表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

137/184

第137話 泣きじゃくりたい思い出

 土曜日の朝4時過ぎに小林家の電話のベルが鳴った。


 こんな時間に電話をかけて来るところは一箇所しか無いし、その理由もある程度予想がつく。

 楓子が最悪の予想に身を震わせながら電話に出ると、予想通り絹江が入院している病院からだった。慌てたように早口で告げる病院の担当者によると、ついさっき絹江が心臓発作を起こしてそのまま心肺停止になったということだった。


 電話のベルの音を聞いて既に起きて来ていた桜子の姿を横目に見ながら、楓子は手短に電話を済ますとすぐに出かける準備を始める。初めは寝ぼけたような顔をしていた桜子も、母親の尋常ではない様子からある程度電話の内容が予想できたのか、楓子が口を開くよりも早く彼女も着替えるために自室へと引き返していった。




 楓子と桜子が病院に到着した時には、既に絹江は帰らぬ人となっていた。

 眠っている間に心臓が停止したらしく、着衣の乱れが全く見られないところからも彼女は苦しむことなく眠るように逝ったらしい。

 その顔に浮かんだ穏やかな笑みも、彼女が苦しまずに静かに去って行った事を物語っていた。


 午前3時45分頃に心電図モニターのアラームが鳴ったのに気付いた看護師が病室を訪れた時には、既にもう心肺停止の状態だった。

 もちろん医者による緊急の蘇生処置も行ったのだが、加齢による心機能の低下がそもそもの原因だったために、医者の努力の甲斐なく午前3時57分に死亡が確認されたのだった。 


「おばあちゃん…… うぅぅ…… 嫌だよ…… うあぁぁぁ……」


 桜子が絹江の枕元に顔を埋めて泣きじゃくるのを医者と看護師が悲痛な面持ちで見つめている。

 そして楓子も目の端に涙を溜めて、泣いている桜子の背中をジッと見つめながら昔の事を思い出していた。




 

 楓子が28歳だった時、身の回りでとても堪えられない出来事があって、仕事も辞めて逃げるように一人で旅に出た事があった。旅先で色々と思い出を作りながら、嫌な事を忘れてそれなりに楽しんでいた彼女だったが、いざ明日家に帰るとなった時に急にすべてが嫌になったのだ。


 元々現実から目を逸らすために旅に出たのに、それが終わればまたもとの場所に帰らなければいけない。そんな当たり前の事からさえ、その時の楓子は逃げ出したかったのだ。

 夕方になったが何となく宿に戻る気になれなかった彼女は、何かに導かれるようにフラフラと近くの高台へと歩いて行った。



 湧き上がる憂鬱な気持ちを抑え付けながら夕暮れの迫る高台で楓子が一人で佇んでいると、突然背後から声をかけてくる男がいた。

 どうせナンパ目的だろうと楓子がその男に無視を決め込んでいると、男は彼女の横に並ぶとゆっくりと語り掛けて来る。


「どうしたんだ? 何か言いたい事があるのなら聞いてやるぞ。たぶん俺には何もしてあげられないと思うが、それでも話ぐらいなら聞いてあげられる」



 何もできないと言うのなら最初から声をかけてくるなよと思ったのだが、その男の語り口からどうやらナンパ目的ではないのだろうと思った楓子は、横に並んだ男の姿を横目で眺めてみた。


 その男はリュックサック一つだけを持った薄汚れた格好をした30歳過ぎくらいの男で、顔も腕も真っ黒に日焼けしている。楓子は一瞬彼の事をホームレスかと思ったのだが、その佇まいや逞しい姿を見るにどうやら彼はそうではないらしい。


「……どなたですか? 私はべつに自殺しようとか考えてませんから、ご心配なく」


「はははっ、それだけの向こうっ気があるのなら大丈夫だな。あんたは自殺なんてするようなタマじゃないだろうさ」 

 

 そう言ってニカっと笑った顔はとても豪快で男らしかった。

 

