第115話 二人きりのシチュエーション
「お前、なにニヤニヤしてんだよ、気持ちわりーな」
教室で健斗がボケっとしていると、隣の席の友人に突然突っ込まれた。
健斗は昔から無口であまり自分からは喋らないのだが、それでもクラスの中では仲の良い男子数人のグループに混じっている事が多い。
これだけ無口で不愛想な彼なのに、不思議と人には好かれていて、彼の周りには友人達がいることが多かった。もっとも無口と言っても自分からあまり話しかけないだけで、訊かれた事にはきちんと答えるし、友達と話をすることもそれなりにあるので、別にひとりが好きという訳ではないのだ。
「な、なんだよ、べつにニヤニヤなんてしてないだろ」
友人の指摘に少し慌てながら健斗は答えた。
そう言いはしたが、その時彼の頭の中は明後日の桜子とのお部屋デートの事でいっぱいで、少し鼻の下が伸びていたのは事実だったのだ。
「そうか? なんか変な顔をしてたぞ。お前のあんなニヤケ顔なんて初めて見たよ…… あっ、お前、まさか彼女となにかあったのか?」
その声に、クラスの別の友人が会話に加わる。
「なに、木村!! 小林さんと何かあったって!? まじか? お前彼女になにしたんだよ、コノヤロー、めちゃくちゃ羨ましいじゃねーか、こんちくしょう!!」
「いや、だから何もねーって!! お前らうるせーよ!!」
健斗と桜子が付き合っている事実は既に学年中に知れ渡っていて、友人たちはいつも羨ましがっていた。そして普段桜子と接点のない彼らは、健斗から彼女の話を聞きたがるのだ。
「いいから吐け、お前、彼女になにしたんだ!? もしかしてナニか? ナニなのか?」
「だから何もしてねぇって!! 今度あいつの家で一緒に勉強するだけだって!!」
友人のしつこい追及に思わず反論した健斗は、勢いで本当の事を口走ってしまい慌てて手を口に当てたのだが、すでに遅すぎた。彼らに格好の話題を提供してしまったのだ。
「二人で勉強…… って、いったい何の勉強だよ!? やっぱりナニの勉強なのか!? そうなんだろ!?」
「だから違うって言ってんだろ!! 来週の定期テストの勉強をするだけだって!!」
友人たちにそう言いながら、健斗は考えていた。
べつに彼氏が彼女の家で一緒に勉強してもいいではないか。
お互いに学生なのだし、試験が近いのであれば勉強すること自体はまったくおかしな話ではないのだ。
それに、部屋で彼女と二人きりになると言っている訳でも……
……しまった、もしかすると今回は二人きりになれるかもしれないのだった……
健斗がとても重要な事を思い出して思わずそのまま固まっていると、周りの外野が騒ぎ出していた。
「小林って凄い可愛いよな…… すげー羨ましい……」
「くっそう、ズルいぞ、お前ばっかり好い目に会いやがって!!」
「うおぉ、俺も彼女が欲しいー」
「小林さんって、ふたりでいる時はどんな感じなんだよ?」
健斗は自分の発言が原因で周りに騒がれてしまい、うんざりとした顔をするとムッツリと黙り込んでしまった。それからもう誰の質問にも答えようとはしなかった。
その一方、後ろで今の話を密かに聞いていた七海は、次の休み時間に桜子に話を聞きに行こうと目を輝かせていたのだった。
「ねぇ、桜子ちゃん、ちょっと小耳に挟んだんだけど……」
「なぁに、七海ちゃん、どうしたの?」
「今度の日曜日、彼氏と二人きりで勉強するんだって?」
そう言いながら七海はなんだか楽しそうな顔をしている。普段は大人しくてふんわりしている彼女だが、意外とこの手の話が好きなようだ。
そしてもちろんこの話には、美優と琴音も興味津々な様子で食いついてくる。
「えっ? なに? 木村君と二人きりでナニするって?」
「だ、だから勉強だってば、もう…… ねぇ七海ちゃん、一体その話、誰に聞いたの?」
半ばからかう様な口調の美優に対して、桜子は何か言い訳をするように返答している。べつに二人で一緒に勉強すること自体は悪い事ではないはずなのだが、何か後ろめたい事であるのだろうか。
「えーと、教室で木村君が友達と話しているのが聞こえて来たんだけど」
「えぇ!? 健斗が? なんでそんなことを言い触らして……」
桜子が急に怪訝な顔をし始めたので、七海は慌てて説明を追加した。
「あっ、べつに木村君が言い触らしているとかじゃなくって、友達に上手く喋らされたというか、誘導尋問に引っかかったというか…… とにかく木村君は悪くないから許してあげて」
そんなに健斗の事を庇うくらいなら、態々ここに来てそんな話をしなければいいだけなのにと、その場の全員が思ったのだが、それについては誰も何も言わなかった。
