第119話 PTSDと心理療法
6月下旬。
一学期の定期試験の結果が発表されると、桜子は学年中の注目を集めていた。
もちろん彼女は、もともとその容姿で学校中の注目を集めているのだが、今回は定期試験全科目満点と言う前人未到、前代未聞、古今未曾有の大記録を打ち立てたのだった。
これには各教科の担当教師も驚いたのだが、それに反して彼女のクラス担任はそれほどでもなかった。
担任教師は桜子の家庭の事情も、この学校に入学してきた経緯も全て知っていて、彼女の学力も正確に把握していた。そしてこのまま順調に彼女の学力を伸ばしていければ、この学校からの初の有名国立大学合格者にできるかもしれないと密かに思っていたのだ。
教師たちの入学当初の彼女に対する印象は、今まで見た事がないほど可愛らしい白人美少女(しかも巨乳)だという以上のものではなく、その一見緩くてふんわりとした(しかも巨乳)印象から、頭の中もそのまま緩くてふんわりなのだろうというものだった。
担任教師は、桜子が入学してすぐに彼女の入学試験の成績を見たのだが、それは地域最難関の北高校でさえ上位で合格できるほどの点数だったことに驚くと同時に、なぜ彼女がこの学校にいるのかを不思議に思った。
ほどなく桜子から部活や委員会に所属できない理由と家庭の事情を説明されたのだが、その時に担任は納得したのだった。
ただ一つ気になった事は、桜子が中学から付き合っている恋人が一緒にこの学校に入学して来たことで、それは偶然と言うには些か出来過ぎた話だったので、担任としてもまさかとは思っていた。
さすがに彼を追いかける為に高校を4ランクも下げるのは現実的にはあり得ないし、彼女の母親もそんな事はさせないと思うので、今ではあくまでも家庭の事情という事で納得している。
桜子の評判は教師達の間でもとても良く、もちろんそれは外見の話ではなく生徒としての話だ。
この学校は進学校ではないので、生徒たちの授業態度はあまり良いものではない。実際、授業中に居眠りする者も多く、何か別の事をしていたりぼんやりと外を眺めている者も多かった。
そんな中でも桜子は終始きちんと教師の話を聞いていて、熱心にノートも取っている。規則正しい生活をしているおかげで、授業中の居眠りも全くしないし授業態度も真剣だ。
授業時間以外でも、彼女は教師の言う事には明るく朗らかに対応するし、言われた事にも素直に応じている。
そんな生徒としても模範的なうえに性格や外見まで可愛らしければ、それを好きになるなと言う方が無理な話で、何と言うか、教師たちにとって桜子は「教え甲斐のある素直で可愛い生徒」というものだった。
桜子が全科目満点を叩き出しているところで肝心の健斗はと言うと、彼もそれなりの点数を取っていたようだ。順位的には320人中130番といったところで、彼としてはなかなか頑張った方だと言える。
もちろんそれは桜子の尽力によるところが大きくて、彼女の家で一緒に勉強したところがピンポイントで出題されたからだった。もっともそれは桜子が事前に予測していた部分だったので、やはり彼女のおかげというところは大きいだろう。
あれからの健斗は、吹っ切れたというか諦めたというべきか、とにかく桜子の身体に触れる事には拘らなくなったように見える。
もちろん彼も健康な男子なので内心では色々と思うところはあるのだが、表面上は桜子とは今まで通りの所謂「健全なお付き合い」というものを貫き通しているのだ。
それでも周りの目がない場所では二人は気軽にキスをしたり、抱きしめ合ったりできるようになったので、先日の乳揉み気絶事件以降は二人の間の距離はさらに縮まったように感じていた。
そんな彼らを近くで見ている楓子は、桜子の今の状況から二人が隠れて体の関係になってしまう心配はしなくて良くなったのだが、その反面、健斗の事が少し可哀そうに思えるのだった。
7月上旬。
楓子は桜子を連れて、以前からお世話になっている心療内科の浅野医師のもとを訪れていた。
もちろん目的は例の男性恐怖症の悪化についての相談で、浅野には先日の痴漢事件の事や健斗との間に起った事などを余すところなく伝えた。
