第136話 祖母の恋バナ
絹江が入院した日の翌日、桜子に会うために部活終わりの健斗が小林酒店にやって来ると、酒屋の店舗の電気は消えていて正面の入り口も閉まっていた。
不審に思った彼が店舗の横にある勝手口の呼び鈴を鳴らすと、トントンと階段を降りる音とともに桜子が顔を出す。
「あっ、健斗ごめんね。お店が閉まっていたから驚いたでしょ?」
今日は酒の配達が無い日だったので、既に食事を済ませた桜子は学校帰りの健斗が顔を出すのを待っていたところだった。ついさっきの放課後に彼に帰りの挨拶を済ませたばかりなのに、彼女の顔には嬉しそうな笑顔が浮かんでいる。
「いや、べつに大丈夫。それより店を閉めているなんて、何かあったのか?」
桜子の笑顔につられて健斗の顔にも微笑みが浮かんでいるのだが、その中に少し不思議そうな表情も垣間見えた。
「うん…… ちょっとね。とりあえず説明するから中に入って」
「桜子、俺も店を手伝うよ」
桜子から祖母の入院の話を聞くと、健斗は瞬時に彼女に向かって口を開いた。
桜子は祖母の話をしただけなのに、即座にそんな提案をしてくるという事は彼も小林酒店の危機的状況を理解しているという事で、それだけ普段から健斗が小林家の窮状を憂いている証拠だった。
そんな彼の気持ちも申し出も桜子にはとても嬉しかったのだが、彼女には健斗の申し出を受けることは出来なかった。
「ありがとう、健斗。でもね、大丈夫だから気にしないで。おばあちゃんの事が落ち着くまでお店は開けられないけど、配達は今まで通り続けるし、元々店頭の売上だって大した事はなかったからね」
桜子は努めて明るくそう言ったのだが、健斗の目には彼女が無理をしている事がすぐにわかった。
「……だけど、俺にも何か手伝わせてほしいんだよ。おまえの為に何かできることはないか?」
健斗が桜子の事を心配する気持ちには一切の偽りはない。
彼は自分が桜子の恋人だという自負ももちろんあるのだが、それ以上に今まで彼女の幾多の危機に対して自分が何も出来なかったという後悔の念を心の奥底でいつも燻らせていたのだ。
しかしそれは健斗自身の一方的な拘りとも言えるもので、桜子にとっては自分のせいで彼に負担をかけたくないという気持ちのほうが大きかった。
「うん、ありがとう。健斗の気持ちはとても嬉しいんだけど、健斗もあたしも日中は学校があるし、夕方はあたしもおばあちゃんのお見舞いに行かなくちゃいけないし……」
健斗の申し出に、桜子が申し訳なさそうな顔をしながらやんわりと断りを入れると、その様子をなんとも釈然としない顔で健斗が見つめている。
彼女の返答を要約すると、いまの自分には何も手伝えることは無いという事なのだろうか。
「そうか…… でもずっと店を閉めたままという訳にもいかないだろう? せめて夕方だけでも開けたらどうだ? 俺が店番をするからさ」
「……部活はどうするの? 健斗だって柔道の練習があるでしょ?」
「部活なんて少しぐらい休んだって大丈夫だよ。それよりお前の……」
「そんな事言わないで。お願いだから、あたし達のために自分を犠牲にしようとするのはやめて」
「お、俺はべつにそんな……」
桜子には珍しく、人の話を遮ってまで口を挟んだ。
少し強めの口調で話す彼女の顔は若干強張っていて、その視線は彼女の思わぬ勢いにたじろいだ健斗の顔を射抜くように見つめている。
「健斗が柔道を好きなのも、強くなろうと一生懸命なのもあたしはよくわかっているつもりだよ。それを自分で『部活なんて』なんて言わないで」
「でも俺は…… ごめん、わかったよ……」
桜子の言葉を聞いてもなお健斗は何かを言おうとしたのだが、桜子の真剣な表情を見た彼は自身の言葉をそのまま飲み込んだ。
