第116話 試験勉強とお部屋デート
約束の日曜日。
今朝健斗は、9時55分に小林家に到着していた。
いつも時間ぎりぎりの健斗にしては珍しい5分前行動なのだが、実は彼は今日の朝は早くに目が覚めてしまって、それから寝られなかったのだ。
今日は小林家で桜子と二人で試験勉強をすると数日前から聞いていた健斗の母親の幸は、年頃の男の子の親の義務として何度も彼に言い聞かせていて、今朝も健斗が家を出る直前にまた同じ話をしていた。
「いい? 健斗。もう何度も言っているけれど、とにかく節度を守った行動をするのよ? 桜子ちゃんの事が大事に思うのなら、絶対に無茶な事はしないこと。それから彼女の部屋に入る時は、ドアは開けたままにしておくこと。いいわね?」
「わかってるよ。大丈夫だって、何も変な事はしないよ。今日はおばさんだっているんだし」
「あなたね、男の本能を甘く見ちゃダメよ。どんなに固い鉄の意志だって、何かの拍子に簡単に吹っ飛ぶんだから」
「……大丈夫だよ、俺だってあいつの事は大切だから」
「わたしはあなたの事を信頼しているけど…… 彼女は特別に可愛いから、あんたの鉄の意志もどこまで耐えられるか心配なのよ。それにしても本当にどんどん綺麗になってきてるわよね、あの子。末恐ろしいわ……」
そんな訳で、桜子と二人きりになれることをあれだけ楽しみにしておきながら、何もできないジレンマに健斗は悩まされていた。
そして悶々としたまま小林家のリビングに通されたのだった。
今日は日曜日で酒店は休みなので、楓子も絹江も在宅していた。さすがにそんな中でリビングで勉強する訳にいかなかったので、当然桜子の部屋に案内されたのだが、健斗が気を遣う必要もなく当たり前のように部屋のドアは開け放たれている。
『ま、まぁ、そうだよな、ははは……』と健斗は内心思ったのだが、一切表に出すことなく平然とした顔をしていた。
久しぶりに入った桜子の部屋は、なんだかとても良い匂いがして、健斗は思わず頭がクラクラとしてしまった。
それは桜子の匂いだった。
彼女の近くに寄るといつもこの香りがするのだ。
これは何だろう、なんだか甘くて良い匂いだなといつも健斗は思っていたのだが、香水やアロマには全く疎い彼にはわからなかった。それは桜子が昔から好んで使っている柑橘系のリードディフューザーの香りだった。
この部屋にいると中学の修学旅行の時に彼女の胸に抱かれて眠った事を思い出してしまう。
あぁ、あの時は本当に気持ちが良かった、また彼女の胸に抱かれて眠りたいな、などとぼんやりと考えていると、怪訝な顔をした桜子が顔を覗き込んで来た。
「健斗、どうしたの? 大丈夫?」
「あ、いや、大丈夫、なんでもない」
そのまま円形の座卓の前に座るように促されると、桜子はお茶を入れて来ると言い残して一旦部屋から出て行った。一人残された健斗は、何げなく部屋の中を見渡している。
部屋の中はとてもセンス良くまとめられていて、「ザ・女の子の部屋」と言う感じだった。
家具類など部屋全体は白を基調に纏められていて、カーテンは薄水色、クッションやベッドカバーが緑色、アクセントラグは薄ピンク色だ。
そして所々に大小様々なぬいぐるみが鎮座している。
桜子は昔からパステル調の淡い色使いを好むようで、私服も白や水色、薄黄色などが多かった。そして肌が真っ白で髪が金色の彼女には、そんな淡い色がとても良く似合うのだ。
もう少し暑くなると桜子は好んで丈の長いワンピースを着るようになるのだが、それも多くはそんな色使いで、それに大き目の麦わら帽子を被った彼女の姿が可愛すぎて、健斗は何度も見惚れたものだった。
健斗がぼんやりとそんな事を考えていると、桜子がお茶とお菓子を持って再度現れて、彼の向かいに座った。
念のためにチラリと部屋のドアを見ると、やはり開けたままになっていて、彼女の母親が言う「二人きりになっても良い」というのは、こういう事なのかと健斗は理解した。
今日の彼女は半袖の白い綿シャツに薄ピンク色で少し柄の入った膝丈のスカートを穿いていて、ラグの上に正座をするとちょうど真っ白な素足の膝頭が見えている。
