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第138話 彼女の手助けをするという事

 絹江が亡くなった事実に悲しみの淵に佇んでいた楓子と桜子だったが、彼女たちはただ悲しんでいる訳にはいかなかった。

 絹江が亡くなった瞬間から物事は動き始めて、親戚への連絡から病院の手続き、遺体の搬出のための葬儀屋の手配などしなければいけない事が山積していて、しんみりと絹江との別れを惜しむような時間など全く無かったのだ。

 

 取り急ぎ絹江の次男の宗司(しゅうじ)に電話をすると、すぐにこちらへ向かうという事で楓子は少しホッとしたのだが、それでも彼が到着するのは早くても昼すぎになるだろうからそれまでも一人で色々な手続きをしなければいけなかった。



 葬儀は今年の一月に浩司の葬儀をお願いしたのと同じ葬儀屋に頼む事にした。

 そこは以前から小林酒店を贔屓(ひいき)にしてくれているところで、小林家とは同じ商工会に所属している。そしてそこの社長は生前の浩司の飲み仲間で、楓子とも顔馴染みだった。


 楓子が電話をするとすぐに社長自らやって来て、明日のお通夜と明後日の告別式の打ち合わせに入ったのだが、社長は楓子の顔を見てとても気の毒がっている。

 今年の正月に夫を亡くしたばかりだというのに、それから一年も置かずに今度は義母までも亡くしたのだ。その悲しみと喪失感は想像に余りある。


 まるで現実から目を逸らすかのように葬儀の打ち合わせに没頭する楓子の様子を見ていると、社長の胸はシクシクと痛んだ。葬儀屋という商売柄普段から人の死には慣れているが、祖母の死に打ちひしがれて涙も枯れ果てた桜子の姿も余計に彼の胸を締め付けるのだった。

  

 早朝からバタバタと忙しく動き回ってまるで普段の生活を忘れていた楓子と桜子だったが、今日は土曜日なので桜子の学校も夕方の店の配達も無かったのは唯一幸いと言えた。




 昼すぎになると、絹江の次男、つまり浩司の弟の小林宗司(こばやししゅうじ)が小林家へ到着した。

 彼は桜子達が住んでいるS町からは遠く離れた他県に住んでいて、今日も楓子から連絡を貰ったすぐ後に単身で飛行機に乗ってやって来たのだ。妻と二人の子供達は夕方に追って到着するそうだ。


 宗司は桜子の父、浩司の二歳下の弟で現在58歳だ。

 今から約40年前に地方の大学に進学するのと同時に実家を出て行ってから、ずっとS町には戻って来ていない。大学卒業後はそのままH県の企業に就職して、そこで出会った女性と結婚をして、H県に自宅マンションを購入して住んでいる、今ではもう立派なH県民と言えた。


 彼の外見は浩司に似て背が高く、顔の造作も浩司とよく似ているのだが、だらしなく脂肪を付けた体型とハゲ散らかった頭が浩司とは決定的に違っていて、言い方は悪いが、全体的に浩司の劣化版のような感じだった。




「楓子さん、今日は朝から一人で大変だったろう。これからは俺も手伝うから一緒に頑張ろう」


「すいません…… お義母さんの死に目にも会わせる事が出来ず…… 連絡が遅くなり申し訳ありません」


「……いや、まぁ、仕方ないだろう。お袋が倒れたことは俺も聞いていたけど、結局死ぬ前に見舞いに来る事も出来なかったしな……」


 そう言って宗司は禿げあがった頭を掻きながらバツの悪そうな顔をしている。



 リビングで二人が挨拶をしていると、奥の和室に安置されている祖母の遺体に寄り添っていた桜子が顔を出す。その顔はげっそりとやつれていて、泣き続けたせいで目の周りは赤く腫れていたが彼女の美しさはほとんど失われてはいなかった。


「叔父さん、お久しぶりです。遠い所をお疲れ様です……」


「あぁ、桜子ちゃん、久しぶり。……ずいぶん泣き腫らしたんだねぇ、目が真っ赤になってるよ」 


「……」



 宗司はまるで同情するかのように桜子に声をかけたのだが、楓子はその様子にずっと違和感を感じていた。

 そもそも彼も絹江の血の繋がった息子であるはずなのに、先ほどから妙に他人行儀だし、小林家に到着した時からもまるで悲しんでいる様子も見られないのだ。実の母親が亡くなったというのにどこか飄々としている。