そんな彼の様子を見た桜子は、ハッとした顔をして慌てている。
「……ご、ごめんなさい…… 酷い事を言ってしまって……」
「いや、俺の方こそごめん。少し無神経だったかもしれないな…… とにかく何か俺に出来ることがあれば遠慮なく言ってくれ」
「うん、ありがとう」
その後家に帰ってきた健斗の様子が少しおかしい事に気付いた母親の幸は、一緒に夕食を摂りながら彼に話しかけてみた。
健斗は学校では無口で無愛想な態度を崩さないが、自宅で自分の母親に対しても態度は変わらない。そんな彼に対して妙な迫力を感じているらしい学校の同級生たちは、彼の前では時々尻込みする態度を見せる事があるのだが、さすがに実の母親は健斗に対して遠慮のない口をきく。
「あぁ、あんた、それはしょうがないわよ。だってあんたは桜子ちゃんの家族じゃないでしょ?」
「家族…… まぁ、確かにそうだけど」
「話を聞く限り、おばあちゃんが入院したのも、お店を閉めたのも、これからどうするのかも、全部小林家の中の話じゃない? それを頼まれてもいないのに他人のあんたが口を挟むのはおかしいわよ」
「で、でも、俺はあいつが……」
「まぁね、わたしもあんたの気持ちはわかるわよ。でもあんたが部活を休んでまで協力する事にあの子が納得するわけ無いでしょ。それはあんたもわかってるんじゃないの?」
「……」
「それがわかっているのに敢えてそんな事を言ったのだとしたら……それはあんたの自己満足でしかないわ。厳しい言い方だけどね」
母親のまるで容赦のない言葉に健斗は胸を深く抉られるような気持ちになると、思わず大きく吸い込んだ息をしばらく吐くことが出来なかった。
確かにいま幸に言われた事は健斗の心の奥底で意識していたことだ。
間違いなく桜子に断られるのがわかっているのにあのような協力の申し出を敢えて口にしたのも、彼女の事を想っている自分の気持ちに偽りが無い証拠ではあったが、それを表に出すことで自己満足に浸っていなかったかと問われればそれは否定できない。
母親に厳しい指摘をされた健斗が図らずも愕然とした顔をしていると、それを見つめる幸の心はチクチクと痛んだ。
確かにいま幸が言ったことは正論で間違ってはいない。しかしまだ16歳の息子にとっては少し厳しい言い方だったかもしれないし、それによって少なからず彼の心が傷ついたかもしれない。
健斗には父親はいない。
それは彼が生まれる前に幸が夫と離婚をしたからなのだが、その代わり彼女は健斗の父親としての役割も果たさなければいけなかった。
確かにそれは幸の身勝手なのだと言われればそのとおりなのだが、それでも健斗には父親の代わりに厳しい事を言ってくれる大人が必要だと思ったし、今回の厳しい物言いも敢えて彼を諭すべきことを敢えて口にしたのであって、決して彼女が言いたくて言ったわけではないのだ。
「ごめんね。傷ついたよね。でもあんたにはわかってほしかったのよ…… 桜子ちゃんの事が大事なら、別の方法を考えるべきね」
「うん、わかったよ」
まるで何かに打ちのめされた感じを受けながら健斗は自室に戻ると、そのままゴロリと布団の上に寝転がって考え始める。
母親が言うことは正論だし、確かにその通りだと思う。
それに現実問題として自分が小林家のために出来ることも少ないだろうし、ましてや自分たちのために他人に犠牲を強いることを桜子が納得する訳もないのだ。そして彼女たちのことだから、自分たちで出来ることは既に全てやった上での事なのだろう。
今回も自分は彼女を助けることが出来ないのだろうか?
自分はいつも彼女の近くにいるだけで、実は何の役にも立っていないのではないだろうか?