「えっ? べつに二人きりになってもいいんじゃないの? 二人は付き合ってるんだから。なにか変?」
そこで横にいた琴音が真顔で口を開いたのだが、そこに全員の視線が集まった。突然全員に注目された琴音は、少したじろいでいる。
「だ、だって、お互いに好きなら二人きりになりたいって思うでしょ? あたしは思うけど……」
若干後退りしながら琴音が答えた。普段よりも少し声が小さいようだ。
「まぁ、そうだけど。でも、男の子って彼女と二人きりになったら色々と我慢できなくなるんじゃないの?」
何かを思い出すように美優が訊ねる。
彼女はこれまで異性と付き合ったことが無いので、雑誌で読んだ知識だけで話を展開しようとしているようだ。
そして、琴音と美優の会話には桜子も興味津々で聞き耳を立てている。
「我慢って…… 確かにまぁ…… 我慢できなかったみたいだけど……」
琴音が何か含みを持たせた発言をしているのだが、こんな周りに耳が多い教室で話してもいい内容なのだろうか。
最近の桜子は、佐野琴音と話をすることが多くなっていた。
琴音は1年7組なので3組の桜子の教室からは少し離れているのだが、昼休みなどに態々桜子の教室までやって来て、彼女と雑談をするようになった。
相変わらず琴音の体格は小柄で身長は143センチしかなく、少し鋭い大きな瞳は顔全体を幼く見せている。ただでさえ幼く見える彼女の体形は出るところも引っ込むところもほとんどない、まさに幼児体型だ。
最初に出会った時の印象は最悪だったのだが、こうして親しく話してみると、意外と彼女は女の子らしい性格をしていて、案外可愛らしいのだ。もっとも、凄まじく気が強くて手が早いのが欠点なのだが。
しかし恋人の剛史は彼女のそんな気の強いところと暴力的なところが好きなようで、他の女の子にはない魅力として映っているようだ。なんとも倒錯的ではあるが。
そしてそんな琴音とは美優や七海たちも仲良くなって、今では放課後に一緒に寄り道するほどの仲だった。残念ながら桜子は、家の手伝いがあるので放課後にすぐに帰ってしまうのだが、琴音からはいずれ近いうちに一緒に遊ぼうと言われているのだった。
「……ねぇ、ちょっと訊いていい? 佐野さんの彼氏…… 松原君だっけ? もしかして彼とはもう……」
「……だ、だって、彼に求められたら断れないじゃない……」
美優の質問に対して、琴音はそこまで答えると顔を真っ赤にしてそのまま黙り込んでしまった。彼女のその様子が、美優の質問の答えだった。
そんな彼女を見た桜子も、何を想像したのかわからないが顔を真っ赤にしていた。
「そ、そうなんだ…… もしかしてこの中で一番進んでいるのは佐野さんみたいだね…… 」
美優のその感想に、進むもなにも、お前は彼氏すらいないではないかと、この中の誰かが思ったのだが、それが誰かは秘密だ。
今は近くの席の女子も交えて総勢6名で話をしているのだが、その中でも一番幼く見えて、背が低い幼児体形の琴音が一番異性経験が進んでいるという事実に、皆意外そうな顔をしていた。
そのころ健斗は、1年8組にいる松原剛史のもとを訪れていた。
部活で一緒に練習をして剛史から柔道を学ぶことが多くなった最近の健斗は、彼ともそれなりにプライベートな話もするようになっていて、多少はお互いに信頼し合う仲になっている。
確かに剛史の性格は癖が強くて付き合い辛い部分はあるのだが、細かい事に拘らないあっさりとした男らしい性格は、健斗としても好ましく思っていたのだ。
「なぁ、松原、ちょっと教えてくれ」
そんな剛史のもとにやって来た健斗の顔は、ひどく何かを思い悩んでいるように見えた。
しかし剛史は、健斗のそんな顔はもう見飽きてしまったようで、特別何か思うことも無いような様子だ。
「おぉ、木村、どうした? また何か悩み事か? 柔道のことなら来週の試験が終わってからにしてくれ」
「い、いや、柔道の事じゃないんだ。えぇと、そのぅ……」
健斗が何か言い淀むなんて珍しい、剛史の顔にはそんな表情が浮かんでいる。
「なんだよ、お前らしくない。はっきり言えよ」
「お、女の子の事なんだが…… 彼女と二人きりになったらどうしたらいい?」
思わず剛史は、そんなくだらない事を訊くな、と思ったのだが、健斗の顔を見ると彼が至って真面目に尋ねていることがわかった。
剛史は仕方ないと小さく溜息を吐くと、彼も真面目な顔で健斗の質問に答え始める。
「……なんだ、お前たちまだ二人きりになった事がなかったのか? なんて健全な奴らだ」
「……面目ない」
「いや、べつに謝る必要はないが…… まぁ、しょうがない、俺様が教えてやろう。感謝するんだな」
「……すまん」