痴漢事件の話の場面では、桜子は本当に辛そうな顔をしてその愛らしい顔の眉間に深い皺を作っていたのだが、健斗に胸を触らせた話では、これ以上ないほどに顔を真っ赤に染めて思わず俯いて両手で顔を隠してしまっていた。
そんな彼女の様子を注意深く観察しながら、浅野医師は口を開いた。
「そうですか…… それは災難でしたね、可哀そうに……」
浅野は同情するようにそう言いながらも、続けて幾つか桜子に対して質問を始めると、過去のカルテと桜子の顔を交互に見ながら何かを考えている。
それから少し目を閉じると、人差し指を立てながら今度は楓子に質問をして来た。
「男性恐怖症の話の前に、ひとつだけいいですか? 桜子さんは以前から『解離性同一性障害』も同時に患っていますが、そちらは最近どうですか? 痴漢事件のあとに何か気になることはありませんか?」
『解離性同一性障害』、つまり秀人のことだ。
実はそれについて、楓子は何と説明をして良いのか悩んでいたのだ。まさか彼とは協力関係を築いているので、いまは治療しなくて良い、とでも言えば良いのだろうか。
楓子は少し考えたあと、浅野に告げた。
「いえ、そちらはいま落ち着いていますし、事件後も特に変わりはありません。日常生活に影響もないので、しばらくはそのままでいいのではないかと……」
「そうですか。件の男性恐怖症が『解離性同一性障害』の方にも何か影響があるのかと思って訊いてみたまでです。気になる事がなければ今はそのままでいいでしょう」
楓子としては、今秀人にいなくなられても困る事の方が多いので、医師のその言葉に胸を撫で下ろしていた。しかし彼の存在は桜子の心の病そのものなので、本来であれば治療をして消してしまわなければいけないというのに、都合よくそう思ってしまう自分はなんて身勝手なのかとも思うのだ。
「わかりました。前にも言いましたが、鈴木さんの方は今は無理に治療しない方がいいでしょう。そちらは今後も様子を見ていくことにします。それでは男性恐怖症の方ですが、私の所見をお話したいのですが……」
そこで浅野は楓子と二人で話がしたいと言ってきたので、桜子には一度ロビーの方へ出て行って貰った。
「あぁ、すいません。まだ16歳の女の子にはあまり聞かせたくない内容なもので」
「いえ、構いません。娘にはあとで必要な部分だけ伝えますから」
それから浅野医師による診断結果が語られたのだが、概ね楓子が予想していた通りだった。
元々患っていた男性恐怖症なのだが、痴漢に遭った経験によって症状が退行してしまったそうだ。それも以前よりもさらに状況は悪いらしい。
小学校6年生の時に誘拐された時のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を原因として男性恐怖症を発症していたのだが、あれから時が経ったのと、本人の努力によってここ最近はだいぶ良くなっていた。
それが先日の痴漢事件以降は元の状態に近いところまで戻っていたのだ。
そして先日の健斗による乳揉み気絶事件に見られるように、たとえ親しい人間であっても、体を触られること自体に彼女は拒否反応を示すようになり、いくら頭で理解していても体がそれを拒んでしまうらしい。
ただし、身体の全てが駄目という訳でもなく、胸や太もも、お尻など、痴漢犯の遠藤に触られたところ以外は大丈夫なようだ。つまり遠藤に触られた場所を「トリガー」として、今回の症状が発症することがわかったのだった。
浅野の説明を黙って聞いていた楓子は、今回の元凶とも言える遠藤の事を思い出すと腸が煮えくり返るような怒りを覚えて、思わず両拳を思いきり握り締めていた。
そんな楓子の怒りを隠せない様子を見ながらも、浅野は尚も淡々と説明を続けた。
「先ほどの話では、お嬢さんは恋人に触れられても同じ反応を返したと聞きましたが…… これは相当深刻ですね…… 通常の例では、家族や親しい人間であれば拒否反応が出ない事が多いのですが」
「それで先生、それは治るのでしょうか? そうだとしたらどのくらいで良くなるのでしょう?」