 以前絹江から聞いた話では、宗司と浩司は昔から折り合いがあまり良くなかったらしい。

 さらに浩司だけではなく父親の耕造とも馬が合わなかったらしく、宗司が大学進学と同時に実家から出て行ったのも、その後もあまり実家に寄りつかなかったのも、父と兄と顔を合わせたくないからという理由のようだ。

 宗司の何がそんなに父と兄と合わなかったのかは楓子にはわからないのだが、彼の下卑た物言いと少々品位に欠ける物腰は昔から楓子も少し苦手だった。


 

 そして同様に桜子も叔父の事が好きではなかった。いや、むしろ嫌っていると言っても過言ではない。

 彼女の事なので自分が叔父の事が好きではない事は以前からおくびにも出す事はなかったが、宗司自身は彼女に向けられる視線や雰囲気で敏感にそれを嗅ぎ取っていたらしく、桜子に対する彼の態度には時に嫌味や下品な言葉を含む事もあったのだ。

 それも周りに人がいない時に限ってそんな態度をとっているので、恐らく彼は桜子に対して何か思うところがあるらしい。


 もともと宗司の事が好きではなかった桜子が明確に嫌悪するようになったのは、1月に浩司の葬儀に訪れた際に彼から卑猥な言葉をかけられたからだった。

 その時の宗司は酒に酔っていたとはいえ、桜子に恋人がいる事を知ると卑猥な言葉で健斗との仲を揶揄するような事をしつこく口にした挙句、親戚たちの前で「彼氏とはもうやったのか?」などと大声で囃し立てたのだ。


 その時は楓子を先頭に他の親戚たちにも酷く叱られたのだが、その後も全く反省する素振りも見せずに、周りの目がないところで桜子の胸を露骨にじろじろと見てきたり、彼女にわざと聞こえるように卑猥な言葉を口にしてニヤニヤしたりしているのだ。

 

 そんな全く尊敬できないどころか嫌悪さえしている叔父ではあったが、今回の葬儀の喪主を務めるのは彼であるし、楓子一人では諸々の手続きや準備は到底無理なので今はそんな叔父でもその手を借りなければいけない。

 しかし桜子がそんな気まずい思いを持て余すのもそれほど長い時間ではなく、夕方になると近くの親戚から順に到着し始めて、気付けば家の中は賑やかになっていた。



 

 桜子が皆の夕食の手配をしていると、酒店の出入り口から見慣れた顔が覗き込んでいるのが見えた。

 それは健斗だった。彼は祖母が入院してから元気がなくなった桜子の様子を見に小林家に寄ったのだが、今日は店を閉めているはずなのにシャッターが半分開いているし、それに見慣れない人々が出入りしているので不思議に思って中を覗き込んでいたのだ。


「あっ、健斗!!」  


 桜子が慌てて声をかけると健斗の顔に安堵の色が広がったのだが、状況を把握できていない彼の顔には未だに戸惑いの色が見える。


「よ、よう。な、なぁ、これは一体……」


 健斗の言葉に桜子が振り返って楓子の顔を見ると、彼女は軽く笑って頷いている。それは少しの間なら行っても構わないという意味なのだろう。

 その合図に感謝しながら、桜子は健斗の手を掴むと店の外に出て行った。




 商店街の外れにある公園に来ると、冬のブランコは紐で縛られていて座ることが出来ないので、二人は横にある鉄柵に腰を掛けた。

 


「そうか…… おばあちゃん、そんな急に…… お悔やみを申し上げます」


「ごめんね、連絡しなくて。健斗…… 本当に急だったんだよ。ちょっと前までもう少しで退院できるって言っていたんだけどね……」


 桜子が俯いて寂しそうに語るのを、健斗は黙って聞いている。その瞳には悲しみが溢れていた。


「そうか、それは残念だったな。……大丈夫か? 目が腫れてるぞ」 


「うん、大丈夫。ごめんね、心配かけて。少し泣きすぎてこんなになっちゃった」


 桜子が少し顔を上げて健斗の顔を見つめる。

 確かに両目は赤く腫れているが、それでも彼女の美しさは少しも失われてはいない。そんな彼女の顔を少し眩しそうに見つめながら、健斗は先日の事を思い出していた。


「……なぁ、この前も言ったけど、何か俺に手伝えることはないか?」


「そうだね…… とりあえずお葬式の準備とかはあたしは直接してないし…… あぁそうだ…… 手伝いではないけど、少しだけ胸を貸してほしいかな……」  

 

