第128話 彼のだんまりと彼女の怒り
翌日の放課後から本格的にダンスの練習が始まった。
まずはDVDを見て振り付けを憶えてから実際に踊ってみて、それをそれぞれのペアと一緒に練習しながら最後に全体練習をする。そんな練習の進め方をする予定だ。
今日はまだ初日なので、皆それぞれに見様見真似で振り付けを憶えているところで、時々笑い声を上げながらワイワイと楽しそうにしている。
「なぁ、小林さん、ちょっと木村くんの所に行って一言挨拶をしてきたいんだけど……」
ダンスの振り付けを練習しながら智樹が桜子に声をかけた。
一時的にとは言え、彼としては人の恋人を借りているようなものなので、彼氏である健斗に一言断っておこうと思ったようだ。
しかし、実を言うと昨日の放課後に健斗のもとに挨拶に訪れた桜子が、既にそれを言おうとしていたのだが、その時の健斗はクラスメイトの女子と何やら取り込み中だったし、帰りの電車の時間も迫っていたこともあって何も言わずにそのまま帰ってしまったのだ。
「うん、そうだね。健斗にも言っておいたほうがいいよね。あたしも一緒に行くよ」
桜子と付き合うようになってから健斗は少々嫉妬深くなってしまったようで、それ以来桜子は度々彼から注意を受ける事があった。
桜子の昔からの悪癖で『無意識に異性との距離が近い』というものがあるのだが、それのせいで過去に色々と問題を起こしたことがあって、いまでは彼女なりに気をつけるようになっている。
たとえ無意識でも桜子が異性と近い距離にいるのが健斗には気に入らないらしく、彼女のそんな姿を見ると健斗は途端に不機嫌になってしまうのだ。
だから今回も事前に彼には言っておかないと不味いだろうと桜子は思っていた。
桜子と智樹が1年5組の教室の入り口から中を覗き込むと、中では3組と同じように皆でダンスの振り付けを練習している。
机と椅子を教室の後ろに下げて、空いた場所でそれぞれがお互いのペアと一緒に楽しそうに動き回っていて、その中には健斗の姿もあった。
「き、木村くん、ちょっと足を踏みそうでしょ、きゃあ!!」
「ごめん、ごめん森川さん。気をつけるよ、あははは」
「木村君って意外と不器用なんだね、うふふふ」
皆の中に混ざって振り付けを練習する健斗の姿を桜子はすぐに見つけたのだが、彼は横にいる細身の女子ととても楽しそうにしている。見たところ彼女は健斗のダンスのペアなのだろうが、彼を見つめる彼女の眼差しからは、何か特別な感情が含まれているのが桜子にはすぐにわかった。
その視線に気付いているのかいないのか、健斗はその視線を正面から受け止めて楽しそうにしている。
「……菊池君、行こう……」
「あっ、声をかけなくていいの? あっ、小林さん?」
そんな健斗の姿を見た桜子は、すぐにクルリと身を翻すとそのままその場を立ち去った。そんな彼女の後ろ姿を智樹は慌てて追いかけた。
それからの桜子は、智樹の目から見ても何やら沈み込んでいるように見えて、その顔にはいつもの溢れるような笑顔は全く見られなかった。彼女のその変化を智樹なりに色々と考えていたのだが、やはり彼氏が他の女子と楽しそうにしているのが面白くなかったのだろうか。
「小林さん、大丈夫? 気が進まないのなら、今日の練習はこれで終わりにしようか?」
沈み込んでいる桜子を彼なりに慰めようと気を遣ったのだが、これと言って気の利いた言葉をかけることができずにいた。それでも智樹は桜子の気を紛らわそうと一生懸命になっている。
そんな誠実な彼の姿を見ていた桜子は、こんな事ではいけないと思い直してニコリと顔に笑顔を戻すと、智樹の手を引いて教室の中央に歩いていく。
「ごめんね、ありがとう。もう大丈夫だから。さぁ頑張って、さっき憶えた振り付けをもう一度復習しようか!!」
空元気を絞り出すようにそう言うと、桜子は未だ少し固いままの笑顔を振り撒きながら、智樹の手を握ってクルクルとその場で回り出す。急に彼女に手を握られた智樹は、初めは驚いた顔をしていたが、桜子が上手に踊り始めると彼も負けじと一緒になって踊り始めた。
「はぁ、はぁ、はぁ、いやぁ、久しぶりに体を動かしたから息がきれちゃったよ。菊池君も疲れたんじゃない?」
「ふぅー、いやぁ、本当にこんなに体を動かしたのなんていつぶりだろう…… 息が切れるよ……」
智樹も桜子も両肩で大きく息をしながら呼吸を整えていて、二人の顔には何か清々しい笑顔が溢れている。
