第113話 招かれざる客
5月下旬。
昨日示談の交渉をしてきた加害者側弁護士、山田雅臣から今日の夕方に電話が来ることになっていた。
そのため、楓子はまた弁護士の青山と打ち合わせをしていた。
「……という事で、示談には一切応じないという事でいいですね?」
青山が念を入れて楓子に確認をしてくる。
青山のその聞き方は、彼自身もそうするべきだと思っているように聞こえて、楓子の決心を後押しするように感じた。
「ええ、もちろん。あんな最低な事をした自分の罪なんだから、その身をもって償えばいいんだわ。あの子が味わったあの酷い仕打ちを、お金を払うから許せだなんてあまりにも人を馬鹿にしてる」
昨日の示談の提案からもう一夜明けているというのに、いまだに楓子は憮然とした顔をしている。
「それでは、示談には応じないということで。つぎに傷害事件の件ですが…… 昨日はあの弁護士に脅されましたが、実際には恐らく訴えてはこないんじゃないかと私は思いますね。もし腹立ち紛れに訴えてきた場合、それは最早嫌がらせ以外の何物でもないでしょう」
昨日の山田の言う通りならば、桜子側が示談に応じない場合、逆にむこうが傷害罪で訴えてくるかもしれない。しかし被害者側が示談に応じないという事は、加害者の起訴と有罪も間違いないということになるので、いまさらそんな事をしてもただ面倒なだけで、あちら側に全くメリットはないのだ。
だから青山には山田がそんな無駄な事をするとは思えなかったし、恐らくあれは只のはったりに過ぎないと思っていた。
「まぁ、今回の脅しの件は今後の裁判で明るみにしてやりますよ。きっと裁判官の心証は最悪でしょうねぇ。痴漢なんて卑劣な事をしておきながら、挙句に被害者を脅したんですから」
「黙って聞いていると、なんだか腹が立ってくるわね……」
「とりあえず電話を待ちましょう。思いっきり吐き捨ててやりますよ、有罪おめでとうってね」
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弁護士の山田は頭を抱えていた。
起こした事件の内容を考えると、示談の成立には相当高額な示談金が必要だろうと思ってはいたのだが、そもそも示談自体をあんなに強硬に拒絶されるとは思っていなかったのだ。
切羽詰まって、ダメもとで脅しをかけて見たのだが、同席していたあの弁護士の態度を見ていると恐らくそれも不発に終わりそうだ。
もとより被害者に過失は微塵もなく、一方的にこちらが悪いのだ。
体が大きくて力も強い大人の男が、16歳のか弱い少女の身体を無理やり触るなど、もしも山田が裁判官だとしても速攻で有罪にするような案件だ。
それを無傷で終わらせようとする事自体があまりにも虫の良すぎる話だし、山田も長い事この仕事をしてきたが、これほどまでに絶望的な状況からスタートした弁護は経験したことがなかった。
「山田さん、示談交渉はどうだった? もちろん勝ち取ってきたんだろうな?」
あれだけの犯罪を犯したにも関わらず、まったく悪びれる様子も無く遠藤は横柄な態度を崩さない。
「……いや、相手は全く聞く耳を持っていなかったよ。それどころか、金で解決しようとしている、なんて言って母親が怒り狂っていて。これは示談は無理だね」
「お、おいっ!! どうするんだよ!? それじゃあ、俺は……」
山田の答えを聞いた遠藤の顔が、絶望に染められて青くなっていく。
「うーん、脅しも効かなさそうだから、これは厳しいと思うなぁ。恐らく起訴は免れないから、あとは執行猶予を勝ち取るしかないけど……」
「執行猶予と言ったって、有罪は有罪なんだろ!? それはヤバいだろ」
「ヤバいったって、あんたが自分でした事じゃないか…… なんなら早いうちに退職届を出すことをお勧めするよ」
山田の特徴としてどんな時でも冷静で淡々としているというところがあり、相手によってはそれを見せないようにするために、額の汗を拭ったり、焦ったりする演技をしているのだ。
遠藤は、そんな彼を気に入って会社の顧問弁護士として紹介したのだが、まさかいま、自分に対して冷淡に「辞職しろ」と言うとは思わなかった。
「なにぃ、退職届だってぇ!? なんで俺が会社を辞めないといけないんだよ!?」
「いや、だからこの件はいずれ会社にバレるだろ。それで懲戒解雇にでもなってごらんよ、退職金も全部パーだよ。そうなる前に自分から辞めるべきだと思うけどね」