あぁ、やっぱり彼女はどんな服装をしていても可愛いな……
決して本人に悟られないように、密かに健斗がそんな事を考えていると、急に桜子が頭上に右腕を真っすぐに上げて、なにか宣誓するようなポーズをとっていた。
「さぁ、これからお昼まで2時間、びっしり勉強するよ!! ファイトー」
「お、おー……」
「健斗ぉ!! 元気がないぞぉ!! もう一度!! ファイトー」
「オー!!」
午前中の2時間は二人とも真面目に勉強をしていた。
もっとも桜子は昔から特別に試験勉強というものをした事が無く、すでに身に付いている毎日の予習復習だけしかしていなかったのだが、それでも中学の時は常に学年5位以内には入っていたし、今も教科ごとの小テストでは毎回のように満点をとっている。
本来であれば地域最難関の公立校にも合格できるだけの学力を持っているのだが、家庭の事情で4ランク落とした現在の高校に通っている彼女からすると、今回の定期テストもきっと楽勝なのだろう。
それに対して健斗は数学の問題に唸り声を上げている。
どうも彼は数学的なセンスが全く無いようで、基礎問題はなんとか解けるのだが応用問題が全くダメだった。基礎問題自体も理屈を理解している訳ではなく、単に公式を丸暗記しているだけなので、時間と共に公式自体を忘れてしまうと基礎問題ですら解けなくなるのだ。
「えーっとね、ここはこれを代入して……」
「う、うん……」
桜子との距離が近い。
机の上の問題集を見つめている健斗の視界の片隅に彼女の胸の膨らみが入ってきて、それ以上顔を上げられなくなってしまった。
もしも顔を上げると、いけないとわかっていても、どうしても健斗の視線はそこへと吸い寄せられてしまうのだ。
桜子が一生懸命問題の解き方を教えてくれているのに、すでに健斗の頭の中はその事で一杯になってしまっていて、彼女の問いかけにも生返事を返している。
「……もう、健斗どうしたの? なんか上の空って感じだし…… 集中できないの? もうお腹空いた?」
健斗にそんな状況を強要しているのが自分である事に全く自覚のない桜子は、腰に両手を当てながらジトっとした目で彼を見つめているのだが、まさか彼女の胸の事が気になって集中できないとも言えずに健斗は困ってしまった。
「い、いや、ごめん、大丈夫。ちょっと考え事をしていて……」
「ふぅーん……勉強の時に邪念は禁物だよ。でもそろそろ一時間だし、10分休憩しよっか?」
いや、その邪念の原因がお前の胸なんだけど、とは健斗には決して言えなかった。
それから昼までは、教科を英語に変えて勉強を続けた。
二人で教科書を読みあったり、問題集を解きあったりと、勉強にしてはそれなりに楽しい時間を過ごすことができて二人はとても満足しているようだ。
時々廊下を通りかかる振りをしながら、楓子は桜子の部屋の中をチラリと覗いて行ったのだが、約束通り部屋のドアは開けたままになっているし、中では仲良く楽しげに勉強をする二人の姿を見ることができた。
健斗と一緒の桜子は、痴漢事件後ではあまり見せる事の無かった満面の笑顔を見せているし、そんな彼女に健斗も口を大きく開けて笑っている。
母親として彼女の事はずっと支えてきたつもりではあったが、あの笑顔は自分に向けるものとはまた少し違う種類のものであることがわかるし、それを引き出している健斗の人柄も一人の人間として信頼できるものだ。
最愛の娘の幼馴染であって、かつ恋人でもある健斗がそんな人間であって本当に良かったと心から思うのだった。
昼食は桜子特製のチャーハンだ。
もちろん鶏ガラ出汁を使った本格的な物で、おまけの中華スープも付いた完璧な出来だ。
健斗はその出来栄えに感動して、「美味い」を連発しながらモリモリと平らげていき、結局2回もお代わりをしてから満足そうにお腹を擦っている。
健斗にとって本当にお世辞でもなんでもなく美味しかったらしく、また今度作って欲しいとおねだりまでしていて、そんな彼の様子を嬉しそうに見つめる桜子の表情は本当に幸せそうで、もうこのまま二人は一緒になってもいいのではないかと、思わず楓子が思うほどだった。