「そうですね…… 統計的に1年後には50%が回復していますね。2年で70%で、それ以上になると原因も症状のまちまちで、わからないとしか言えません」
「そんなに時間がかかるのですか……」
「あまり急ぐのも患者にとって良くありませんから。もっとも、体を触られる事の拒否反応に関しては、日常生活ではそれほど影響はないでしょう。そもそも身体を人に触らせる事自体、そうある事ではありませんからね」
「まぁ、そうですね、確かに」
「良くなるまでに早ければ3ヵ月から半年、長ければ年単位でかかるでしょう。ですから、焦らずにゆっくり治していけば良いと思います。……しかし一番辛いのは、彼女の恋人君かもしれませんね……」
「……あぁ、確かに……」
楓子は桜子の身体に触れることが出来ずに、辛そうな顔をしている健斗の事を思い出していた。
確かにこの状態が数年続くとなると、彼にとっては拷問に近いような生殺しの状態が続くのだ。場合によってはいつまでも体を許せない彼女にしびれを切らして、別の女性に乗り換えてしまうかも知れない。
彼がそんな男ではないと思ってはいるが、こればかりはどうなるかわからないのだ。
「しかし、治療にはその恋人君の協力があったほうが都合がいい。むしろ彼がいてくれて良かったかもしれません」
「……どういう事ですか?」
「お嬢さんの場合、男性に身体を触られることに異常反応を示します。ですから内面の診療を私が、そして外面の直接刺激を恋人君に手伝って貰おうかと思っています」
「……ごめんなさい、仰る意味がよくわかりませんが……」
楓子が浅野の説明を理解できずに、怪訝な顔をしている。
「えぇーと…… そうですねぇ、わかりやすく言いますと、私がお嬢さんの心の中に語り掛けて、恋人君が身体に触れるという事ですね」
「えっ、彼に触らせるのですか? 娘の身体を? ……大丈夫なのでしょうか……?」
楓子が眉間にしわの寄った渋い顔で、浅野の提案に難色を示している。
この前あんなことがあったばかりなのに、桜子の身体をまた健斗に触らせても大丈夫なのだろうか。
しかし彼女のそんな顔を見ても、浅野は相変わらずマイペースに淡々と話を続ける。
「安心してください。もちろん私の指導のもとに協力してもらうというスタンスなので、勝手に彼方此方触らせる訳ではありませんから。そもそも、夫婦や恋人の関係でなければ、こんなことはお願いしませんしね。もっとも恋人君に手伝って貰うのはある程度の回復が認められてからなので、まだ当分先の話になるでしょうが」
「はぁ……」
楓子は浅野の提案をなんとなく理解はしたのだが、一抹の不安は隠せなかった。
「えー、では次に今後のスケジュールと治療方法の説明を……」
浅野医師の説明では、週に1度来院して、認知行動療法と呼ばれる心理療法の一種を施術するということだ。
それは彼女が痴漢に遭った場面をあえてイメージさせたり、忘れたい記憶をわざと思い出させて恐怖を乗り越えるというもので、「思い出しても危険がない」「もう怖くない」と思えるようになるための訓練を行うものだ。
そして、ある程度の回復が認められた後に、健斗が彼女の身体に実際に触れる予定だ。彼は大好きな恋人なのだから、身体に触れても大丈夫だというイメージを彼女に刷り込んでいく。それを何度も繰り返す事によって症状を和らげていくらしい。
一通りの説明を受けた後、楓子はロビーで待っていた桜子を伴って自宅へ向けて帰って行ったのだが、その道中、楓子は色々と考える事が多くて頭が混乱しそうになっていた。
そして桜子への詳しい説明は家に帰ってからするとして、それよりも楓子は少し悩んでいることがあるのだ。
浅野医師は、当たり前のように健斗に桜子の身体を触らせると言っていたのだが、それは色々な意味でマズいのではないかと思うのだ。。
確かに桜子と健斗は恋人同士ではあるが、未だ深い関係にはなっていないし、いくら恋人だとは言っても、まだ高校生の健斗に桜子の病気にそこまで深く立ち入らせても良いのだろうか。
そもそもそんな状態で彼が桜子に自然に触れるというのも難しいと思うし、桜子だって相当意識してしまうだろう。
それをどう説明しようかと、楓子は頭を抱えながら家路を急ぐのだった。