一度そう思い始めると、同じ事を延々と考え続けてしまう健斗だった。
翌日の放課後、桜子はまた絹江が入院する病院に来ていた。
絹江の容態は現状を維持している状態で、あの日以降心臓の発作も起きていなかったので、いますぐにどうこうするようなものではないらしい。
そして楓子が午前中に主治医に聞いた話では、このまま入院していてもあまり意味がないので、あと数日で退院してはどうかということだった。
もちろんこのまま病院に入院していてくれた方が楓子としては安心なのだが、当の絹江本人が家に戻りたがっているのと、患者の回転率を上げたい病院側の思惑もあり日程の調整が終わり次第退院することになった。
「おばあちゃん、退院が決まって良かったね。身体の方は大丈夫?」
「あぁ、桜子や、毎日すまないねぇ。そうさね、やっぱり住み慣れた自分の家のほうが何かと安心するしねぇ」
今日も見舞いに来た桜子に嬉しそうにニコニコと笑いかけながら、絹江が口を開く。その様子は傍から見るととても元気そうで、彼女の心臓がいつ発作を起こしてもおかしくない状態であることを忘れてしまいそうになる。
「そうだね。おばあちゃんはあの家に住んで…… 何年だっけ?」
「うーん、そうさね…… ざっと70年といったところかねぇ。わたしがこの家に来たのは15歳の時で、嫁になったのは20歳の時だったから…… もうそんなに経つかねぇ……」
桜子の質問に答える絹江の目はここではない何処か遠くを見ているようで、懐かしそうに何かを思い出しているようにも見えた。
「おばあちゃんって20歳で結婚したんだ。じゃあ、いまのあたしと4歳しか違わないんだね。なんかすごいなぁ…… やっぱり恋愛結婚なの?」
「あぁ、おじいさんとはそりゃあ燃えるような恋をしたねぇ…… 懐かしいねぇ…… そうだね、あれは終戦直後で何も物がない頃の話でね……」
絹江が自分の昔話をしてくれたことは今までも幾度もあったが、自身の結婚や恋の話などしてくれたことは今まで一度もなかった。それがどうしていま急に話してくれるのかを疑問に思うと、桜子は漠然とした不安を感じたのだが、いまは好奇心の方が強かった。
「わたしとおじいさんが出会ったのは、あの人が25歳でわたしが17歳の時でね…… 戦争で両親を失ったわたしが小林家に拾われて数年経った頃だったよ……」
「そうなんだ……」
「あぁ。戦争が終わって1、2年後だったかねぇ、あの人が戦地からひょっこり帰って来てね。それまで皆あの人はもう死んでいると思っていたから、そりゃあ驚いたさね」
昔を思い出しながらゆっくりと語る絹江の顔には、とても穏やかな笑みが溢れている。その顔を見ているだけで、桜子は幸せな気持ちになった。
「当然わたしはあの人に会ったのは初めてだったんじゃが、なんだかそんな気がしなくて…… いま思えば、あれが運命を感じたっていうのかねぇ……」
「うーん、17歳で運命を感じたんだぁ…… なんだかロマンチックだねぇ」
「という訳で、20歳で結婚したんさね」
「はやっ!! ちょっと話を端折りすぎでしょ!! そこに至るプロセスが一番聞きたいのに」
「……やっぱりこの歳で若い頃の恋の話とか、ちょいと恥ずかしいからねぇ。まぁ、お前になら話してもいいかねぇ……」
それから絹江は、懐かしそうに自分が結婚するまでの話を語り始めたのだが、話しながら時折見せる遠くを見るような目が桜子は少し気になった。しかし好奇心に負けた彼女は、祖母の昔の恋バナに夢中になっていたのだった。
続けて絹江は休むことなく息子の浩司が生まれた時の話や、彼が突然家を飛び出してから数ヶ月後に楓子を連れて帰って来た時の話も懐かしそうに語り続けた。
ゆっくりとした語り口でとどまることなく語る祖母の姿に桜子は何を見たのだろうか、絹江の言葉に時々頷きながら只只管に耳を傾けている。
「桜子や、お前が家に始めて来た時は、それはもう天使が来たかと思ったねぇ…… 可愛かったねぇ。 あぁ、いや、いまも十分可愛いがねぇ、ふふふ……」
絹江が桜子を見つめる瞳には慈愛の情が溢れていて、決して血の繋がらない者に対する眼差しではなかった。
血の繋がる者同士ですら憎しみ合うことも珍しくないこの世知辛い世の中ではむしろ珍しいほどに愛情のこもった眼差しで、そこからはまぎれもなく祖母が孫を愛する姿を見ることが出来た。
「桜子や、お前なら大丈夫さね。確かに今まではちょいと不幸なことも多かったが、これからはきっと上手くいくさね。だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
「お、おばあちゃん、嫌だよ、どうしてそんな、これでお別れみたいな事を言うの? やめてよ……」
まるで今生の別れのような言葉を口にした絹江の顔を見つめながら、桜子がべそをかいていると、絹江はそんな彼女の姿を眺めながらゆっくりと右手を上げて金色の髪を撫で始める。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
それから桜子は祖母が飽きるまでずっと頭を撫でさせていた。
その後絹江は「もう疲れた」と言ってそのまま眠ってしまうと、やがて静かな寝息を立て始める。
桜子は穏やかな笑みを浮かべて眠る祖母の頭を優しく撫でると、その日はそのまま家に帰って行った。
それを最後に、絹江はもう二度と目を覚ますことはなかった。




