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第140話 抑えられない感情

 青山の弁護士事務所からの帰り道、楓子はまるで何かに打ちのめされたようにトボトボと歩いていて、その足取りは全く覚束なかった。

 その顔にはまるで覇気がなく、目は虚ろで、普段の彼女を知っている者が見れば今の様子が尋常ではない事が一目でわかっただろう。それほど楓子のショックは大きかったのだ。


 正直に言うと、絹江が頻繁に寝込むようになってから楓子は店の切り盛りに限界を感じていた。

 店を開けていれば店内には常に誰かがいなければいけないのだが、楓子が奥の事務所で作業をしている間は頻繁に店の中が無人になることがあった。

 それだけが原因ではないのだろうが、そのせいで店から離れて行った客もいたようで、最近は店頭の売り上げも落ち込んでいて実際の客足も目に見えて減っているのだった。


 絹江が入院してからはずっと店舗は閉めていて、週に三日の配達業務だけを行うようになった。

 収入はもちろん以前よりも減ったがその分身体は楽になったし、今のように配達だけをしていても楓子と桜子の二人だけなら何とか食べていけるだけの収入はあるのだ。

 しかしこれをこのまま続けていても、その先には明るい展望を抱くことは出来そうになかった。


 いま配達を受け持っている得意先も小林酒店と同じ商店街や商工会の昔からの付き合いの延長でしかなく、それも今後どこまで続くかはわからない。そして今の配達先があと二割も減ると、恐らく店の維持どころか二人が食べて行く事も出来なくなるだろう。



 やはり今が潮時なのかもしれない。


 絹江も亡くなり、その相続の話し合いが持たれる四十九日の法要まであと一か月しかない。それまでに桜子と自分の二人の身の振り方を考えなければいけないのだ。

 早速今日の夜にでも娘と相談をしてみよう。


 ずっとわかっていた事なのに敢えて今まで見て見ない振りをして来た現実を、図らずも赤の他人の青山に付き付けられた事実に慄きながら、楓子は重い脚を引き摺るようにして家路に着いたのだった。





「ねぇ桜子、お母さんね、もうお店をたたもうかと思うの」


 その日の夜、夕食を食べ終わった楓子がいつまで経っても立ち上がろうとしない事を不審に思った桜子が母親に訊いてみると、楓子の口からその言葉が出た。

 桜子はその言葉の意味を理解すると一瞬たじろいだのだが、楓子の真剣な顔を見ていると彼女がその言葉を吐くまでには相当な熟慮が繰り返されたのだろうとその心情を察していた。



「……どうしてそう思ったの?」


「そうね、説明するから良く聞いてね」


 桜子が当然の疑問を発すると、楓子は丁寧に説明を始める。

 桜子はその愛らしい顔を傾けながら、母親の言葉の一字一句を聞き洩らさないように真剣に聞いていた。




「……という訳なの。桜子、おばあちゃんの相続に関してはあなた自身が当事者なのだから、そこを忘れないでね。一か月後の四十九日の法要までに結論を出しておかないといけないのよ」


「……どうしてもこのままお店を続けるのは無理なの?」


 母親の口から理由を聞いたばかりなのに、桜子はすがるような顔で楓子を見つめる。


「そうね。それはお母さんも考えたのだけど…… やっぱり私一人では無理なのよ。配達は拓海君がいるからいいけれど、昼間の店舗の営業がちょっとね……」


「誰か人を雇うとかは?」


「今の売り上げでは他に人を雇う余裕はないのよ。それに人を雇えば色々と責任も生まれるし…… 今は拓海君一人で精一杯なの」


 母親の言葉を聞いた桜子は「それならあたしが学校を辞めて店を手伝う」と余程言いそうになったのだが、そんな事を楓子は望んでいない事を彼女も十分に承知しているので、(すんで)の所でその言葉を飲み込んでいた。



「それでね、お店を閉めた後はここから引っ越そうと思ってね……」

 

