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第135話 酒店のこれから

 11月中旬。


 健斗の柔道部の新人戦があった。

 新人戦は今年の春に入部した部員のみが出場できる大会で、1校2名まで参加することが出来る。2名のうちの1名は既に剛史が出場を決めていたので、残りの1名の枠を春から数名で競っていたのだが、この度無事に健斗がその枠を勝ち取ることが出来たのだった。


 生まれ持ったセンスと才能に恵まれる剛史と比べるのも酷な話だが、健斗の柔道も決して弱いわけではない。健斗には色々と思うところがあるようだが、少なくとも昨年の県中男子個人55キロ級優勝者の肩書を持っているのだ。

 しかし既にこの時「有明高校に松原あり」と言われるほどに同期入部の剛史は県内でも有名になっていて、健斗はいつも彼の陰に隠れて目立つ事なく淡々と練習に明け暮れる毎日だった。

 

 春から日々の稽古に明け暮れるだけの毎日で一度も公式戦に出た事の無かった健斗だったが、新人戦では結局3回戦で負けてしまった。

 相手は昨年の全中大会の順々決勝で戦った相手で、その時に健斗に負けたのが余程悔しかったのか、彼の事をしっかりと研究してきていたようだ。健斗の腕力に任せた強引な攻めは全く通じることはなく、序盤から技術的な差を見せつけられた挙句に時間ぎりぎりで一本負けを喫してしまったのだった。


 もちろん健斗はとても悔しがっていたのだが、試合の内容が内容だけに自らの完敗を認めた彼は、次への課題が見つかった事を嬉しそうに応援に来ていた桜子に語っていた。

 その日の夜は桜子が小林家で彼女の手料理を振舞って、健斗の労をねぎらった。


 剛史は最終的に準優勝で大会を終わらせた。

 有明高校の男子60キロ級では初の快挙とも言える結果に部内は盛り上がり、この先の様々な公式戦のメンバーに選ばれる地位を彼はこの時点で揺るぎないものにしているのだった。





 12月中旬。


 桜子の母、楓子の朝は早い。

 朝5時には起きて、家族の朝食と桜子の弁当を作り始める。

 

 以前の朝食は義母の絹江が作っていた。しかしここ最近は彼女の身体の調子が良くないために楓子が作るようになっている。当然桜子も自分の弁当ぐらいは自分が作ると申し出たのだが、楓子は母親としてこのくらいはさせてほしいと言って頑としてきかなかったのだ。


 絹江は1月に浩司が亡くなってから目に見えて気力と体力が衰えていて、6月に楓子が桜子の痴漢事件の対応に追われた時に一人で店を切り盛りした時の無理が祟った結果、8月頃から徐々に寝たり起きたりを繰り返すようになっていた。


 調子の良い時に定期的に病院へも通っていて検査もその都度受けているのだが、どこも悪いところは見つからずに単に加齢による身体の衰えだと言われている。

 確かに84歳という彼女の年齢を考えると無理もないと言えるのだが、やはり息子に先立たれたことによる精神的な落ち込みが尾を引いているのは間違いなかった。



 ある日の朝、目を覚ました楓子が朝の冷え込みに身を震わせながらリビングにやって来ると、既にストーブには火が入っている事に気が付いた。これまでも調子が良い時には時々絹江が早起きして朝食を作ってくれる事があったので、今日もそうなのだろうと楓子が軽く思っていると、キッチンの床に倒れている人影を見つけたのだ。


「お、お義母(かあ)さん!! どうしたの? しっかりして!!」


 慌てて走り寄った楓子が思わず絹江を抱きかかえようとしたが、倒れた人をあまり動かしてはいけない事を思い出した彼女は、倒れた絹江をそのままにしてひとまず救急車を呼ぶ事にした。それから桜子を起こして一緒に絹江に呼びかけたり身体の様子を確認しているうちに救急車が到着したのだった。



 絹江の病名は「心不全」だった。

 幸い発見が早かったのと救急処置が功を奏して絹江は何とか意識を取り戻したのだが、そのまま搬送先の病院に入院することになってしまった。

 楓子はとりあえず酒店を三日間の臨時休業にすることを決めて、絹江の世話をすることにした。


 絹江の容態が落ち着いたので、楓子が一度家に戻って来たところをちょうど高橋喜美治(たかはしきみはる)が訊ねて来た。

 喜美治は小林酒店の三件隣にある「高橋和菓子店」の店主で、亡くなった浩司とは仲の良い飲み友達だった。歳は浩司の二歳年上の現在は62歳だ。

 実は喜美治はちょうど良く訪ねて来た訳ではなく、絹江が倒れたという噂を聞いて楓子が帰って来るのをずっと様子を見ながら待っていたのだった。


「楓子さん、色々と大変だったな。俺たちに手伝えることがあったら、なんでも言ってくれよな」


「いつもすいません…… 正月にも主人の件で助けてもらったばかりなのに……」


 楓子の顔には申し訳なさそうな表情が浮かんでいるのだが、それ以上に疲労の色も濃く出ている。そんな彼女の様子を気にしながら、喜美治は口を開く。


「なぁに、商店街の店同士なんだからお互い様じゃないか。いちいち気にしちゃいけないよ」


「すいません」


「それよりも…… 店はどうするんだい? さすがにあんた一人じゃ……」


「……」


 実は楓子もそれをずっと考えていたのだ。

 以前は絹江も店番をしたり商品の発注をしたりしていたが、ここ数ヵ月はそれすらも出来なくなっていて、楓子がどうしても用事で出掛けなければいけない時などは一時的に店を閉めていたりすることも多かった。

