第118話 大人の関係
健斗が壁際に蹲って泣いていた。
顔を手で覆って嗚咽を漏らしながら、桜子に対して何度も謝罪の言葉を口にしている。
「ごめん、桜子、ごめん…… 俺は最低だ、許してくれ……」
そんな健斗の様子と先ほどの秀人の説明から、桜子と彼の間に起きたことを理解した楓子は、健斗の肩に手を置くと優しく宥め始めたのだが、彼は嗚咽を押し殺しながら泣くばかりだった。
それでも楓子がゆっくり優しく背中を擦っていると、次第に落ち着きを取り戻していった。
「……ご、ごめんなさい。もう大丈夫、落ち着いたから……」
「そう……よかった。健斗くん、私はさっきあなたを叱ると言ったけど、もうやめたわ。あなたの桜子を想う気持ちが良くわかったから」
「すいません……」
健斗がやっと落ち着いたのを確認した楓子は、その横で床に胡坐をかいて、天井を見上げながら鼻をほじっている秀人に向かって話しかけた。
「……その子の姿でそんな事をしないでちょうだい…… ところで鈴木さん、桜子の様子はどうなの?」
鼻から抜いた小指を足元のラグで拭いながら、秀人は答える。
「あぁ、大丈夫だ。気を失っているだけだから、すぐに目が覚めるだろうよ」
「ふぅ……よかった。ねぇ、鈴木さん、あなたならわかると思うんだけど、痴漢事件の後からあの子の様子が少しおかしいのだけれど…… どうなのかしら?」
せっかく秀人に会えたのだからと、ついでに最近心配していたことを楓子は質問してみた。
彼は桜子の事なら何でも知っているからだ。
「……なんでも俺に訊くんじゃねぇよ。……まぁ、トラウマだろうな。例の男恐怖症って言ったか? あれが少し酷くなったようなもんで、しばらくこいつの身体には誰も触ることはできないだろう。できたら、一度カウンセリングに連れて行った方がいいかもしれんな」
「……えぇ、そうするわ。話してくれてありがとう」
今となっては、楓子は秀人と普通に会話をしていて、彼が桜子の深層意識が造り出した架空の人格であることをすっかり忘れているようだ。それは桜子が何度も秀人に助けられているのを見ていて、彼の事をまるで桜子の守り神であるかのように信頼を寄せるようになっていたからだった。
それに桜子の事でわからない事があると、彼に訊けば大抵は答えを示してくれるので、母親としてこれほど安心できることはなかったのだ。
もっとも実際には秀人は架空の人格ではないので、話していて普通の人間のように錯覚してしまうのは当たり前の事だし、彼もその事に関しては何も言わないようにしている。
とにかく秀人は、楓子と健斗にとっては、桜子を守り理解するとても頼もしい存在であることは間違いなかった。しかし、彼は二重人格の病気が原因で生まれた別人格なので、本来であれば治療して消してしまわなければいけないのだが、今の二人には秀人の存在はなくてはならないものとなっていたのだった。
桜子がすぐに目を覚ますはずだという秀人の言葉を信じた健斗は、そのまましばらく待つことにした。
健斗はどうしても桜子に謝りたかったし、彼女の悩みを直接聞いてあげたかったのだ。
健斗の希望を聞いた秀人は、それならとベッドの上に仰向けに横になると、目を閉じてそのまま眠ってしまった。
眠る直前に秀人は「桜子の身体に悪戯するなよ」と冗談を言ったのだが、健斗はそれについて反論をする元気すらなく、このまま彼女の身体に触れることができないのかと絶望の淵に立たされたような顔をしていた。
ベッドの上の秀人が規則正しい寝息を立て始めたのを確認すると、「目が覚めたら教えてほしい」と言い残して、楓子は娘の事を健斗に任せて部屋から出て行った。
健斗はベッドに横たわる桜子の長い金色の髪に指を絡ませながら、ベッドの縁に頭を乗せて、眠る彼女の顔をずっと見つめ続けていた。
暗闇の中で目が覚めた。
周りを見回しても真っ暗闇が広がるばかりで何も見えない。
