第139話 目を逸らしていた事実
鬼のように慌ただしく絹江の葬儀が終わると、いつの間にか世間は正月になっていた。
昨年に引き続き今年の正月も不幸が続いた小林家にはすっかり自粛ムードが漂っていて、大晦日から年初めにかけてのなんとなくワクワクとした雰囲気も、ここ二年ほど味わっていない。
葬儀から日が経って少し落ち着いたとはいえ、桜子には正月特番のテレビを何となく眺めているくらいしかする事もなく、くだらないお笑い番組を見ていても全く笑う事が出来ずにいる。そしてふとした瞬間に絹江を思い出して、思わず涙を流している自分に気が付く事も時々あった。
それでも時間は瞬く間に過ぎていき、気が付くと正月も終わって世の中は普段通りに動き始めていた。
宗司に頼まれた通り正月中に楓子が絹江の残した財産の目録を作り始めたのだが、それは随分と呆気なく終わってしまった。
絹江が自分にもしもの事があった時の為に、自分の部屋の引き出しの中に手書きのメモとともに通帳や不動産の登記済証などを一緒に保管していたのを、楓子がすぐに見つけたからだった。
やはり宗司が予想した通り、彼女が遺した財産は約300万円の預貯金と時価1,500万円の土地と家だけだった。
元々土地と家は絹江の夫の耕造の物だったのだが、彼が亡くなった時に絹江に名義を変更していて、現在は絹江の単独所有となっている。
今回絹江の相続人は、長男の浩司、次男の宗司、長女の直江の三名で、浩司が先に亡くなっているので代わりに桜子が代襲相続人となる。
楓子にも預貯金はその三人で約100万円ずつ分ければいいのだろうという事はわかるのだが、家と土地はどうすればいいのか全くわからなかった。
法律や相続の事にはとんと疎い楓子にはいくら一人で考えても答えが出そうになかったので、そこで以前からお世話になっている弁護士の青山に相談してみる事にしたのだった。
「……という訳で、今回の相続についてアドバイスをお願いしたいのですが……」
正月が明けると、早速楓子は青山のもとを訪ねていた。
楓子と彼との付き合いはもう彼此三年以上になる。桜子のいじめ事件の損害賠償請求訴訟から始まり、痴漢事件での弁護、それに関する民事の損害賠償請求訴訟など、思えば随分と濃い付き合いをした三年間だったと楓子は様々な事を思い出していた。
普通は弁護士に何かを相談する場合には時間単位で相談料が発生するのだが、楓子が事前にアポを入れると、青山はあくまでも楓子とは茶飲み友達として無料で話を聞いてくれると言っている。
その対応は青山にしては異例のようで、楓子が彼の事務所を訪れるとスタッフやアシスタントたちが驚いた顔で見ていた。
その対応は、彼がそれだけ小林家、ひいては桜子の事を気に掛けているということで、青山は桜子の事になると自分の娘の事を思い出してしまって、どうしても他人事とは思えないようだった。
「なるほどね…… まぁ、預貯金に関しては単純に三等分すればいいでしょう。しかし問題は土地と家ですね。もっともこれはよくある話なんですが」
楓子の説明を聞き終わった青山は、眉間にシワを寄せて天井を見つめている。
その顔は困っているというよりは、彼女に何と言って説明しようか考えてる顔だった。
「はぁ…… 問題、ですか?」
青山の言葉を聞いた途端、楓子の表情が曇り始める。彼女の顔には「どうしていつもスムーズに事が運ばないのだろう」と書いてある。
「そうですねぇ…… 相続で不動産を分割する場合、主に四種類の方法があるのはご存じですか?」
「いいえ、知りませんが……」
「そうですか。えぇと、まずは『現物分割』と言って、実際に不動産を三つに分けてしまう方法があります。しかし土地なら簡単ですが、これが家なら三つに分けるなんてそんな事は出来ませんよね?」
「まぁ、確かにできませんね」
