第117話 男の本能と鉄の意志
「健斗…… 触って……」
そう言うと桜子は、健斗の右手を自分の胸に押し当てた。
健斗が驚いて彼女の顔を見つめていると、そこにはさっきまでの艶めかしい表情ではなく、何かを必死に訴えるような顔をした桜子がいる。
彼女の表情を見て、この行動にはきっと何か他に理由があるのに違いないと健斗は咄嗟に思ったのだが、それでもその申し出は今の彼には非常に魅力的で、それに抗う術も見つからないままずっと彼女の胸を見つめ続けていた。
「さ、触るって…… いいのか?」
健斗が自分の右手と桜子の顔を交互に見ながら躊躇していると、彼女はコクリと頷きながらさらに強く自身の胸に健斗の右手を押し当てる。
これまでずっと桜子の胸を触ってみたかった健斗ではあったが、この行動には必ず何かほかに意図があるはずだと思うと、それがとても気になってしまった。
彼女はそんな健斗の考えに気付いたのか、懸命な表情を崩さないまま小さく囁く。
「お願い……気にしなくていいから、触って……」
その必死な顔をよく見ると、羞恥の為なのか頬が紅く染まっていて、青い瞳も濡れている。その表情を見た健斗は、彼女の願いを聞いてあげようと思った。
「わ、わかった…… 触るって、どうしたらいい?」
「あの…… 服の上から……」
「お、おぅ……」
彼女の口から「胸を触ってほしい」と懇願された健斗はかなり興奮してしまっていた。
これは彼女のお願いであって、自分の意思ではないと自身を納得させながら、只管前を見つめている。
ブラジャー越しの彼女の胸は少しゴワゴワとした硬い感触なのだが、それでもその重量感はよく伝わって来て、彼の右手にはずっしりとした重みが感じられた
「あっ……」
健斗の右手の動きに反応した桜子が、小さな声をあげる。
驚いた健斗が俯いた彼女の顔を覗き込むと、彼女は必死に下唇を噛んでいて、その顔には懸命に何かに耐えているような表情が浮かんでいた。
「……なぁ、本当は嫌なんじゃないのか……? もうやめようか?」
「だ、大丈夫、お願いだから続けて……」
「あ、あぁ、わかった……」
『男の本能を甘く見ちゃダメよ。どんなに硬い鉄の意志だって、何かの拍子に簡単に吹っ飛ぶんだから』
その時健斗の脳裏には、母親の幸に言われた言葉が過っていた。
あぁ、母親はこの事を言っていたのかと、ぼんやりと考えていたのだが、その忠告はすでに彼には無意味だった。
健斗が慎重に彼女の胸に当てた手を動かそうとした時、それは起こった。
「ううぅぅぅ…… ああぁぁ…… 怖い…… たすけて……」
「えっ!?」
明らかな桜子の異変に驚いた健斗が、慌てて彼女の俯いたままの顔を覗き込むと、その顔は明らかに恐怖に歪んでいる。
「さ、桜子!? だ、大丈夫か、しっかりしろ!!」
「うあぁぁぁ‥… いや、いや、いや、怖い…… うぁーーーー!!」
短い悲鳴を上げると、そのまま桜子は意識を失ってしまったのだった。
ガチャガチャガチャ!!
ドンドンドン!!
部屋のドアを叩く音と、勢いよく取っ手を廻す音が聞こえる。
その音の大きさと激しさから、ドアの向こうから尋常ではない様子が感じられた。
「ちょっと、このドアを開けなさい!! 桜子!! 健斗くん!! 開けなさい!!」
桜子の悲鳴に気付いた楓子が慌てて彼女の部屋に来てみると、知らないうちに部屋のドアが閉まっていて、さらに鍵までかかっている。
そして中からは桜子のものに違いない悲鳴が聞こえて来た事からも、これで冷静でいろと言う方が無理な話だった。
「早く開けなさい!! 二人ともなにやってるの!!」
慌てた健斗が、気を失っている桜子をそれでもそっと床に寝かせると、そのままドアまで走って急いで鍵を開けた。
次の瞬間、もの凄い勢いでドアを開けた楓子が部屋の中に転がり込んで来たのだが、床に仰向けに倒れている娘の姿を見ると、慌てて彼女のそばに駆け寄った。
桜子は仰向けに寝かされていて、見たところ眠っているか気を失っているだけのように見えた。
楓子は急いで彼女の呼吸の状態や脈などを測ってみたのだが、目立った異常は見受けられず、これは単に気を失っているだけだとの結論を出したようだったが、詳しくは一部始終を目撃していたはずの健斗に訊いてみないとわからない。
場合によってはすぐに救急車を呼ばないといけないかもしれないのだ。
続いて彼女は娘の身体を確認したのだが、外傷などがないのはいいとして、大きく開けられた綿シャツの胸の部分からはその豊満な胸の谷間が丸見えで、しかもブラジャーのフロントホックが外されている。
この状況をどう好意的に見ても、ドアにカギをかけた密室でふたりで乳繰り合っていたようにしか見えないし、彼女の着衣の乱れからも、これから何かをしようとしていた以外には考えられなかった。
「……健斗くん、これは一体どういう事かしら…… 説明してくれる?」
地獄の底から響くような恐ろしい声と鬼のような形相で、楓子が睨みつけて来る。今の彼女には何を言っても無駄だろう。
「あっ……あの、 そ、それは……」
状況証拠から言ってもこれは全く申し開きのしようがなく、何を言っても全てが言い訳にしか聞こえないだろう。そう思うと、只々健斗は後退るだけで、その顔は楓子への怖れと申し訳なさに慄いている。