あぁ、ここはいつもの自分の夢の中で、鈴木さんと話をする場所だ。
だけど今日は彼の姿が見えない。
どこに行ってしまったのだろう。
ん? 遠くに何か明るいものが見える。
なんだろう? 少しずつ近付いてくる……
あぁ、光に飲み込まれる…… あぁ……
桜子はパチリと目を開けた。
少し前方に見慣れた部屋の天井が見えていて、どうやら自分は自室で仰向けに寝ているらしいと気付く。
それからゆっくりと身動ぎをすると、背後に感じる柔らかな感触と全身を包み込む香りから、そこは自分のベッドの上なのだとわかった。
少しずつ目が明るさに慣れて来たので、ゆっくりと頭を上げようとすると、右側の髪の毛に何かが引っ掛かっている感触に気が付いた。不思議に思って首だけそちらに向けると、健斗がいた。
彼は桜子のベッドの上に頭だけを乗せた体勢で眠っていた。
両目を閉じて左の頬を下にして、規則正しい寝息を立てている彼の目尻には薄っすらと涙の跡が残っていて、ベッドの上に上げられた右手の指は、桜子の長い金色の髪の毛を巻き付けている。
どうしてこんな状況になっているのかと、桜子は未だぼんやりとする頭を働かせて思い出そうとしたのだが、どうにも上手く思い出すことができない。
それでも今の状況を考えると、間違いなく自分は気を失って倒れてしまったに違いなかった。
それからさらにそうなった原因を思い出そうと必死に頭を捻っていると、彼女の口から「あっ」という短い声が発せられた。
そうだ、健斗に胸を触って欲しいと頼んだのだった。
彼は自分の頼みを聞いてくれた。
しかし、自分が恐れていた通り、恋人の健斗に触られているのにも関わらず、全身に嫌悪感と不快感が走り抜けて、吐き気がして頭がクラクラとしてしまったのだ。
自分の予感が当たってしまった絶望感に打ちひしがれながら、それでも服の上からならまだ我慢ができたので、本当はそこでやめてもらおうと思った。
健斗を興奮させてしまったのは自分だ。
胸を触らせるなんて、そんな事をしたら彼がそうなってしまうのはわかっていたのに、安易に頼んでしまったのは自分なのだ。
男の人はエッチな事を途中でやめるととても辛いことになると琴音から聞いていたので、なんとか彼の頼みを聞いてあげようと我慢したのだが、胸を直接触られた時にあの痴漢の感触を思い出してしまって、急に目の前が真っ暗になった。
それから先の事は全く憶えていなかった。
「健斗…… ねぇ、健斗、起きて……」
桜子がベッドの上に寝転がったまま、首だけを横に向けて健斗の名前を呼ぶ。
彼女の右側の髪の毛は未だ健斗の指に絡まったままなので、桜子が首を廻すと少し引っ張られる感覚があった。
彼女に三度名前を呼ばれると、健斗は眉間に深い皺を刻みながらゆっくりと目を開いて、一瞬の戸惑いの後、自分を見つめる桜子に気が付いた。
「さ、桜子…… よかった、目が覚めたんだな……」
「健斗…… あたし、気を失ってしまったんだね…… また心配をかけちゃって、ごめんね……」
二人はベッドの上に頬をつけたまま話し続ける。お互いの顔の距離は20センチほどだろうか。
「お、おれ、お前に謝らないといけないんだ…… ごめん、自分の事ばかりに夢中で、お前の事を見てなかった…… 本当にごめん」
「ううん、健斗にあんなお願いをしたのはあたしだもの。健斗だって男なんだから興奮してしまうのはわかっていたはずなのに…… あたしの方こそごめんなさい」
そこまで聞いたところで、健斗が身体を起こして横になったままの桜子を正面から見つめる。その顔は泣きそうに歪んでいて、桜子は彼のそんな表情を見るのは初めてだった。
健斗が指から桜子の髪をほどいたので、桜子もベッドの上に起き上ると、健斗の顔を正面から見つめた。
そんな桜子に、健斗がおずおずと手を伸ばして来て、まるで抱きしめるような姿勢をしながら確認をするように聞いて来た。その顔は未だ泣きそうに歪んでいる。
