第114話 勉強の約束
広報室長とコンプライアンス室長の二人に名指しで追及された遠藤は、もう隠すことはできないと悟って自身が引き起こした痴漢事件の内容を正直に話すことにした。
今回の事件に関しては明らかに遠藤の故意の犯行なので、それを擁護する要素は微塵もないのだが、それでも彼の言葉の端々には自分を庇ったり正当化するような言葉が混じっていて、それを聞いていた二人には彼が全く反省しているようには見えなかった。
「とんだ破廉恥な事件を起こしてくれたものだな。しかも君はすでに起訴されているそうじゃないか…… ところで裁判はいつ始まるんだね?」
「……まだわかりませんが、これから1ヵ月以内には、恐らく……」
「ふぅ…… それで、遠藤部長の先ほどの言葉に嘘はありませんね? 確かに痴漢をしたんですね?」
深沢の口調がさらに厳しくなり、すでに相手を詰問するような強い口調になっている。
「……はい、やりました……」
遠藤は下を向くと消え入るような声で答えたのだが、その声は注意していないと聞き逃しそうなほどに小さかった。その姿には、将来を約束されて自信に満ち溢れていた以前のような尊大な態度は全く見えない。
「昨日、新聞社が教えてくれたよ。君は下手をすると実刑かも知れないんだってな。相当悪質なのかね。それで深沢室長、こういう場合はどうなるんだ?」
「はい。現在遠藤部長は公判の開始を待っているところです。すでに起訴事実は認めていて、あとは情状を争うだけだとも聞いています」
「それで?」
「その場合、我が社の就業規則第72条により、解雇とすることができます」
「えぇぇ!! ちょ、ちょっと待ってください!! そんな乱暴な!!」
「乱暴って…… 君だって16歳の女子高校生に乱暴をはたらいたって言うじゃないか。どちらが乱暴なんだね?」
「い、いや、しかし、まだ裁判も始まってないし、判決だってまだ……」
「判決と言っても、すでに有罪は確実で、あとは執行猶予がつくかどうかの話でしかないと聞いていますが」
「君だって人事部長なんだから、就業規則くらい知っているだろう。なんせ君は社員にそれを読み聞かせるほうの立場なんだからな」
「し、しかし…… そ、そうだ、それなら退職金はどうなるんですか? まだ懲戒解雇じゃないんだから、当然出るんですよね?」
遠藤の目に一瞬光が戻る。
しかし、次の深沢の言葉が彼の最後の希望を粉々に打ち砕いた。
「就業規則第79条、『退職金支給前に、在職中に懲戒解雇に相当する行為を行ったことが発覚したときは、退職金を支給しない』 意味がわかりますか?」
最早遠藤の顔は青を通り越して真っ白になり、口もだらしなくパクパクと動いているだけだ。それでも彼はなんとか二人に縋りつこうとしている。
「そ、それはあまりにも…… 酷い…… な、なんとか助けて下さい……」
「酷いのは君の方だろう、こんなに社名に泥を塗るような事をやっておいて、報告も無かったんだからな。しかもマスコミに教えられるまでこちらが把握していなかった事を、我々の落ち度だと言って経営陣に責められたんだぞ」
「まぁまぁ、落ち着いて下さい、関根室長。しかし、遠藤部長のこれまでの会社への貢献を考えると、多少の温情は必要かもしれませんよ」
深沢の眉間の皺がさらに深くなる。どうやら彼は本心ではそう思っていないようだ。
それでも深沢の言う「温情」という言葉に、遠藤の顔が少し明るくなった。
「遠藤君、どうだろう? 今この場で退職届を書いてくれるなら、諭旨退職扱いにしてもいいと思っているんだが」
「た、退職届…… い、いまここでですか?」
遠藤の額が脂汗でやたらと光っている。その様子を汚らしいものでも見るかのような顔をしながら、関根が吐き捨てる。
「私の言葉が聞こえなかったのかね? いま、ここで、だ」