「えっ!! 引っ越し!? どうして!?」


 母親の言葉に虚を突かれた桜子は、思わず叫んでいた。

 お店をやめる事と引っ越しをする事の繋がりが彼女には理解出来なかったのだ。お店を閉めても自分達の家はここに残っている。 


 それから楓子は、昼間に青山に言われた事を彼女なりにかみ砕いて桜子に説明をしたのだが、一向に桜子の顔に理解の色が見えて来ることはなく、むしろ終始憮然とした顔をしていた。



「ねぇ、お母さん、ちょっと待って。少し訊いてもいい?」


「えぇ、どうしたの?」


「……おばあちゃんの遺してくれたこの家は、お母さんとあたしの家でもあるんだよね? お父さんもあたし達もずっとお店を頑張ってきたし、おばあちゃんが病気になった時も二人で一生懸命看病してきたよね?」


「そうね、その通りね……」


「それをどうして何もしていないあの人達に分けてあげなくちゃいけないの? お店の手伝いだってしてくれたこと無いし、おばあちゃんのお見舞いにだって一度も来なかったじゃない」

 

「……そんな言い方はよくないわ。人の悪口を言ってはだめ。……だってしょうがないじゃない、そういう決まりなんだもの。それが法律なのよ」


 楓子がどこか寂し気な様子で呟くと、そんな母親の姿を見ていられないかのように、さらに桜子の語気は荒くなる。


「しょうがないって…… だからって、これまで一生懸命尽くしてきたお母さんには血が繋がっていないっていうだけでおばあちゃんからは何も貰えないのに…… それなのにあの人たちは…… そんなのおかしいよ!!」


「さ、桜子、いいのよ、もう」


「それに血が繋がっていないというのなら、あたしだってそうじゃない!! あたしだっておばあちゃんとは血が繋がっていないのに、どうしてお母さんだけがそんな……」



 パシンッ!!


 楓子の振り上げた右手が桜子の頬を平手で打っていた。

 それは桜子の叫びを一瞬で遮るほどの強さではなかったが、桜子にとっては頬を打たれた事よりも母親に叩かれたという動揺の方が大きかった。


 左の頬に手を当てながら呆然とした顔で立ち尽くす娘の姿を見て、楓子はハッと我に返ると慌てて彼女の細い身体を抱きしめる。


「ご、ごめんなさい!! 桜子、叩いたりしてごめんね、お母さんどうかしてたの…… 許して……」 

 

「……あたしも変な事を言って、ごめんなさい…… お母さん……」


 それから二人は抱き合ったまましばらく涙を流していた。

 その涙は、絹江が亡くなった時のあまりの忙しさに自分が好きなように泣くことも出来なかった二人がずっと溜めこんでいた涙を溢れさせているように、止めどなく流れていたのだった。




「ごめんね、桜子。ほっぺた痛かったでしょう? でもね、あんな事を言ってはいけないわ」


「ううん、大丈夫だよ、少し驚いただけだから…… でもごめんなさい、もう二度とあんな事言わないから……」 


 楓子は一瞬の感情の高ぶりで咄嗟に桜子の頬を平手打ちしてしまったが、これが初めて母親として娘に手をあげた瞬間だった。

 昔から桜子は聞き分けの良い子供だった。もちろんイタズラをした彼女を叱った事は何度もあったが、基本的に言葉で言えば理解したので体罰に訴える必要は無かったし、楓子自身もいくら躾とはいえ我が子を叩いたりはしたくなかった。


 それにしても、楓子は桜子があそこまで悪しざまに人の悪口を言うのを初めて見て驚いていた。

 それは彼女が小さい時から人の悪口を言ってはいけないと教えて育てて来たのもあるが、そもそも桜子の性格が人を責めたり悪口を言う事を好まなかったからだ。


 基本的に彼女は自身の負の感情を飲み込んで隠してしまい、いつも一人で我慢をしている事が多い。だから周りの人間が先に気付いてあげなければ彼女は限界まで耐えてしまい、今のように突然爆発する事が時々あったのだ。その事を考えると、表には出していなかったが桜子が以前から叔父と叔母に対して相当不満を溜めているのは間違いなかった。