 そう言うと桜子は健斗の返事を待つ事なく、彼の胸に顔を埋める。

 彼女の突然の行動に思わず健斗は周りをキョロキョロと見回してしまったが、冬の夕方の公園に態々(わざわざ)やって来る物好きもおらず、彼ら二人以外の人影は見当たらなかった。




「お願い健斗、しばらくこのままでいさせて……」


 桜子が周りを気にしている健斗を上目遣いに見つめると、彼は顔を赤くして落ち着かない様子で桜子を見返しながら口を開いた。


「あ、あぁ、俺の胸で良ければいくらでも貸してやるよ。それでお前が少しでも楽になるのなら遠慮なく使ってくれ」


「ありがとう、健斗……」


 健斗の胸に顔を埋めている桜子の顔には安堵と安心が入り混じった表情が溢れていて、彼の胸の中でほうっと小さな息を吐いている。

 そのあまりにも無防備な姿を見た健斗は、思わず彼女の細い身体をそのまま抱きしめそうになったのだが、そこは男を見せてグッと我慢をした。


 桜子の身体の温かさと柔らかさ、そして鼻をくすぐる彼女の香りに頭がクラクラとしてしまった健斗だったが、「抱きしめる」、たったそれだけの事でも彼女の役に立つことが出来るのだなと思うと、それまで硬く凝り固まっていた自身の心が少し柔らかくなっている事に彼は気が付いた。



 確かにいまの健斗には、桜子、ひいては小林家のために出来ることはほとんど無い。

 彼が自分を犠牲にして手助けをする事は桜子には既に拒絶されているし、自分の母親にはそれ以外のことを考えてみろと言われていたのだが、何も思いつく事が出来ないまま時間だけが過ぎていた。そしてその事がここ数日間彼の頭を悩ませていたのだ。


 しかしただ抱きしめるだけで、こんなにも彼女に安心感を与えることが出来るのだということに気が付いた。

 具体的に彼女の援助をしたり手伝ったりする必要はなく、ただ彼女の横にいて、話を聞いて、抱きしめてあげる。たったそれだけでよかったのだ。


 どうしてこんな簡単な事が自分にはわからなかったのだろう。

 しかしきっとこれが正解なのだ。



 これからどんな事があっても、いつも彼女に寄り添い、支えていく。

 それが自分が彼女に出来る唯一かつ最大の手助けなのだ。



 健斗は自分の胸に顔を埋める桜子の姿を眺める。

 そして彼女の顔に広がる柔らかい安堵の微笑みを見つめながら、健斗はそう思うのだった。



 

 


 翌日になると、N町とその周辺に住んでいる本家の親族が続々と斎場に集まってきた。

 今回の喪主は絹江の次男の宗司なのだが、楓子も故人と同居していた長男の嫁という立場もありその中心的な役割を果たしている。その忙しさは本当に目が回るほどで、ある意味前回の浩司の葬儀の時のほうがまだ楽だったと思わずこぼしそうになるほどだった。


 しかし親族の中には何も言わなくても積極的に動き回る者も多く、通夜が終わる頃になるとやっと楓子は一息つくことが出来たのだが、その中でも喪主の宗司の妻の動きが鈍いのに彼女はイライラしていた。


 翌日の告別式から出棺までも無事に終えることが出来て、気がつくと怒涛のような数日間はあっという間に過ぎ去っていたのだった。

 


 

 葬儀から数日経った頃に、やっと少し落ち着きが戻ってきた。

 酒店の営業は夕方の配達業務以外は全て休止していて、日中は店舗もずっと閉めたままにしている。


 夕方の配達の準備も終わり、あとは拓海の出勤を待つだけとなっていた夕方のひと時、楓子は絹江の遺品の整理をしながら葬儀から帰る間際に宗司が言った一言がずっと気になっていた。



「四十九日の法要までにお袋の相続財産の目録を作っておいてくれ。まぁ、恐らく少しの預貯金と、この家と土地くらいしか無いと思うがね。もちろんこの家は金に換えて皆で分けるんだろう?」

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― 新着の感想 ―
[一言] キツいなぁ…悲しむ間も無く作業の山なのは。「家+少しの預貯金」だと、家を売らないと相続税も払えないし。代襲相続はできるけど果たしていくら残るか…。小林家に限らず日本の相続は文句なくハードモー…
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