「し、しかし、うちにはこれからお金がかかる子供がいて……」
ふぅ、と、もう何度目かわからないため息を吐きながら、深沢は諭すような口調でゆっくりと告げた。
「この処分が不服だと言うのなら、諭旨解雇、もしくは懲戒解雇にすることもできますが、どうしますか? 今、ここで決めて下さい」
「た、退職金は……」
「ご心配なく。もちろん定年まであと2年務め上げる場合に比べれば少なくなるでしょうが、諭旨退職扱いなら退職金はきちんとお支払いしますよ。さぁ、決めて下さい、いま、ここで」
遠藤は深沢のその言葉をまるで死刑宣告のように受け取りながら、がっくりと肩を落とした。そして頭を下げて二人の室長の顔を見ることが出来ないまま、小さな声で返事をした。
「はい、承知しました。すぐに退職届を提出いたしますので、少しお待ちください……」
遠藤の退職届を受け取った二人の室長は、彼には何も声をかけることなくそのまま本社へと引き上げて行った。
遠藤はそんな彼らの後ろ姿を見送ると、すでに全ての事情を把握した部下達に陰口を叩かれながら、私物を小さなダンボール箱に詰めている。
そのダンボールはそれほど大きくないのだが、それでも中身がスカスカなほどに彼の荷物は少ない。まるでこの会社に捧げた彼の36年間の人生の中身も、所詮この程度の物だったのかと思える程の量の少なさだった。
小さなダンボール箱を抱えて、もう二度と潜ることがないであろう会社の玄関から、足を引きずるようにして出ていく。
会社の誰一人からも見送られることのないまま、会社から去って行く遠藤の背中はとても小さく見えて、これがあの将来は専務、副社長と噂されていた男の、諦めきれずに自らのキャリアにしがみついたが故の惨めな末路だと思うと、多少は憐れみを誘うのだろうか。
翌日、遠藤の退職届が受理されるのとほぼ同時に、彼の名前は新聞とテレビニュースによって報道された。もっとも扱い自体はさほど大きくはなかったのだが、それでも全国紙の新聞に名前が載ったのだ。
遠藤の勤め先はそれなりに名の通った全国規模の商社だ。たとえ支店の人事部長クラスとは言え、このご時世に痴漢犯罪で逮捕、起訴でもされれば新聞の片隅に名前ぐらいは出てしまう。それでも新聞に載った時の彼の肩書は、すでに「元社員」というものになっていたのだが。
いくら新聞での扱いが小さいと言っても、自宅の近所の間ではすぐに噂になったし、もちろん家族の耳にもすぐに入るところとなってしまった。
罪状が「痴漢」というとても恥ずかしいものなので、妻も娘も近所や学校に顔向けすることができず、それからしばらく自宅に引きこもるような生活となっていた。
遠藤が会社を退職してすぐに、刑事が自宅にやって来るとそのまま彼を逮捕して行ったのだが、それは別の痴漢被害者から被害届を出されたからだった。
新聞の報道を見た過去の被害者が名乗り出て来て遠藤を訴えたことで、事態を重く見た検察は彼を再度勾留することにしたのだ。
起訴後の勾留期間には特に定めがないので、公判が始まるまで遠藤は今もまだ身柄を拘束されたままになっている。
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6月中旬。
痴漢事件から1ヵ月が過ぎた。
あれから桜子は元の明るい彼女に戻っていて、普段の彼女の様子からは事件の影響はもうほとんど感じることはないので、周りの友人たちも彼女に変に気を遣ったりしなくなっている。
それでも桜子は時々後ろを気にしたり、知らない男性の近くに寄らないようにしたりと、事件前に比べると明らかに周りを警戒するようになった。
6月1日から高校の制服が夏服に変わったのだが、桜子は上がブラウスだけだと胸の膨らみが目立ちすぎるので、その上から常にサマーベストを着用している。それでも胸の部分は常にパツンパツンなのだが、ブラウスだけでいるよりも多少はマシなのだった。
