第130話 たい焼きと嫉妬
桜子が突然激高して走り去った後、5組の教室の中には微妙な空気が漂っていた。
そんな空気を感じながら、教室の中心で居た堪れなくなったクラス委員が皆に向かって声をかける。
「ま、まぁ、ちょっとハプニングはあったけど、練習を再開しようか。はい、振り付け組はこっち、ダンス組はこっちね」
その言葉を切っ掛けにして皆がまた散り始めたのだが、少なくとも今の一幕は誰も何も見ていないという事にするようだ。もっとも後で盛大な尾ひれが付いた噂話になって、明日には学校中に広まっているのは間違いないのだが。
皆が移動を始めたのを尻目に健斗が肩を落として覇気のない顔をしていると、数人の友人がそんな彼の肩をポンポンと叩いていく。そしてその後姿をべそをかいたような顔の彩葉が見つめていた。
「……木村君、小林さんを追いかけなくてもいいの? 私なら大丈夫だから気にしなくていいんだよ」
「あっ、あぁ…… そうだな、ごめん、今日の練習はこれで終わりにしよう。俺は桜子を追いかけてみるよ」
「……うん、そうして……」
それから健斗は荷物をまとめると桜子の教室に向かったのだが、僅かの差で彼女は帰った後だった。
結局その日は仕方なくそのまま部活の練習に顔を出したのだが、まさか喧嘩をした彼女に会いに行きたいから休ませてくれとも言えずに、普段通りに練習を始めた。
しかし、練習にもずっと身が入らずにいる彼のぼんやりとした様子は、剛史から真面目にやれと怒鳴られるほどだったし、その後も一向に気の抜けた態度が改善しなかった健斗は、顧問の木下にも今日はもう練習をあがるように言われてしまったのだった。
いつもより一時間ほど早く家に帰ることになった健斗は、途中で小林酒店に寄ってみる事にした。
そうでなくても毎日のように彼は帰りに桜子の家に寄っているのだが、今日は昼間に桜子と最悪の形で別れたので、酒店に向かう彼の足取りは重かった。
電車の駅から桜子の家までの道を歩きながら、健斗は昼間の出来事をずっと考えている。
やはりあの時の、まるで八つ当たりのような自分の感情に任せた物言いが彼女の神経を逆なでしたのは間違いないのだろう。
確かに今思うとあの言い方はなかったと思うのだが、それにしても自分にだって言いたい事もあれば、譲れない事だってあるのだ。
どちらにせよ、桜子がみんなの前で声を荒げるほどに感情を害したのは事実なので、これから少し彼女と話をしてみようと思うのだ。それに今日はいつもより早く帰ることができたので、彼女の仕事が忙しくない限り、話をする時間は少し多く取れそうだった。
学校で突然感情が爆発してから家に帰って来るまで、ずっと桜子は健斗に対して腹を立てていて、その行き場のない怒りを発散させるように、駅前広場の屋台でたい焼きを爆買いして、家に着くなり爆食いを始めた。
あと二時間もすれば夕食だと言うのに、そんな事にはお構いなしにムシャムシャとたい焼きを頬張る娘の姿に楓子は若干呆れていたのだが、母親として一応彼女に理由を聞いてみる事にした。
「……健斗ったら酷いんだよ。お前もその男子とよろしくすればいい、なんて言うんだよ!! ほんと、あったまきちゃう!!」
「……」
珍しく感情を露にしている娘の姿に初めは何事かと思ったのだが、聞いてみれば何の事は無い、ただの恋人同士の痴話喧嘩だった。それも詳しく聞いていると、二人ともお互いに少しずつボタンをかけ違えたような典型的なすれ違いのようなもので、そんな青春時代を遠い過去に置いて来た楓子からすると、むしろ微笑ましいとさえ言えるものだった。
「それにね、今日のあたしはなんか変なの。いつもならすぐに落ち着くのに、今日はまだ腹が立っていて…… 健斗の事が許せなくて……」
桜子の最後の方の言葉は小さすぎて楓子には上手く聞き取れなかったのだが、母親は娘の言いたい事をすぐに汲み取ると、顔に優しい微笑を浮かべながら諭すように語り掛ける。
「あのね、それは『嫉妬』なのよ。あなたは健斗君がダンスの相手と仲良くしているのを見て、嫉妬しているのよ」
「嫉妬……」
「そう、嫉妬よ。もしかして初めての経験かしら? まぁ、健斗君が女の子にモテてしょうがないとか聞いた事がないからね」
「そ、そんなことない、彼は優しくて思い遣りがあって素敵だから……」
「ほら、散々文句を言っていたけど、ちゃんと彼の事が好きなんじゃない。だから今はその気持ちを大切にしなさい」
「……」
「まぁ、喧嘩するほど仲が良いって言うじゃない? それはそこまでお互いに心を許しているという証拠なのよ。それにあなたも彼もまだ未熟なんだから、ちょっとしたすれ違いとか勘違いだって普通にあるわよ。そこはあなたのこの大きな心で包み込んであげなさいな」
そう言うと楓子は桜子の大きな胸をぷにゅんと指で突いていったのだが、去り際に指をクルクルと回しながら「うーん、それにしても本当に大きいわよねぇ……」などと呟いていた。
「嫉妬……」
桜子は自身の胸に手を当てると、何かを考え込むように目を閉じた。
桜子がたい焼きの食べ過ぎに胸やけを覚えていると、そろそろ店番の交代の時間になった。
彼女は一階の店舗に下りて行くとカウンターの前に腰を下ろして店番を始めたのだが、すっかり客足の減った店内を一瞥すると、頬杖をついて天井を見上げ始める。その可愛らしい小さな口は半開きになっていて、何やら呆けたような顔をしていた。