「……あなた、失礼な人ね…… 初対面相手にそんな事を言って……」


「まぁな。人見知りしないのだけが俺の取柄だからな」


「そう…… それじゃ、話してあげる……」



 それから楓子はその男に向かって全ての出来事を語った。

 楓子は別にその男の事を信用した訳では無く、きっと心の内を誰かに聞いてほしかっただけだったのだろう。

 旅の恥は掻き捨て、どうせこの男とはここで別れたら最後、きっと一生会う事も無いだろうと思った彼女は、普通であれば容易に話せないような事も赤裸々に語り尽くしたのだった。



「そうか…… あんたも大変だったんだな。あんたみたいな綺麗な人には悩みなんて無いのかと思っていたけど、まぁ、人それぞれなんだな」


「綺麗な人って…… やっぱりナンパ目的なの?」


 そう言いながら楓子がジトっとした目で見つめていると、その男は焦ったように両手を顔の前で振り回す。


「ち、違うよ、そうじゃない。まぁ、ちょっとはあんたが綺麗だなとは思うけど……」


「……ちょっと?」


「い、いや、ちょっとじゃないな、凄く綺麗だと思うよ、うん、そうだな」


「……まぁいいわ。とにかく話を聞いてくれてありがとう。なんだかスッキリしちゃった。どうせ明日家に帰っても私には居場所はないから、このままどこか別の場所に行ってしまいたいところだけどね」



 楓子の話をずっと聞いていた男には、自分には居場所が無いという彼女の気持ちが痛いほどわかった。そして最後の呟きに込められた彼女の悲痛な叫びを感じ取った男は、先の事など何も考えずに思わずそのまま口に出していた。


「帰る場所が無いのなら、俺の所に来るか? まぁ、住み込みになるし、うるさい年寄りもいるけど働き口なら紹介するぞ。とりあえずメシと寝る場所は約束するし、少し力仕事になるけどそれでも良ければ歓迎するよ」


 突然の男の提案に楓子が呆けた顔をしていると、その男はまたもニカっと男らしい笑みを浮かべながら話を続ける。


「あぁ、すまん、まだ名前も名乗っていなかったな。俺は浩司、小林浩志(こばやしこうじ)ってんだ、よろしくな。それで美人さん、あんたの名前は?」



 

 翌日に返事をすると言って浩司と別れた楓子だったが、彼女の中では彼に提案された時点で既に心は決まっていた。

 どのみちこのまま家に帰ってもすぐにまた出て行かなければいけない身の上なのに、次に住む場所も次の仕事もまだ何も決まっていないのだ。それなら浩司の提案を受け入れるのならば、とりあえず住む場所と食事は約束されるらしい。


 大切なものは全て持って来ているし、置いて来た物はどうせ大した物はない。それならこの身ひとつで新しい場所に行くのも良いかも知れない。両親は既になく、親戚の付き合いも希薄だ。それにこれ以上過去の人間のしがらみに捕らわれるのもこりごりだ。

 しかし初対面の人間を信用して付いて行く事に抵抗が無いかと言えば嘘になる。



 しかしその時の彼女には、不思議と浩司の事が信頼するに足る人物だという直感が働いて、彼女自身もそれを疑おうとはしなかった。それにこのまま元の場所に戻っても、今以上に希望を持つ事は出来ないだろうとも思ったのだ。


 こうして楓子は、翌朝迎えに来た浩司に付いて北の町に行くことになった。



 しかし初っ端(しょっぱな)から問題が発生した。

 浩司は実家に戻ると言いながら、突然ヒッチハイクを始めたのだ。

 これにはさすがの楓子も慌てて彼にそれをやめさせたのだが、聞けば彼はヒッチハイクで全国を旅していて今は全く金を持っていなかったのだ。まったく悪びれる風もなく当たり前にそんな事を語る彼に若干呆れながら、仕方なく楓子が浩司の実家までの旅費をだすことになったのだった。

 

  

 