「なので、これは却下。次は『換価分割』ですが、これは不動産を売り払ってお金に換えて、それを相続人全員で均等に分ける方法です。一番簡単で公平な方法だと言えますし、実際にこの方法を選ぶ方は多いですね」
「……売るんですか? 家を? それじゃあ私達が住む所が無くなってしまいますが……」
楓子が渋い顔をしながら青山の顔を見つめていて、なんだか不服がありそうな物言いだ。
「ですよねぇ。そうすると小林さん親子が住む家が無くなってしまいますね。なので、これも却下。それで次ですが……」
「はぁ…… なんかもう聞くのが怖くなってきました……」
「まぁまぁ、とりあえず聞いて下さいよ。えぇと、次に『代償分割』という方法なのですが、これは小林さん親子が今の家に住み続ける代わりに、残りの二人に対価を支払うというものです」
「対価……ですか?」
「はい、対価です。つまりお金ですね。わかりやすく言うと、家と土地を桜子さんの単独所有にする代わりに、残りの二人にお金を払うという事ですね」
「……家と土地を買い取る、ということですか?」
「まぁそうです、要するに買取です。聞けば家と土地を合わせると約1,500万円の価値だそうですね? それなら二人に500万円ずつ払って買い取るんですよ。それで全て解決です」
「えぇ!! そんなに!? そんな大金払えるわけ無いじゃないですか!!」
楓子が両眼を大きく見開いて驚いている。
「まぁ、そう仰ると思いました。それじゃあ最後の『共有分割』ですが……」
絹江が残した土地と家は確かに金額(路線価)に換算すると約1,500万円の価値があるのだが、そこには今現在も楓子と桜子が住んでいるので、それをそのまま三等分する訳にもいかないだろう。実際には相続人三人による共有登記をする方法(共有分割)もあるのだが、宗司と直江にとっては何のメリットもないし、この先二次相続が発生するととても面倒な事になる。
それなら家と土地を売り払って現金に換えて、三人で500万円ずつ分ける方法(換価分割)が一番簡単でわかりやすいのだが、そもそもその金額で売れるかもわからないし、最悪買い手が見つからない事もあり得るのだ。
そして運よく売れたとしても、今度は楓子と桜子の住む家が無くなってしまう。
結局二人がこのまま今の家に住み続ける為には、家と土地の名義を桜子の単独所有にして宗司と直江には500万円ずつ現金を支払う方法(代償分割)しかないのだ。
しかし高校生の桜子が1,000万円もの現金を持っている訳もないし、それを楓子が肩代わりするとしても今度は彼女と桜子との間で約230万円もの贈与税が発生してしまう上に二人の当座の生活資金が1,000万円以上も目減りしてしまうのだ。
酒店の継続も含めてこれからの事がまだ何も決まっていない段階で、いきなり1000万円もの貯金を取り崩してしまうのは余りにも浅慮に過ぎるのではないだろうか。
しかし次に親戚が集まる四十九日の法要までに考えを纏めておかないといけないのだ。それが出来なければ遺産分割協議書の作成も出来ないし、相続の手続き自体が滞ってしまう。
確かに楓子にはそのくらいの金額であれば出せない事もないのだが、しかしその前に自分たちの身の振り方を先に決めなければ話が先に進まない事に彼女は気が付いた。
青山のとても詳細な説明を聞きながら楓子は思わず頭を抱えてしまったのだった。
青山の説明を聞き終わった楓子が難しい顔をしながら唸っていると、青山が聞き辛そうに彼女に質問をした。
「小林さん、立ち入った事を訊きますが、この先酒店の経営はどうするんですか?」
「お店ですか…… 実はそれをとても悩んでいて……」
青山にズバリと言われて、楓子が小さな溜息を吐きながら言い淀んでいる。