 それから二人はしばらく相談をしたのだが、やはりこれ以上店は続けられない事、もうこの家には住めなくなる事、この先の相続手続きの事などを話し合ううちに夜は更けていったのだった。




 ーーーー



 2月中旬。

 絹江の四十九日法要の日。


 住職による読経も終わり、いまは小林家に集まった親しい親戚達が故人を偲びながら会食をしているところだ。

 今日も楓子は朝から忙しく動き回っていて桜子もその手伝いをしていたのだが、相変わらず宗司とその嫁の動きの鈍さに楓子はイライラしていた。そんな中、絹江の長女の直江(なおえ)が話しかけてくる。


「お義姉さん、今日はこの後宗司兄さんも交えて相続について話をしたいのだけれど、桜子ちゃんは大丈夫?」


 直江は絹江の長女で、浩司の六歳年下の妹だ。

 遠く他県の沼田家に嫁いでいるので、普段はお盆の時期に本家で会うことが唯一でほとんど実家に帰ってきたことはなかった。

 彼女は兄の宗司に比べると全くの常識人と言えるような人で、楓子も彼女に対しては特に思うようなこともなく普通の親戚付き合いをしていたのだが、母親が体調を崩したり入院をしたりしても一度も顔を出さなかった事は楓子の中に微妙な引っ掛かりを作っていた。



「えぇ、大丈夫。桜子もいいわね?」


「うん、いいよ、大丈夫。よろしくお願いします」


 桜子が叔母に向かってペコリと頭を下げると、その様子を横目で見ていた宗司が横から口を挟んでくる。


「おぉ、それじゃあこの後三人で話し合おうか。と言っても大した財産じゃないけどな」


 その言葉に桜子の表情が険しくなる。

 彼女は顔を俯かせてじっと料理を見つめたまま小さく呟いた。


「大した財産じゃないって…… 酷い…… この家はあたしたちの大切な家なのに……」


「あぁ、なんだって?」 


 酒に酔って顔を赤くした宗司が桜子の呟きを聞き取れずに大きな濁声(だみごえ)で聞き返していて、彼のその姿には品というものが全く感じられなかった。

 そして桜子はそんな宗司に顔を向けると、彼にも聞こえるように少し声を大きくする。


「おばあちゃんが残してくれた大切な家なのに…… 叔父さんはそれさえも取り上げようとしているくせに……」

  

「なんだって? なんの事を言ってるんだい、桜子ちゃん?」


「ちょ、ちょっとやめなさい、桜子」


 桜子の様子に気付いた楓子が慌てて娘の口を遮ろうとしたのだが、それでも彼女の口は閉じなかった。その青く透き通った美しい瞳は宗司の顔を睨みつけていて、愛らしい顔の眉間には深いシワが刻まれている。



「そんな大した事が無いなんて言うのなら、あたしたちからそれを取り上げようとしないで!!」


 桜子の声は最早(もはや)つぶやきなどではなく既に叫び声へと変わっていて、状況を理解していない周りの親戚達は何事かと彼女を見ている。

 その無数の視線の中心で、桜子は強く握りしめた両手をブルブルと震わせながら尚も宗司を睨みつけているが、それでも彼女の美しさ、愛らしさはひとつも損なわれてはいなかった。


「お、おい、桜子ちゃんそりゃあないよ、その言い方は酷いじゃないか。俺達はべつに無法な事をしようとしている訳じゃないんだよ」


 宗司の口は正論を吐いているのだが、その口にはニヤニヤとした下卑た笑いを浮かべていて、彼はまるで桜子のことをからかっているようにも見えた。

 宗司が桜子の美しい顔を見つめながらどう言い返そうか考えていると、その間に楓子が身体を割り込ませてくる。


「す、すいません、宗司さん。桜子、もうやめなさい、ここでそんな事を言ってはいけない」


「で、でも!!」


「桜子!! お願いだからもうやめて!! これ以上お母さんを困らせないで!!」


 静まり返った会食会場に、楓子の悲鳴が響き渡った。


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