大きく膨らんだお腹を擦りながらお昼休憩も終わり、午後からも2時間ほど勉強を続けた。
予定の時間が過ぎた頃には、今回の定期テストの出題範囲もほぼ終わっていたので、そこからは二人で映画を見ながら雑談をしている。
ベッドに背中を持たれかけて床に座っている二人の肩は自然と距離が近くなっていき、今では二人の両肩はぴったりとくっついていた。
そして気が付くと桜子の頭が健斗の左肩に乗せられていて、体重も少し預けられている。その状態で健斗が少しドキドキしていると、桜子が小さな声で話し出した。
「あのね、今回の痴漢事件なんだけど、あたしはもう大丈夫だから…… 心配かけてごめんね」
「いや、お前が謝る事じゃないだろ。謝らなくちゃいけないのはあの犯人だし、今も思い出すだけで腹が立つよ。とにかくお前は何も悪くないんだ、何も気にする必要はないよ」
健斗が桜子の髪を優しく撫でる。彼女の髪からはふわりと爽やかな香りがした。
「……ありがとう。あたしは健斗がいてくれて本当に良かったと思っているんだ……」
「俺がいるだけでお前が元気になるんなら、ずっと一緒にいてやるよ。これからもな」
「うん、うれしい……ありがとう…… あのね、本当はね、あたし凄く怖かったんだ」
桜子の目尻に少し涙が溜まっているように見えた。その青い瞳も潤んで揺れている。
「……そうだよな、怖かったよな。でももう大丈夫、ずっと傍にいるからさ……」
「うん……ずっと傍にいてね」
「あぁ、約束するよ、ずっと一緒だ」
「ありがとう。でも…… でもね、あたし…… うううぅっ……」
そう言うと桜子は遂に泣き出してしまった。
きつく閉じられた目尻からは大粒の涙が溢れて健斗の肩を濡らしている。そして小刻みに全身を震わせながら口に手を当てて、必死に嗚咽が漏れないように我慢していた。
それからしばらく彼女の頭を優しく胸に抱いて、ゆっくりと背中と髪を撫でていると、少しずつ桜子は落ち着きを取り戻したようだった。
そして顔だけを上に向けると、彼女は何かを言いたげに健斗の顔をジッと見つめていて、そんな顔を見た彼は桜子の言いたい事をすぐに理解した。
健斗は何も言わずに桜子の顔に自身のそれを近づけると、そのままキスをした。
それは彼女を安心させるような優しい口づけで、まったく疚しさや下心の無い純粋な彼の気持ちだったのだが、それを受け入れた桜子の反応はいつもと少し違っていた。
彼女は健斗の唇に自分から強く吸い付くと、そのまま彼の後頭部に腕を廻して強くしがみついた。驚いた健斗が咄嗟に顔を上げようとしたのだが、彼女はさらに腕に力をこめると、彼が離れられないように更に強く唇を押し当ててきたのだ。
しばらくの間、健斗が驚きと興奮で胸を高鳴らせながら、桜子の柔らかい唇の感触を感じていると、次第に腕の力を抜きながらゆっくりと彼女の唇が離れていった。
温かな唇の感触が遠ざかるのを名残惜しそうに見つめる健斗の前には、彼女の青い瞳がウルウルと濡れて揺れている。
「ちょっと待ってて……」
そう言って立ち上がると、桜子は部屋の入口まで歩いて行ってそのままドアを閉めてしまった。そしてカチリと鍵をかけると再び健斗の前に座り込む。
彼女の膝丈のスカートからは真っ白な素足が伸びていて、水泳で鍛えた少し太めの太ももの膨らみも、スカートの薄めの生地を通してよくわかる。
彼女の一連の動作を驚いた顔で見つめていた健斗に、桜子は濡れた青い瞳を揺らしながら囁いた。
「あのね、お願いがあるの…… 聞いてくれる?」
その言葉を紡ぐ彼女の小さな紅い唇も濡れていて、その隙間からチラチラと見える小さな舌が、今は妙に艶めかしく見えた。
「あ、あぁ、いいよ……」
急に様子の変わった彼女に対して、ゴクリと唾を飲み込みながら健斗は動きを止めたのだが、桜子はそんな彼の右手を掴むと上目遣いに見つめてくる。
それから徐に、桜子は健斗の右手を自身の豊かな胸に押し当てながら囁いた。
「健斗…… 触って……」