結局あれから30分程練習をして、ちょうど二人の息が上がったところで今日のレッスンは終了した。
桜子は母親に、体育祭の準備期間中はいつもより遅い時間に帰らせてもらうようにお願いをすると、楓子は「店番などしなくてもいいから、学校生活を楽しみなさい」と言ってくれた。それでも桜子は夕方の一時は店が忙しくなるのがわかっているので、夕方の6時までには家に帰ろうと思っていた。
「あっ、もうこんな時間、急いで帰らなくきゃ」
呼吸を整え終わった桜子が時計を見て慌てていると、その姿を見た智樹はある事を思い出していた。
いつも不思議に思っていたのだが、桜子は部活にも委員会にも一切入らずに、放課後はいつも急いで家に帰ってしまう。帰る途中に五組の彼氏に帰りの挨拶をしに行っているようなのだが、それも短時間で済ませるとすぐに駅へと走って行ってしまうのだ。
何か家庭の事情らしいとは聞いているのだが、詳しい事は智樹にはわからなかった。
そんな彼女がまた時計を気にしている様子を見た智樹は、考えるよりも早く言葉が口を突いて出ていた。
「小林さんの家って、確かS町だったよね? 俺はT町だから途中まで送るよ」
「えっ? いいの? ありがとう、助かるよ。この時間の電車は結構混むからね。ちょっと心配だったんだ」
智樹の申し出を快く了承した桜子を見つめながら、彼はまた思い出していた。
数か月前に桜子は学校からの帰りの電車の中で痴漢に遭ったのだ。それも逮捕された犯人が実刑を食らうほどの大きな事件だったので、そんな経験をした彼女はきっと混み合う電車に一人で乗るのは嫌なのだろう。だから自分の提案を素直に聞き入れてくれたのだ。
人並外れた美貌の持ち主の彼女だが、彼女は彼女なりに色々と悩みがあるようだ。
こんな遅い時間まで彼女が残ったのは自分のせいなのだから、途中まででも彼女を送るのが自分の責任なのだ、などと智樹が使命感に燃えていると、桜子がさっさと帰り支度を始めたので、智樹も慌ててカバンに荷物を詰め込み始めた。
小走りの桜子の歩調に合わせるのに智樹が夢中になっていると、いつの間にか下駄箱の所まで来ていることに気がついた。放課後には彼女は必ず彼氏に帰りの挨拶をしていることを知っている智樹は少し疑問に思ったのだが、そう深く考えることもなく、たまにはそういう日もあるのかという程度の認識だった。
「小林さんは、放課後はいつもすぐに帰ってしまうけど、何か用事があるの?」
「うん、あたしの家は自営業なんだけど、夕方は人が足りないからあたしが手伝ってるんだよ」
「そうだったんだ…… それじゃあ、部活もできないんだね」
「まぁ、しょうがないよ。そのためにこの高校を選んだんだし……」
「えっ? どういう意味?」
「……ううん、なんでもないよ」
校門から鉄道の駅に向かって歩きながら話をしている二人の姿を、後ろから見つめる一つの影があった。
その影は遠ざかる二人の背中をしばらく見送った後、丸めた柔道着を背中に担いで武道場の方へと歩いて行った。
その日の夜、パジャマに着替えながら桜子は今日の放課後の事を後悔していた。
本当はダンスのペアが決まった事を健斗に報告するつもりだったのだが、五組の教室を覗きに行くと彼は同級生の女の子とダンスの練習をしていて、二人の顔にはとても楽しそうな笑顔が溢れていた。そんな仲の良さそうな彼らの様子を見ていると、思わず桜子はそこに割って入る事を躊躇ってしまったのだ。
普段は無口で不愛想な健斗だが、彼はとても優しい性格をしている。だから、きっとあの女の子がダンスの相手がいなくて困っていたところを彼が声をかけたのだろう。
しかし、健斗の顔を見つめて笑う彼女の眼差しには、何か特別なものが含まれているように桜子には見えて、彼もその視線を正面から受け止めているように見えた。
その場面を見てしまった桜子の胸に何か急にモヤモヤしたものが溢れてきて、彼らの姿をそれ以上見ていられなくなった。そして彼に声をかけることなく逃げるようにその場を立ち去ってしまったのだ。
その後に練習が終わって帰る時も、電車の時間が迫っている事を言い訳にして、結局健斗には会わずに帰って来てしまった。
あれから健斗へ連絡はしていないし、彼からも来ていない。
携帯のSNSを使えば簡単に連絡が取れるはずなのに、何故か桜子は健斗に連絡をすることができないでいる。自分でも何故だかわからないのだが、どうしてもその気になれないのだ。