相変わらずスカートの丈はひざ下10センチのままで、スカートの中にきっちりと白いブラウスの裾を入れて、その上からサマーベストを着た姿は、まさに「清楚」を地で行く姿で、それはそれで特定の趣味の男性の目をとても引きそうだ。
そんな清楚系巨乳美少女の桜子なのだが、その格好で電車に乗る時は常に壁に背をつけて背後を守り、胸にはバッグを抱えて隠していて、その神経質そうな姿は傍から見ていても彼女には一分の隙も無いのだった。
一学期の定期試験が近付いて来た。
いくら進学校ではないと言っても、やはり試験の一週間ほど前から皆ピリピリした雰囲気になっているのだが、その中でも桜子だけはとても嬉しそうな顔をしていた。
それは健斗の部活の朝練が試験の一週間前から休みになって、3日前からは放課後の練習もなくなるからだ。桜子はその間は毎日健斗と一緒に登下校できるのが嬉しくて、今日も朝から満面の笑みを浮かべている。
「健斗、おはよう。夕べはちゃんと勉強した?」
「おはよう。勉強は…… して…… いないような気がする……」
朝に小林家に迎えに来た健斗に早速桜子が問いかけたのだが、彼はなんだか気まずそうな顔をしている。
「……その顔は……もしかしてまた寝落ちしちゃったの?」
「う、うん、ごめん、昨日約束したのに、また寝ちゃって…… なんか教科書を開くと睡魔に襲われるんだよな」
「確かにわかるけど…… そうだ、今度の日曜日に一緒に勉強しようか? うちにおいでよ」
日曜日は小林酒店は休みなので、桜子は一日フリーなのだ。
年頃の少女が休みの日に一日フリーというのも少し悲しいものがあるのだが、実際に彼女には特に用事が無いので何も問題はなかった。
「えっ…… うーん、お前と一緒にいられるのは嬉しいけど…… 一日勉強かぁ……」
「ううん、べつに一日中勉強しなくてもいいよ。集中力だってそんなに続かないしね」
桜子の顔がとても楽しそうだ。それを見ていた健斗も釣られて笑顔になっている。
「もちろん勉強もちゃんとするけど、ふたりでお話したり、映画を見たりもできるでしょう? ……あれ? これってもしかして、お部屋デートなのかな、えへへへ」
桜子は自分で言っておきながら勝手に頬を赤らめている。
「そ、そうだな。ここのところゆっくりお前と話も出来ていなかったし、ちょうどいいかもしれないな。わかった、日曜日に行くよ」
健斗もまた桜子に釣られて頬を赤らめている。
「それにね…… 高校生になったから、あたしの部屋でふたりきりになってもいいって、お母さんが言ってくれたの」
「……まじか……」
その時健斗の脳裏には何が過ったのだろうか。それは彼にしかわからない事だった。
そんな彼の様子を見た桜子は、急に慌てたように顔の前で手を振った。
「だ、だからって、エッチな事とかしちゃダメだから!!」
「わ、わわ、わかってるよ!! そんな事しないよ!!」
咄嗟の桜子の反応にまさか心を読まれたかと思って焦った健斗だったが、さすがにそれは考え過ぎかと考え直した。しかし彼も健康な若い男子であるので、そういう事に興味がないかと言えば全くの嘘になる。いや、むしろ興味津々だったりする。
「それじゃあ、日曜日。10時でいい? お昼はあたしがご馳走してあげる」
「やった!! わかった10時な。楽しみだよ」
健斗には珍しく、少しニヤニヤしたような顔をしている。彼がそんな顔を見せるのは桜子だけで、他の友人たちの前では絶対にしない表情だ。
そんな彼の顔を、桜子は若干ジトっとした目で見ていた。
「……あくまでも、勉強が目的だからね? 勘違いしたらダメだよ?」
こうして次の日曜日に健斗は桜子の部屋で一緒に勉強することになったのだった。