そんな彼の様子を見つめながら、これ以上彼を追求してもいい方向に話は転がらないだろうと思った楓子は、意識して雰囲気を和らげた。
「……そんなに怖がらないでちょうだい、いまはあなたを責めている場合じゃないの。場合によっては救急車を呼ばないといけないから、どうしてこうなったのかだけでも教えてくれないかしら? 怒るのは後にするから」
あとでたっぷりと叱られるにしても、いまは純粋に母親として娘の事が心配なだけなのだろうと思った健斗は、あった事を全て正直に話すことにした。それを彼女がどう受け取るかは関係なく、只管に事実だけを淡々と伝えたのだ。
「そう…… 正直に話してくれてありがとう。やっぱり、発作で気を失っているだけみたいね……」
楓子の顔は先ほどの切羽詰まった様子が少し和らいでいた。発作が原因の失神であるのなら、短時間で意識が戻るはずだ。
「ご、ごめんなさい…… そのう、桜子の胸を……」
「触ったこと? まぁいいわよ、この子の意思なんだし。でもそんな事をあなたに頼むなんて、何か他に理由がありそうね」
「う、うん、何か考えがありそうだったよ。む、胸を触ってくれだなんて、桜子の口から言うなんて……」
「そうねぇ、何かしらねぇ……」
「ふんっ、こいつなんてもの凄く興奮していたみたいだぞ」
その時横から聞き慣れた少し高めの可愛らしい声が聞こえて来た。しかしその口調は少し乱暴で、どこか不良かヤクザのような口調だ。
ふたりが慌てて横を見ると、仰向けに寝かされていた桜子の目がパッチリと開いていて、青い瞳で横の二人を見つめている。
「す、鈴木さん……」
「あなたは……」
この時ふたりは思った。
この鈴木に訊くのが一番早いはずだ。彼は桜子の事は何でも知っていて、場合によっては彼女本人よりも詳しく状況を把握している事もあるのだ。
「よぉ健斗、もう興奮は治まったのか?」
秀人の指摘に、健斗は慌てて体ごと横を向いた。少し中腰の姿勢で、頬は赤く染まっている。
「す、すいません……」
「い、いいのよ…… 健康な男の子の証拠なんだから……」
楓子と健斗の間に若干の気まずい空気が流れたのだが、秀人はそんな事などお構いなしに話を続けた。
「どうしてこうなったのか知りたいんだろう? 教えてやるよ」
秀人の説明によると、痴漢事件以降の桜子は知らない男性に対してあまりにも敏感になりすぎて、ある種の神経症のようになってしまったらしく、それを誰にも相談せずに一人で悩んでいたようだ。
あの痴漢に身体を触られた時の不快感が未だに生々しい記憶として残っていて、それを思い出すだけでも意識が遠くなるほどで、一刻も早く忘れてしまいたいと思い悩んでいた。
最近健斗とキスをした時に、彼にこのまま身体を触られたらどうなるのだろうかとその場面を想像したのだが、その時に痴漢に触られた時の強烈な不快感の記憶とシンクロして、発作が起きそうになったそうだ。
桜子としては恋人の健斗に身体を触られる事は嫌ではないし、いずれそういう関係になることも意識しているのだが、もしかすると彼に身体を触られても発作が起きてしまうかも知れないと思ったらしい。
一度そう思うとそれを確かめられずにはいられなくなって、さっき健斗に頼んで触ってもらったという訳だった。
「……俺が触っても発作は起きてしまうのか……」
健斗がとても辛そうな顔で言葉を絞り出すと、その様子を楓子は気の毒そうに見つめている。
「まぁ、そういう事だな。お前としても色々と思うところはあるかもしれないが、しばらくはこいつの身体に触れるのは諦めた方がいいな」
「それにしても、健斗、お前もう少し桜子の様子を気にしてやらないとダメだろ!! こいつがお前に乳を触れと言ったのは確かだが、それを本気にする奴があるかよ!!」
秀人にそう言われた健斗は、あの時の桜子の様子を思い出してハッとなった。
確かに彼女は胸を触れとは言ったが、それは彼女が自分に身体を触られるとどうなるのかを知りたかっただけなのだ。だから結果が予想できたところですぐにやめてもらうつもりだったに違いない。
それを自分が必要以上に興奮してしまったせいで、彼女は途中でやめられなくなったのだ。優しい彼女は、自分をがっかりさせたくなかったのだろう。
そして恐らく途中で発作が起きそうになって怖くなったのだろうが、それを自分は彼女の様子を顧みることもなく、自分の事で頭がいっぱいだったのだ。
そうだ、あの時の桜子はずっと俯いたままで顔を見せようとはしなかった。
彼女はきっと照れているのだと自分は勘違いしていたが、あの時の彼女は痴漢に触られた時の事を思い出して顔を歪めていたに違いない。
彼女はただその顔を見せたくなかっただけなのだ。
それに気が付いた健斗は、まるで頭を丸太で殴られたかのような衝撃に耐えきれず、思わずよろけて壁に手をついた。
あぁ、自分は何という事をしてしまったのだろう。
これでは痴漢がやった事と何も変わりがないではないか。
桜子はきっと、怖くて、恐ろしくて、気持ちが悪くて堪らなかったに違いない。それでも最後まで悲鳴を上げるのを我慢していたのだ。
こんな俺のために。
「ご、ごめん…… 桜子…… 俺は、俺は……最低なヤツだ…… ううぅぅ……」
健斗はそのまま壁に寄り掛かると、顔を掌で覆いながら崩れ落ちた。