桜子は放課後の事をしばらく悶々と考えていたのだが、なんだかとても疲れてしまった彼女は、結局そのままベッドに入ると眠ってしまった。
「なぁ、小林さん、やっぱり木村君に一言挨拶した方がよくないか?」
翌日の放課後、どうしても健斗の事が気になる智樹が桜子に促すように声をかけた。
智樹としてはべつに健斗の事が怖いとか、やられるとか思っている訳ではないのだが、一時的にとは言え、やはり人の恋人を借りるのだから一言断りを入れておきたかったのだ。
「……そうだね、やっぱり一言言っておいた方がいいよね…… 一緒に行こう」
すでに昨日の事を後悔していた桜子は智樹の申し出に素直に従うと、一緒に五組の教室までやって来て入り口から教室の中を覗き込む。
すると中には、昨日と同じ女の子とダンスの練習をしている健斗の姿があった。
「忙しいところごめんね。健斗に少し話があって……」
昨日とは違い、今日の桜子は踊る二人の間に割って入ったのだが、その顔には複雑な表情が浮かんでいていつもの微笑は見られない。そして二人に向かって近付きながら、上目遣いに健斗の顔を見ている。
「ごめんね。本当は昨日言おうと思ったんだけど、二人が忙しそうだったから……」
「なんだよ、早く用件を言えよ」
バツが悪そうに話しかけて来る桜子の言葉を、途中で遮るように健斗が口を開いた。
その顔には明らかに不機嫌な表情が浮かんでいる。練習を途中で遮られたことがそんなに面白くなかったのだろうか。
いずれにしても、健斗のその言葉に驚いた桜子は全身を硬直させている。
「俺はこの森川さんとペアを組んだから。お前もその男子とよろしくすればいいだろ」
「えっ、あっ、け、健斗…… 何か怒ってるの……? どうしたの……?」
健斗の態度に明らかに動揺した桜子が、彼の真意を探ろうと色々と声をかけているのだが、健斗は得意のだんまりを決め込むとそれ以上口を開こうとはしない。そんな二人の様子を智樹と彩葉が少し距離を置いて気まずそうな顔で見ているのだが、健斗も桜子もそんな二人の事はすっかり忘れているようだ。
「ねぇ、健斗お願い、何か話してよ。言ってくれないとわからないよ……」
「……」
「もしかして、ダンスの相手の事をすぐに言いに来なかったから怒ってるの……?」
「……」
「ねぇってば、何か言ってよ…… ねぇ…… ぐすっ…… ひっく……」
健斗のだんまりに、遂に桜子が泣き出してしまう。
周りには智樹も彩葉も、そして五組の生徒達もいることにもお構いなしに桜子はその可愛らしい顔を歪めて涙を流し始める。そして周りの生徒達も気まずそうに遠巻きにして二人を囲んでいた。
桜子の必死の訴えにもだんまりを決め込んでいた健斗だったが、さすがに彼女の涙を見るとその顔に動揺の色が見えて、重い口を開いた。
「……お前、昨日あいつと一緒に帰ったんだろ? 仲良さそうにしてさ。俺はずっと待ってたのに……」
「えっ……? ぐすっ…… ひっく……」
健斗の言葉を聞いて、桜子は彼が怒っている理由をようやく理解した。
彼は昨日の夕方に、自分が健斗に帰りの挨拶をせずに智樹と一緒に帰ったのを知っているのだ。
健斗は自分が会いに来るのをずっと待っていた。
彼はダンスの練習の後は部活に行くと言っていたので、きっと部活にも行かずにずっと自分の事を待っていたのに違いない。
……しかしそれが何だと言うのか。
彼だって自分にダンスのペアが決まった事を言いに来なかったし、それにあの仲が良さそうに踊る姿…… 楽しそうに笑う声…… それを思い出すと今でも胸の中に何かモヤモヤとしたものが生まれて来るのだ。
そしてあの、彼女を見る優しそうな顔…… それを見つめ返す彼女の特別な眼差し……
どうして自分ばかり責められなければいけないのか。
そう思った桜子の口からは、その時彼女の心にあった想いがそのまま出てしまった。
「なによ、健斗だってあたしに黙って女の子と踊っていたじゃない!! あんなに鼻の下を伸ばして!! 昨日の夜も電話の一つだってしてこなかったくせに!!」
「なっ!? さ、桜子、おい……」
「どうしていつもあたしばっかり!? 健斗だって勝手じゃない!!」
「お、おい、桜子、落ち着け」
「勝手にすればいいんだよ!! もう健斗なんて知らない!!」
ポロポロと大粒の涙を流しながら突然激高した桜子は、一頻り喚き散らすと身を翻してそのまま走り去って行った。
その後姿を健斗は呆然とした顔で見送っていた。




