で全く気持ちに余裕などなかったのだが、それでも必死に理性を搔き集めてなんとか意識を保っている状態だった。
次の言葉を聞くまでは。
「服を脱いで横になれ。終わったら声をかけるから、それまで目を瞑っていればいい。なぁに、見るだけだ、お前が彼氏としている事に比べたら簡単な事だ」
その言葉を聞いた瞬間、桜子は今から自分が何をされるのかを理解した。
「えっ!! そ、そんな…… い、いや!! やだっ……」
「おっと、大きな声を出すなよ、大人しくしていればすぐに終わるからな」
そう言うや否や、宗司は桜子のパジャマのボタンに指をかけると、次の瞬間恐怖の余り桜子はそのまま気を失ってしまった。
急にベッドの上で身体から力を抜いて大人しくなった桜子を見た宗司は、彼女が自分の申し出を受け入れたのだと思い込むと、鼻息を荒くしてその顔にいやらしい笑みを浮かべながら、桜子のパジャマのボタンに再び指をかけた。
ドカッ!!
宗司の身体が地面から浮き上がる。
次の瞬間彼は口から呻き声と涎を漏らしながら、股間を押さえて蹲っていた。
よく見ると桜子の服を脱がせようとしていた自身の股間に、下から彼女の膝が突き刺さっている。
「うぐぅ…… な、なんてことを……」
股間の激痛に耐えながら宗司が桜子を見ると、彼女は上半身を起こしてこちらを睨みつけていて、その顔には憤怒の表情が浮かんでいた。
「それはこっちの台詞だろ。弱みに付け込んで少女を自由にしようなんて、とんでもない野郎だな。それも相手は姪だぞ? 普通あり得ないだろ!? お前は変態か?」
「な、何を言って…… 桜子ちゃん?」
宗司は未だ股間の激痛に喘ぎながらも、目の前の光景を信じる事が出来なかった。
見た目も声も桜子のままなのに、話し方から雰囲気まで全てが別人のようになっている彼女を呆然とした顔で見つめている。それも自分の股間を抑えながら床に蹲っているので、傍から見るととても滑稽な姿だった。
「あぁん? なによその目は? もしかして、あたしが普段のあたしじゃないって思ってるでしょ? 一体あんたはあたしの何を知ってるというのよ!?」
察しの通り、いまの桜子は秀人なのだが、そんな事など露程も知らない宗司は自分の中の桜子のイメージと目の前の彼女のギャップに混乱していて、股間の痛みがさらにそれを助長していた。
宗司の中の桜子は、染み一つ無い真っ白な肌に白に近い金色の髪、真夏の空のように透き通った青い瞳に小さくて可愛らしい唇をしていて、小さいけれどスッと筋の通った鼻はツンと上を向いている。
それらの顔のパーツは恐ろしいまでに完璧に配置されていて、彼女はまさに奇跡の造形とも言える完璧な美少女だった。
そして顔が小さくて頭身が高く、手足も長いスラっとした体形はまるでモデルのようだし、極めつけにまだ高校一年生とは思えないほどの豊満な胸をしている。
そして何気に少し大きめのお尻とむちっとした太ももは、それだけでご飯が三杯は食べられそうなほどに宗司の大好物だったのだ。
世の男性(一部を除く)の理想を全て詰め込むと彼女になるのではないかと思えるほどの完璧な美と愛らしさを備えた美少女、それが小林桜子だった。
そんな彼女が、今まさに自分の目の前でベッドの上から凄まじい憤怒の表情で、股間を抑えて床に蹲る自分を見下ろしているのだ。これでもしその白くて長い脚で自分を踏みつけてくれたなら、宗司にとっては別の意味でこれ程のご褒美はなかった。
「それで、この状況をどう申し開きするつもりなの、叔父さま? まさか夜中に一人で寝ている姪の部屋に忍び込むなんて、こんな決定的な状況もないと思うけどね」
「うぐぅ…… お前、なにを……」
「さて、ご婦人二人はこれを見てどう思うかしらねぇ…… なんてな。おい、宗司さんよぉ!! 覚悟しやがれ!!」
最後に何気に可愛らしくドスを効かせた声で恫喝をしながら、秀人はすぅーっと深く息を吸い込んだ。
その口は皮肉そうに片方だけが上がっている。
そして……
「きゃー!! 何するの、やめて、叔父さん、いやぁぁーーー!!」
可愛らしくも甲高い悲鳴が、薄く闇が明け始めた夜の空を切り裂いた。




