第127話 それぞれのペア
もう一人の新キャラ登場です。
健斗の同級生の女子です。
「うん、いいよ」
菊池智樹が体育祭のダンスのペアを桜子に申し込むと、彼女は何の迷いもなく即答した。その顔にはひとつも躊躇や戸惑いを見る事が出来なかったので、智樹には彼女が冗談を言っているのではない事がわかった。
しかし、気持ちがいいほどに即断即決した桜子の姿を見つめながら、智樹はむしろ気後れしていた。
桜子とダンスのペアになるという事は、これから体育祭までの二週間、ずっと彼女と一緒にダンスの練習をするのだ。しかも思わず尻込みしてしまうほどの美少女と、至近距離でその手を取りながらだ。
そして、その相手は他でもないこんな地味で陰キャな自分であって、そのあまりにも現実離れした光景を想像した智樹は、思わず「ありえねー」と小さく呟いてしまう。
しかし桜子はそんな彼の様子に気付く事なく、逆に自分に声をかけてくれた事にお礼を言うと、ニコニコと笑いながら智樹の顔を見つめている。
「……ど、どういたしまして……」
いまの智樹には、そう言うのが精一杯だった。
桜子は智樹と明日の放課後からの練習を約束すると、その日はそのまま帰って行った。
長めのスカートを翻して「また明日ね、バイバイ!!」と言って去って行く彼女の後姿を見つめながら、智樹はこれからの二週間を思うと小さな溜息を吐いたのだった。
桜子はクラスの人気者だ。
彼女は男子、女子に関係なくクラスの全員に好かれていて、ふと見ると、周りにはいつも誰かがいる。そして彼女も男女分け隔てなくにこやかに会話をして、周り中に天使の笑顔を振り撒いていた。
桜子に彼氏がいる事は周知の事実なので、彼女を遊びに誘ったりプライベートに深く踏み込むような者は、同じクラスの男子に限っては誰もいないのだが、別のクラスの男子や上級生の中には時々桜子に声をかけてくる者もいる。
そんな時でも、桜子がやんわりと断るだけで大抵はおとなしく引き下がるのだが、中にはしつこく付きまとう者もいて最近の桜子を悩ませていた。
「お、おまえ、マジかよ…… マジでやりやがった…… あの小林とペアなんて……」
走り去っていく桜子の姿を呆然とした顔で眺めていた智樹だったが、突然背後から声をかけられて振り向くと、そこには彼と同じように呆然とした顔の水谷が立ち尽くしている。
「……あ、あぁ…… 俺も信じられない…… 絶対に断られると思ってたしな……」
桜子が走り去って行った廊下の先をいつまでも見つめながら、何事もやる前から諦めてはいけないというのは本当の事だったのだなと、しみじみと思っていた。
その頃1年5組の教室では、帰り支度をしている健斗の後ろ姿を、同級生の森川彩葉が見つめていた。
彼女は図書委員に所属するとても大人しい性格の女の子で、身長は155センチ、痩せ型の体に長く伸ばした黒い髪を背中で三つ編みにしている。一目見た印象は所謂「文学少女」そのもので、彼女が図書委員だと聞くと誰もが納得するのだった。
昨日のホームルームで、二日以内に体育祭のダンスの相手を決めるようにとクラス委員から告げられたのだが、彩葉には同じクラスにそんな事を頼めるような男友達はいなかったし、彼女に声をかけてくる男子もいなかった。
次々と決まっていく男女のペアを尻目に彼女は少し寂しい思いをしていたのだが、ふと見ると未だにペアが決まらない者の中に彩葉が気になる男子がいた。
それは木村健斗だった。
春に高校に入学してからも健斗は相変わらず無口で無愛想なままなのだが、不思議と何故か女子受けは悪くなかった。特におとなしい性格の女子からの評判が良くて、逆に遊び慣れているような者にはそれほどでもないようだ。
健斗は無口で無愛想なので第一印象はあまり良くないし、そのつっけんどんな話し方は人から誤解を生みやすいのだが、だからと言ってべつにおかしな人物ではなく、むしろ至って常識人だった。かなりの頑固者なのを別にすると、基本的に彼は優しくて思いやりのある性格をしている。
意外と女子に人気のある健斗なのだが、もちろん彼があの小林桜子の彼氏であることは皆知っているので、意図的に深入りしようとする女子はいなかった。それでも教室では女子によく話しかけられているし、彼もそれにはにこやかに対応していた。
そんな彼の事を密かに気になっている女子の一人が彩葉だった。
彼女が入学した当初は健斗の席の隣に座っていたのだが、ある日の昼休みにまだ誰も友達ができていなかった彼女が一人で弁当を食べていると、健斗が一緒に食べようと誘ってくれた。するとそれを切っ掛けにして元々健斗の友達になっていた数人とも話すようになって、今では彼らと友人になっている。
彼女のいままでの経験の中で、男子にそこまで気を遣われたり優しくされた事が無かった彩葉は、それ以来健斗の事を密かに気にするようになっていたのだ。
「あ、あの、木村君……」
部活へ行く準備も終わって、あとは桜子が帰りの挨拶に来るのを待つだけになっていた健斗の横から、急に話しかけて来る女子がいた。
「あ、あぁ、森川さんか。どうしたんだ?」
相変わらず言葉の少ない健斗の返事を聞くと彩葉は用件を言う為に口を開いたのだが、緊張のためにすぐに次の言葉が出て来なかった。健斗はそんな彼女の様子を不思議そうな顔で見つめると、次に薄く微笑を浮かべながら彼女の次の言葉を促した。