 浩司の実家は冷涼な気候の北の都市、S町にある老舗の酒屋で、アーケードに覆われた商店街の一角に店を構える先々代から続く個人商店だった。


「おーい、俺だよ、いま帰ったぞ」


 まるで酔っ払いのサラリーマンが午前様で帰って来た時のようなセリフを吐きながら浩司が酒屋の暖簾を潜ると、店内では初老の男女が驚いたような顔をして立ち竦んでいた。


「こ、浩司!! このバカ息子が!! 一体今まで何処をほっつき歩いていたんだ!? 3ヵ月も連絡一つも寄こさずに!!」


 初老の男女の内、男性の方が突然大きな声で怒鳴りつけて来る。楓子の予想通り、この二人は浩司の父と母だった。


「お父さん、まぁいいじゃないですか。ちゃんと無事に帰って来たんだし」


 母親が激高する父親の背中を擦りながら優しそうな仕草で宥めている。

 楓子は浩司の背中越しに彼女の様子を眺めながら、とても優しそうな女性だなと思った。



「ふ、ふんっ、まぁいい。とにかく中へ入れ。話はそれからだ」


 浩司の父、耕造(こうぞう)は鼻息も荒く腕を振り回しながらそのまま店の奥へと入って行こうとしていると、浩司の母、絹江が浩司の背後に隠れている楓子に気が付いた。


「……浩司? そこの娘さんは…… どなた?」


「あっ? 娘だと?」


 絹江の言葉を目敏(めざと)く聞きつけた耕造が店の奥から戻って来ると、しげしげと楓子の姿を眺めている。


「あ、あぁ…… えぇと、こちら大山楓子(おおやまふうこ)さん。今日から住み込みで働くことになったからよろしく」


「なっ……お、お前は何を馬鹿な事を……」


 思ってもみなかった浩司の言葉に驚いた耕造が、大きな口をパクパク開けてそれ以上何も言えなくなっていると、そんな事にはお構いなしに一方的に浩司は話を続けた。


「父さんだって前から住み込みの従業員が欲しいって言っていただろう? だから俺が見つけて来たんだよ、いいだろ?」  


「だ、だからって、お前…… なにも若い娘さんじゃなくても……」


 父親の反応に少々憮然とした顔をしている浩司と、その後ろでしどろもどろになっている楓子の姿を眺めながら絹江がゆっくりと夫を宥めるように口を開く。


「まぁまぁいいじゃないですか。このご時世、住み込みの従業員なんてそうそう見つからないんだし。それに浩司が見つけて来た人なら何の心配もないでしょう? ねぇ?」


 そう言うと絹江はさり気なく楓子に話を促したのだが、そのさり気なさに楓子は彼女の優しさを感じていた。

  


「は、はじめまして、大山楓子です。この度は浩司さんに紹介を頂きまして、こちらでお世話になりに参りました。これからよろしくお願いします」


 そう言って楓子がペコリと頭を下げると、その姿を見つめながら絹江がニコニコと優しそうな笑顔を浮かべている。その顔には何か慈愛のようなものが溢れていて、もしもこんな人が姑だったとしたらどんなに良いだろうと楓子は思った。


「はいはい、こちらこそよろしくねぇ。それで浩司、お前はどうするんだい?」


「俺か? 俺はもちろんこの酒屋を継ぐよ。その為に帰って来たんだからな」


「なにっ? やっとその気になったのか? そうか!!」


 浩司の言葉に耕造も嬉しそうな顔をして笑っている。そのニカっと笑った顔は浩司そっくりだった。



「それはいいが、浩司…… 儂はてっきりお前が嫁でも連れて帰って来たのかと思ったぞ」


「……違うよ、そんなんじゃ無いよ…… まぁ、色々あって面倒を見る事になったんだよ」

  