実は彼女は、絹江が倒れた時からずっとその事を考えていたのだが、今もまだ結論が出ていなかった。いまも店舗の営業の再開の目途も立っていないし、このまま楓子一人で店舗の営業を続けるのは無理だと思っているのも正直なところだ。
絹江が元気だった頃は彼女が店番をしてくれる間に楓子は注文の取りまとめや発注などの事務処理をしていたのだが、彼女が頻繁に寝込むようになってからはそれも難しくなっていたし、絹江が入院してからは店舗のシャッターは連日閉めたままにしていた。
そのせいだけではないのだろうが、最近ではすっかり客足も途絶えてしまっている。
確かに店を開けずに酒の配達だけをしていても小林親子二人が食べていけるくらいの収入にはなるのだが、地域を挙げて「商店街活性化プロジェクト」を推進している昨今、その中にシャッターを下ろしたままの店があるのもあまり好ましい事ではなかった。
「これは私が言う事では無い事を承知したうえで敢えて言いますが…… このまま今の家にしがみ付いているのはあまり得策とは思えません」
「……何故ですか?」
「今はまだ結論が出ていないという事ですが、実際にあなた一人でこのままお店を続けられるのですか? そしてもしもこの先あなたがお店をやめる時が来たとして、その時はどうするんですか?」
「……」
「あの家はあなた方二人には広すぎますよ。それに建物もとても古い。あそこは近隣商業地域なので、店をやめてまで住み続けるには固定資産税も高すぎる」
「税金の事はよくわかりませんが…… 確かに古いし、二人には広すぎるかも知れませんね……」
青山の言う事がもっともなのは楓子にも良くわかっているのだが、彼女の感情がそれを理解することを拒んでいた。
「確かにかけがえのない思い出の残る家でしょう。できれば手放したくない気持ちもわかります。でもそのために1,000万円も払うんですか? そのお金は別の事に使うべきではありませんか?」
「思い出……」
青山の言葉を聞いた楓子の脳裏には、浩司が亡くなってから生活するのに必死過ぎて、最近ではすっかり忘れていた昔の出来事が次々に浮かんでいた。
浩司に手を引かれて初めて小林家に来た時、
やっと本当の若奥さんになった時、
子供ができなくて夫婦二人で悩んでいた時、
赤ん坊の桜子がやって来た時、
すくすくと成長する桜子の姿、
そして浩司が亡くなった時の悲しみ、
その全ての場面が凄まじい勢いで彼女の頭の中で渦を巻いている。
彼女がその多すぎる思い出に翻弄されそうになっていると、最後に青山に決定的な言葉を投げかけられた。
「もしもお嬢さんが地方の大学にでも行く事になれば、あなたはあの家に一人で住むんですよ? それにいずれ彼女がお嫁にでも行ったら……」
「いや!! やめてください!! お願いです、もうそれ以上言わないで……」
青山の言葉に思わず楓子は自身の頭を抱えて蹲ってしまう。
その顔はすっかり血の気が引いていて、目の焦点は合わずにどこか遠くを見ている。そしてその目からは止め処なく涙が溢れていた。
青山の吐いた言葉は、あまりにもリアルに楓子の頭の中に映像を作っていた。
耕造も浩司も、そして絹江も亡くなり、桜子まで去って行く。最後にあの広い家にポツンと自分一人だけが残されてこの先何十年も生きて行くのだ。
自分はそんな生活に耐えられるのだろうか。
いや、きっと無理だ。
自分はウサギではないが、きっと寂しすぎて死んでしまうに違いない。
今更ながら衝撃的な事実に気が付いた楓子の愕然とした姿を見た青山は、彼女のためとはいえ自分が彼女の心の中に土足で踏み込んでいる事に気が付いた。
「……すいません、言い過ぎました。どうか許してください……」
自分の吐いた言葉を猛烈に後悔している青山の姿を見つめながら、今まで敢えて見ない振りをして来た現実からは、もうこれ以上逃れられない事を楓子は悟ったのだった。