「どうした? 何か話があるんじゃないのか? 聞いてあげるから言いなよ」
健斗の言葉は相変わらず短いのだが、彩葉は彼が優しく促してくれている事をわかっていた。
「あ、あのね、今度の体育祭のダンスのペアなんだけど、木村君はもう決まった人がいるの?」
その言葉を聞いた健斗は、彼女が自分に話しかけて来た理由にピンときた。
「いや、まだ誰にも誘われてないし、俺もまだ決めてないけど。森川さんは?」
「ううん、私もまだ……」
「そうか、なら良かった。もし良ければ、俺のペアになってくれないか?」
「えっ……!! い、いいの?」
彩葉はありったけの勇気を絞り出して健斗に話しかけたのだが、気が付くとあっさりと自分の希望が叶えられていた事に拍子抜けしてしまった。
「うん、森川さんが相手なら気兼ねなく練習ができそうだし。どう? 頼めるかな?」
「も、もちろん、喜んで」
自分からダンスの相手を申し込むつもりが、気付くと逆に申し込まれていた事に彩葉が少し混乱しそうになっていると、教室の入り口から中を覗き込む金髪の少女の姿が見えた。その姿に彩葉が振り向くよりも早く、健斗が声をあげた。
「あっ、ごめん桜子、いま行くよ」
「ううん、いいよ。なんだか取り込み中みたいだし、それに電車の時間が迫っているからもう行かなくちゃ」
「ごめん、明日は話ができると思うから。気を付けて帰れよ」
「うん、じゃあまた明日ね。バイバイ!!」
話だけではなく本当に電車の時間が迫っていた桜子は、彩葉に向かって会釈をすると、慌てたように踵を返してそのまま走って行ってしまった。
そんな金髪美少女の姿を見送りながら、彩葉は健斗に問いかける。
「あの…… 私とダンスの練習をすることを、小林さんにも言っておいた方がいいよね。……ごめんなさい、私が木村君の近くにいると、きっと彼女もいい気がしないよね」
毎日放課後は桜子が健斗に帰りの挨拶をしに来ている事を彩葉も知っていたのだが、今日は自分のせいでそれを邪魔してしまった。それでなくても二人が学校で一緒にいる時間は少ないのに、その貴重な時間を奪ってしまった事に彩葉は罪悪感を感じていたのだ。
「大丈夫だよ。あいつはそんな心の狭いヤツじゃないし、それにダンスのペアは自分のクラスからしか選べないんだから仕方ないよ」
なにやら気弱な顔をして自分に謝って来る彩葉の様子が気になった健斗は、彼女を励ますように明るく笑いかけた。
智樹が桜子にダンスの相手を申し込んだ翌日、再びホームルームで体育祭の打ち合わせが行われたのだが、桜子のクラスではそこで一波乱あったようだ。
「はい、まだダンスのペアが決まっていない人はこっちに集まって。これからくじ引きをするよ」
学級委員の掛け声で教室内の約半分の人間が黒板の方へ移動したのだが、その場に留まったままの桜子を見た美優が大きな声をあげた。
「あれぇ? 桜子ってもうペア決まってるの? うそぉ、いつの間に? ねぇ、だれだれ?」
その声を聞いた瞬間、智樹の肩がビクリと小さく震えている。
次の瞬間、絶対に教室中の視線が自分に集まって来るのを確信した彼は、さりげなく人影に隠れようと後退っていたのだが、そんな事にはお構いなしに、桜子はその可愛らしい顔に天使のような微笑みを浮かべながら、呑気にその質問に即答した。
「うん、菊池君だよ」
その瞬間、コソコソと教室の後ろに隠れようとしていた智樹に教室中の視線が集中する。
まるでモーゼの『十戒』のラストシーンのように生徒達が左右に割れると、その奥に青い顔をした智樹の姿があった。彼は床に付くのではないかと思える程にその身を低くしている。
全員の視線が集中した事に気付いた智樹はゆっくりと振り向きながら、覚悟をしたような顔をしてゴクリと唾を飲み込むと、一言だけ口を開いた。
「ど、どうも……」
「どうもじゃねぇよ、この野郎!! 抜け駆けしやがって!!」
智樹はクラス中の男子から非難の声を浴びる事になったのだった。
実は桜子をダンスのペアに誘う事は、クラスの男子達の間では自重することになっていた。
それは暗黙の了解のもとに作られた紳士協定で、もしもそれを守らなければ桜子にペアの申し込みが殺到することは目に見えていたし、それによって彼女を困らせる事になってしまうからだ。
もちろん智樹もそれは知っていたし、自らその協定を破ろうなどとは思ってもいなかった。それでも彼が桜子に声をかけたのは、水谷との勝負に負けた罰ゲームなので仕方がなかったのと、絶対に速攻で断られると確信していたからだ。
実は男子達が桜子に声をかけなかったのには、もう一つの大きな理由がある。それは彼女の恋人の健斗の事を皆が気にしていたからだ。
健斗自身にそんなつもりは全くないのだが、昨年の県中柔道大会のチャンピオンで、今も強豪と言われる柔道部の現役部員である彼を怒らせると大変な事になるという噂が独り歩きしていたのだ。
そんな訳で、桜子のダンスの相手は本当に早い者勝ちで決まったのだが、智樹はそれからしばらくの間、男子たちの視線がとても痛かった。
そして最後にくじ引きでペアを決めた水谷は、女子よりも男子のほうが若干人数が多い関係で、最後に残った男子と男同士でペアを組むはめになってしまった。しかも女子役をさせられるという悲惨な運命を辿ることになったのだった。