「色々って…… まさかお前、この娘さんに……」


「ち、違うって、本当に何もないってば!! いいからもう奥に通せよ!!」




 早速その日から楓子の酒屋修業が始まった。


 耕造は少しせっかちで口の悪いところもあるが、優しくて気風が良い男で、楓子には酒の種類や産地、名称などを教えてくれた。

 彼は基本的に商品の搬入、品出しから配達までの力仕事を主に担当しているのだが、寄る年波には勝てずにそろそろ浩司に店と家督を譲ろうと思っていた。しかしその矢先に突然浩司が「自分探しの旅に出る」と言って飛び出したきり三か月間も音信不通になったのだ。

 それは浩司が帰って来るなり怒鳴りつけたくなる気持ちもわかるわ、などとその話を聞いた楓子は呆れていた。


 絹江はレジ打ち、経理、注文の取りまとめ、発注などを担当していて、楓子には実際にやらせながら覚えさせてくれた。

 彼女は見た目通りにとても優しい性格をしているのだが、時に厳しい面を見せる事もあり、小林家の男二人を上手に操っているところからもその手腕と芯の強さを推測できるところだ。


 

 楓子には両親がいない。

 彼女が高校生の時に二人とも病気で他界していて、それから彼女は親戚の家を転々としていたのだ。そんな彼女には絹江の姿がまるで母親のように見える時があった。

 もちろん今の彼女との関係は、雇い主と住み込み従業員の関係でしかないので、敢えてそれ以上の事は考えないようにしていた。

 しかしある時、楓子が自分の過去の話をする機会があった時に、彼女は自分の事を母親だと思ってくれて構わないと言ってくれたのだ。そして楓子の事をまるで自分の娘のように可愛がってくれた。


 

 楓子は周りの協力と本人のやる気によって、約1ヵ月で酒屋の仕事全般を憶える事が出来て、既に一人でも店をまわせるくらいにまでなっていた。

 そして年頃の男女が一つ屋根の下で一緒に暮らしているとどういう事が起こるのかは察しの通りで、既にその頃には浩司と楓子はそういう関係になっていたのだった。

 ある時など、明け方に楓子の部屋からいそいそと出てくる浩司の姿を絹江に見つかって、意味有り気なジトっとした目で見られた事もあった。


 酒店に来る客たちは、店にいる浩司と楓子を見ると酒屋の若夫婦だと思うようで、耕造の事は「ご主人」、絹江は「奥さん」、浩司は「若旦那」、そして楓子は「若奥さん」と呼ばれるようになった。

 初めは楓子もいちいち否定していたのだが、それも段々と面倒になって来た彼女はそのうちその呼び名を放置するようになり、その頃には本当に若奥さんになってもいいかな、などと思うようになっていた。



 楓子が店にやって来てから半年後、遂に浩司と楓子は両親に結婚の意思を報告した。


「まぁまぁ、それじゃあ、楓子さんはわたしの本当の娘になってくれるんだねぇ」


 浩司の両親は二人ともとても喜んでくれて、絹江は楓子が本当の娘になってくれたと涙を流して喜んでくれた。その姿を見た楓子も一緒になって涙を流したのだった。




 その数年後に耕造が病気で亡くなった時も、楓子に子供が出来なくて悩んでいた時も、桜子の慣れない育児に戸惑っていた時も、桜子が事件に巻き込まれた時も、そして浩司が亡くなった時も、ずっと楓子の傍には絹江の姿があって必ず力を貸してくれたのだ。

 絹江は浩司の母親であると同時に楓子の母親でもあった。 



 絹江はとても優しい人だった。

 とても強い人だった。

 とても大きな人だった。



 彼女がいたからこそ自分は酒店の奥さんとしてずっとやって来られたし、浩司が亡くなった後も何とか堪えてこれたのだ。

 しかしそんな彼女ももういない。

 

 桜子が絹江の枕元で泣きじゃくる姿を見つめながら、楓子自身も泣きじゃくりたいのを必死に我慢していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 切ない。 桜子、元気出して。
[一言] 別に作風とかが似てるわけでもないのに『緋の稜線(佐伯かよの)』を思い出した。
[良い点] ぐっとくる
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