「このまま抱きしめても大丈夫か? 怖くないか?」
「うん、大丈夫…… 抱きしめて」
「あぁ、わかった。怖くなったら言ってくれ……」
健斗はそう言うと、何かを恐れるようにゆっくりと桜子の身体を引き寄せると、優しく抱きしめた。そして、彼女の耳元で小さく囁く。
「何度も言うよ。ごめんな、桜子。俺、お前の辛い気持ちをわかっていたつもりで、わかっていなかったんだ。あんな事件があったばかりなのに、無神経にお前の身体を触ってしまった。許してくれるか?」
「うん、もう謝らないで。でも、あたしの方こそ謝らないといけないんだ……」
「……お前が謝る事なんて、これっぽちもないだろ?」
「ううん、違うの。本当はあたしも健斗ともっと触れ合いたい。健斗がしたい事もさせてあげたいし…… でも身体が言う事をきいてくれないから、いまはまだ出来なくて。だからもう少し時間がほしいの、必ず病気を治すから……」
桜子の言葉をそこまで聞くと、健斗は彼女の耳元から離れて両手で肩を押さえると、正面から桜子と向かいあった。そしてそのまま優しくキスをした。
「いいんだよ、無理をしなくても。 ……大丈夫? 怖くないか?」
「……うん、大丈夫。胸や脚を触らなければ大丈夫みたい……」
「そうか……」
桜子の返事を聞いた健斗は、安心したように表情を和らげると再度優しく口づけをして、すぐに離れる。すると今度は桜子の方から唇を近づけて来てまたキスをした。
そのままふたりはお互いの額を付けて頬を上気させながら、しばらくじっと見つめ合っていた。
話し声に気付いた楓子が小走りに桜子の部屋に入ると、二人は並んでベッドに腰掛けていた。二人の距離は少し離れていて、廊下の足音に気付いて慌てて身体を離したのが見え見えだ。
何気に顔は上気していて、特に桜子は茹蛸のように素足の先まで真っ赤になって、頭の天辺からは湯気が出そうな勢いだ。
これは楓子が来る直前まで二人がいい感じになっていたのは間違いなく、これではまるで自分がおじゃま虫のようではないかと楓子は思ってしまった。
それにしても、さっきまであんなに大騒ぎしていたのに、目を覚ましてすぐにまたそんなことをするなんて、これが若さというものか、と楓子は思わず溜息を吐きそうになったのだが、ここは大人としてピシャリと小言を言う事にしたのだった。
その後健斗は、小林家で夕食もご馳走になってから家に帰って行った。
その顔は明るく晴々としていて、さっきまでの何か思い悩んだような顔はもう消えている。
もちろんそれは意図的にしている表情で、健斗はとにかく桜子の事を心配させたくなかったのだ。彼が明るい顔をしているだけで、彼女も明るい顔をしてくれる、ただそれだけの事だった。
しかし、健斗が明るい顔をする理由は他にもあった。
まだいつになるかはわからないが、桜子本人の口から自分といずれ大人の関係になっても良いという趣旨の言葉を聞くことができたからだ。
実は健斗は、彼女はあまりそういう事に興味がないのではないかと思っていた。
そして最近では、自分と彼女がお互いを想う気持ちには若干の違いがあって、彼女にとっての恋愛には、必ずしも体の関係は必要ではないのかもしれないと思い始めていたのだ。
それならそれで、そういう付き合い方をしていけばいいと思っていたものの、健斗も思春期の健康な男子なので、少し、いやかなり残念に思っていたのも事実だった。
それが今日、彼女の口から決してそうではない事を聞くことができた。
例の発作があるので今はまだ無理だが、いずれ病気が治った時には彼女とそういう関係になれればいい、いまの彼にはそれだけで十分だった。
もうすっかり暗くなった自宅までの通い慣れた道を歩きながら、健斗はいずれ来るかもしれない桜子との甘いひとときを思い描いていた。