 しかしいくら自由な個人商店だからと言ってもそう頻繁に店を閉めていれば客も離れて行ってしまうし、それでなくても最近は近くに出来た大型スーパーのせいで客足が減っているというのに、さすがにこれ以上は無理な話だ。


 実は小林酒店の収入に占める店頭の売り上げは大した額ではなく、その大半は配達先として契約している居酒屋やスナック、外食店などで占めている。

 1月に浩司が亡くなった時に酒の配達業務が一時的に滞った時期があって、その時に多くの配達先が他の酒屋に乗り換えてしまっていて、今残っているところは同じ商店街の情けで付き合ってくれているところばかりだった。

 

 配達業務自体は拓海が週に三回アルバイトに来てくれているので問題ないのだが、その配達用の商品の仕入れから搬入、配達の準備まではこちらで全てやらなければいけない。それを日中に店を開けながら、尚且つ絹江の見舞いもしながらするのはかなりの無理がある。

 それに桜子にも今以上の負担をかける事は楓子としては絶対に出来なかった。

 

 桜子には浩司が亡くなってからずっと無理をさせていて、そのせいで彼女は普通の女子高生らしい生活を何一つ出来ずにいる。


 そもそも今通っている高校だって、家業の手伝いをするというだけの理由で本来彼女が行けるレベルの学校から4ランクも下げているのだし、部活にも委員会にも所属出来ずに放課後は毎日真っすぐ家に帰って来るだけの生活を文句の一つも言わずに続けている娘の姿を見ていると、たった一度の彼女の青春の時期をこんな事に費やさせていいのかと、楓子は今でも自問自答を繰り返しているのだ。




「……そろそろ潮時かもしれませんね……」 

 

 楓子が寂しそうに呟く。


 彼女の呟きに喜美治は一瞬驚いた顔をしたのだが、冷静に考えると実際にもうこれ以上いまの人員で酒屋を続けるのは無理なんだろうと思っていた。

 

「……それじゃあ、どうするんだい?」


「いまはまだ結論を出せません。義母(はは)の病気の事もあるのでしばらくは店を閉めようと思っていますが、配達だけは今まで通りしていこうかと。それならお客さんへの迷惑も最小限で済みますし、私たちもなんとか食べて行く事くらいはできそうですから……」


「……そうかい。なにか俺たちに出来る事でもあればいいんだがなぁ」


 大型スーパーの進出で既に零細になりつつある商店街の個人商店には、お互いの店に関して出来る事は少ない。もちろん仲間内で助け合おうという気持はあるのだが、実際、自分の店の足元も覚束無(おぼつかな)い昨今、そうそう人の事ばかり気にかけている余裕もないのだった。






「おばあちゃん、具合はどう?」


 楓子が酒屋の店舗を閉めているおかげで、学校帰りに絹江の見舞いに来ることが出来た桜子は、ベッドに横たわる祖母の状態を気にしながら心配そうな眼差しを送っている。


「あぁ、桜子や…… すまんねぇ、こんな頼りないおばあちゃんでごめんねぇ」


 絹江は見舞いに来た桜子の顔をいつもの優しい微笑を浮かべた顔で見つめている。思えば桜子が無意識にいつも顔に微笑みを浮かべているのは絹江の影響なのかもしれない。



「そんな事ないから謝らないで…… あたしたちの事は気にしなくていいから、早く元気になってね」

 

「そうだねぇ、ありがとうよ、桜子や」


 絹江はすでにベッドから起き上がることはできなくなっていたが、意識はしっかりしているし、会話も普通にすることができたので、彼女は祖母を相手に15分ほど取り留めのない会話を楽しんでから家に帰って行った。

 



 その日の夜、夕食が終わった後に桜子がお茶を飲みながらテレビを観ていると、楓子が改まった口調で話しかけて来た。

 

「ねぇ、桜子、いい? 落ち着いて聞いてくれる?」


「……うん、なぁに?」


 楓子は桜子には絹江の病状を簡単に「心臓発作」だと伝えていたのだが、実はそれには桜子には伝えていない続きがあった。

 絹江の病気は確かに心不全を原因とする心臓発作なのだが、原因が加齢のためにそれを治す方法は無いと医者からは言われていて、次に発作が起きた時には恐らく助からないだろうとも言われていたのだ。

 

 初めはその事を桜子には黙っていようと楓子は思ったのだが、浩司の時に同じ事をした結果、桜子が感情を爆発させた事を思い出したのだ。だから今回は全て正直に彼女には伝えようと思っていたし、今の彼女の年齢ならそれを正面から受け止められるだろうととも思っていた。




「……わかった。あたしもそのつもりでいるよ……」


 楓子に全てを聞いた桜子は初めこそ青い顔をして肩を落としていたが、彼女なりに楓子の言葉を受け止める事が出来たようで、なにか覚悟を決めた顔をしている。


「とりあえず、あたしはこれから毎日おばあちゃんのお見舞いに行くね。あたしにはそれぐらいしか出来ないから……」


「そうね。そうしてあげて。でも無理はしないでね、いい?」


 毎日の日課だった放課後の店番から解放された桜子だったが、代わりに絹江の見舞いに毎日行くことになった。

 しかし彼女は祖母の事が大好きだったし、楓子に彼女の正確な病状を聞いた今となっては、明日にはもう祖母に会えなくなるかもしれない恐怖と戦う毎日だった。


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