しばらく彼女が胸やけを我慢しながら客の相手をしていると、19時を過ぎたあたりから店内はすっかり無人となった。仕事にもやる気が出ない桜子がカウンターの前でまた頬杖をついて口を半開きにしていると、店の自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ……」
「よ、よぅ……」
桜子が来客に挨拶をしようと顔を上げると、正面のドアから入って来たのは他でもない木村健斗だった。
彼は右手を上げながら、何やらバツの悪そうな顔をして入り口から入って来ると、キョロキョロと店内を見回してから桜子のいるカウンターの方へと近づいて来る。
「健斗……」
桜子も彼と同じようにバツの悪い顔をしながら健斗の顔を見つめていたのだが、同時に先ほどの母親の言葉を思い出していた。
『今は彼の事が好きだと言う気持を大切にしなさい』
「桜子、仕事お疲れさま」
「……どうしたの? 今日は早いんだね」
「あぁ、今日は早くあがったからな」
「とりあえず、こっちに座ってくれる? お客さんが来るかもしれないし」
健斗は桜子が座っているカウンターの前に立ち止まると徐にそこで口を開き始めたのだが、場所がレジカウンターの正面だったので、桜子に促されて横にある椅子に腰を下ろした。
「あぁ、すまない」
「……」
健斗が座った椅子は桜子がいるカウンターと同様に正面の入り口の方を向いているので、ちょうど二人は並んで同じ方向を向いた状態になっている。しかし、未だに気まずい状態が続いている二人は、正面からお互いの顔を見なくて済んだことに少しだけホッとしていた。
「さっきの事なんだけど…… 酷い事を言ってすまなかった。謝るよ、ごめん」
「……あたしの方こそ、思わずカッとしてしまって…… ごめんなさい」
二人は正面を向いたまま、お互いの顔を見ずに話し続ける。
ちょっと顔を横に向けるだけで相手の顔を見る事が出来るのに、それが出来ない二人の間には大きな蟠りがある事を表していた。
それからしばらくの間、彼らは今回のダンスのペアの事、健斗に報告に行ったけど言えなかった事、桜子が帰りに相手の男子生徒と一緒に帰ったのを見た事などをお互いに話し合った。
途中で何度か店に来客があって、会話が中断された事もむしろ二人にとっては良かったのかもしれない。ちょうど相手の話を冷静に受け止めるために頭を冷やすことができたからだ。
そして二人の話が終わりそうになった頃には、横を向いてお互いの顔を正面から見るようになっていた。
「でもさ、どうしてもこれだけは言いたくて」
「なに?」
「俺はべつに森川さんと特別仲良くしている訳じゃないから。彼女が誰からもペアの声をかけられなくて寂しそうだったから…… それ以外に理由はないよ」
「そう…… 健斗は優しいからね」
「べつに優しくなんてないよ。今もお前を困らせているしな」
「ううん、健斗はやさしいよ。でもその優しさは……あたしだけのもの?」
「……そうだな、きっとそうだと思うよ」
「ありがとう…… ふふふ、冗談だよ。……ごめんね、あたし嫉妬してたの」
「嫉妬?」
「そう、嫉妬。健斗とあの女の子が楽しそうに踊っているのを見て、こう、胸の中がギュッとなって……」
桜子が自分の胸に手をギュウと強く押し当てる様子を、健斗は顔を横に向けて眺めている。その視線は彼女の顔と豊満な胸を行き来している。
「この気持ちが嫉妬なんだね。あたしは初めてだったけど、健斗はいつもこんな気持ちを味わっているんだね……」
「いや、俺は……」
「ごめんね、いつもこんな気持ちにさせて…… ごめんね…… 嫌だよね、辛いよね……」
桜子は胸に手を押し当てたまま顔を歪めて涙を流し始めると、健斗は困ったような顔をしながらポケットから取り出したハンカチを桜子に手渡した。
それからしばらく、彼女は小さく肩を震わせながら泣いていたのだが、健斗が隣に身体を寄せて彼女の金色の髪を撫で始めると、その肩の震えは少しずつ小さくなっていった。
「だからあたしも気をつけるよ。健斗にはいつも言われているのにね…… 警戒心が足りないって……」
「……わかってくれればそれでいいよ」
「うん、ありがとう」
「……正直に言うけど、俺はしょっちゅう嫉妬してるよ。お前を誰かに取られるんじゃないかって思うと気が気じゃなくてさ」
「本当にごめんね。いつもこんな気持ちを味わうなんて、あたしだったらきっと耐えられないよ」
「まぁ、俺はもう慣れたけどな」
そう言って笑う健斗の顔は、少し晴れやかになっていた。
それから少しの間、二人はここ数日できなかった取り留めのない会話を楽しんでいると、そろそろ健斗が帰る時間になった。帰ろうとした健斗が立ち上がって鞄を手に取ると、彼は急に思い出したように鞄から何かを取り出して桜子に手渡そうとする。
それはガサガサと音がする紙袋のようで、その茶色い色と形は桜子がどこかで見た事があるものだった。
「ごめん、忘れてた。はいお土産、あとで食べてよ。駅前で見たら美味しそうだったから」
「あ、ありがとう…… ありがたく頂くね」
「それじゃあ、また明日」
店の前まで出て健斗を見送った桜子は、彼に手渡された紙袋を恐る恐る覗き込む。
するとその中には、どこかで見た事のあるたい焼きが入っていた。