「よし、個室で彼女と二人きりになったシチュエーションだな。そうだな…… まずは真横に座れ。肩が触れ合う距離だぞ」
「わ、わかった」
「それから、さりげなく肩を抱き寄せろ。柔らかくだぞ」
「あ、あぁ……」
「次に雰囲気を盛り上げながらキスをしろ。いいか、ゆっくりと何度も、優しくだぞ、わかるな?」
「う、うん……」
そこまでなら何とかできそうだと健斗は思っていたのだが、問題はその先だった。
健斗はその先を訊きたかったのだ。
「そろそろ彼女の目が潤んでくるはずだ。そしたら次は……」
「お、おぅ」
健斗はゴクリと唾を飲み込んだ。
「乳を揉め」
「ぶっ!!」
初めて桜子と二人きりになるので、さすがに健斗としてもそこまでの事をしようとは思っていなかった。本当はキスをした後のソフトな展開を聞きたかったのだが、すでに琴音とは最後まで経験済である剛史にとっては、そんな事は通過点でしかなかったのだ。
「い、いや、今回はそこまでの事をするつもりは……」
健斗が口ごもりながらモゴモゴと若干小声で説明をしていると、剛史に背中をパシンと叩かれてしまった。
「何を言ってる? 男なら志は常に高く持たねばならんのだぞ? 今はまだその時ではないと言っていても、いずれ必ずその時が来るんだ」
「た、確かにそうだが…… しかし、何もそんな急に……」
「急ではない。仕事だって『段取り八分・仕事二分』というだろう? いいか? 準備は常に万全でなければならない。いずれお前は彼女の乳を揉む時が必ず来る、つまりはそういう事だ」
「い、いや、仕事じゃないし…… それになんか違わなくないか、それ」
「いや、同じだ。俺が言っているのは心構えの話なんだぞ。それに、『千里の道も乳から』と言うじゃないか。何事も恐れてはいけないという事だ。危ぶむなかれ、行けばわかるさ……」
「いや、それは絶対違うだろ……」
剛史に訊いた自分が馬鹿だったと、健斗は後悔していた。
その日の放課後も、健斗と桜子は一緒に帰っていた。
いつもは桜子が楽しそうに話をして、それに健斗が相槌を打つという姿なのだが、今日の帰りは妙に口数が少なくて二人とも何かそわそわしているように見える。
それはまるで付き合い始めの初心なカップルを見ているようで、お互いに意識してしまっているようだった。
実は二人ともそれぞれの友達から、彼らが二人きりになる時の事を色々と言われていて、それを妙に意識してしまっていた。冷静に考えると恋人同士が二人きりになる事など大したことではないのだが、周りの友人たちに散々騒がれたせいで、何となく大事のように錯覚していたのだ。
「それじゃあ、明後日の10時ね。ふふっ、ちゃんと起きれる? モーニングコールしてあげよっか?」
「だ、大丈夫だよ、さすがにそんな時間まで寝てないって。それじゃあ明後日、よろしく」
「うん、待ってるね。勉強道具を忘れないでね。うふふ」
駅から仲良く歩いて来た二人は、桜子の家の前で少しじゃれ合っていたが、桜子にはこの後店番の仕事があるので、健斗は名残惜しそうに何度も振り返りながら自宅へ帰って行った。
そんな二人の様子を店の中から眺めていた楓子は、ホッと小さな溜息を吐きながら安心したような微笑を浮かべている。
痴漢事件の後の桜子は何事もなかったかのように気丈に振舞ってはいるが、彼女の心が深く傷ついている事は母親の楓子にはよくわかる。
あれから制服のスカートは元の長さに戻したし、道を歩いている時や電車に乗っている時も常に背後に男性がいないかを気にしている。確かにそれ以前の彼女は少し無防備過ぎたきらいはあったのだが、それにしてもいまの桜子は少し異常ともとれる警戒感を発していて、ある種の神経症患者のようにも見えるのだ。
あれだけの美貌を誇る我が娘なので、確かに無防備でいるよりは警戒してくれていた方がよっぽど安心できるのだが、いまの過剰とも言える状態は親として少し心配になってしまう。
それを多少でも癒してくれそうなのが健斗の存在で、最近は楓子としても彼を信頼して桜子を少し任せてみようかと思っているのだ。
桜子が彼を全面的に信頼しているのは間違いないし、親の目から見ても健斗は信頼するに足る人間だ。しかし二人は恋人同士の年頃の男女なのだから、うっかり何か間違いが起こらないとも限らないのだが、そこは親として二人を信頼してあげるしかないのだろう。
もちろん親としては、大事な一人娘に間違いが起こらないように最大限の注意を払うのはもちろんなのだが、もしも仮にそういう事になったとしても、決して二人を責めないでいてあげよう。
楓子は自分が女子高生だった頃の事を思い出しながら、彼ら二人の事をずっと考えていた。