「ぐぬぬぬ…… なんとか他に道はないのか? それを探すのもあんたの仕事だろ!!」
「だからもう無理だって。退職金が貰えるうちに会社を辞めるのが最善だね。下手したらあんた実刑食らうかもしれないよ」
「実刑」という言葉を聞いた途端、遠藤はまた顔を真っ青にして呻き出した。あれだけの事をしておきながら、自分が罰を受けるのは相当嫌なようだ。
そんな彼の姿を見つめながら、山田はボソッと呟いた。
「あぁ、もうこの人はダメだな……」
夕方になると、約束通り山田弁護士から電話が来たので、青山が楓子の代理人としてその対応にあたった。楓子は電話で話す青山の対面に座って真剣な顔をして彼を見つめている。
「昨日の提案の件ですが、いかがでしょう? あれからお考えは変わりましたか?」
山田の声は相変わらず冷静で淡々としていて、まるで出前の注文の確認のような口調だ。
「あぁ、昨日はどうも。時間をかけてもしょうがないので単刀直入に言いますが、示談はお断りいたします。どんなにお金を積まれても一切応じる気はありませんので、そうお伝えください」
青山がそう言うと、一瞬返答に間があった。
「……そうですか、それは残念です。それでは昨日の傷害罪での告訴の件ですが、こちらの好きにしても?」
「えぇ、どうぞ、好きになさってください。しかし一応言っておきますが、彼女を告訴しても無駄ですよ。絶対に罪には問えない理由がありますからね」
「……それはどういう意味ですか?」
「そんな事こちらが教えるわけないでしょう。どうしても訴えたいのなら、ご自分で調べてみる事ですね。とにかくこれで話は終わりです。このまま起訴される日を楽しみに待っていてください。それでは」
あれだけ脅しておきながら、結局山田は桜子を傷害事件で告訴することは諦めた。
それはもうこの時点でそんな事をしても全くの無駄であるという事が一番大きかったのだが、実は山田もこれ以上桜子を虐める事に、良心の呵責を感じていたのだ。
もとより全く責任のない16歳の少女が、大人同士の駆け引きの場で翻弄されるのをとても気の毒に思っていたし、プロの法律家として依頼人のために動いてはいるが、できればもうこの案件からは手を引きたいと思っていた。
それでも電話で青山に言われたことがとても気になった山田は、単なる好奇心で桜子の過去の事を調べてみた。するとそこで浮かび上がってきたのが、彼女が患う「解離性同一性障害」だった。
個人情報なのでさすがに詳しい事まではわからなかったが、彼女が過去に病院でカウンセリングを受けていた事も、当時のカルテが存在している事も事実らしい。そして今回の傷害行為をはたらいた時にも彼女が別人格になっていた可能性が高いのだ。
過去の判例にも「解離性同一性障害で別人格になっている時は心神喪失と同義であり、責任能力の欠如から罪には問えない」というものがあり、もしも事件当時の桜子が別人格に支配されていたのなら、彼女には責任能力がないとして訴えそのものが却下されるのは間違いなかった。
この時すでに、山田は遠藤の弁護に全くやる気が無くなっていたのだが、それでも何とか執行猶予くらいは最低限引き出してやろうとは思っていた。
その二日後、遠藤は在宅のまま検察に起訴された。
その数日後、遠藤が会社で仕事をしていると、来客の知らせがあった。
その客は本社の広報室長の関根とコンプライアンス室長の深沢の二人で、両者とも遠藤とは顔馴染みの間柄で、本社への出張の際に何度か一緒に飲みに行った仲だ。
「やぁ、二人とも突然どうしましたか? 本社から態々、おいでになるとは。出張の途中か何かですか?」
遠藤がよそ行きの声と顔で二人を歓迎していて、彼が普段に部下に見せている顔とはまったく違っている。
関根も深沢も遠藤にはアポなしで訪問して来たのだが、事前に遠藤の部下へ彼の出勤状態について確認していて、遠藤が確実にいる時間を選んでやって来ていた。
「どうも、遠藤部長、調子はどうですか?」
「やぁ、遠藤君、随分と派手に怪我をしているようだが、どうしたのかね?」
遠藤は目の前に座っている関根と深沢の顔を交互に見ながら、何となく嫌な予感がした。広報室とコンプライアンス室のトップが並んでやって来るなど、そうそうある事ではない。
そして次の瞬間、彼の脳裏にある予感が浮かぶと、まるで背中に冷水を浴びせかけられたような感覚に襲われた。
遠藤が自分の想像に勝手に戦慄を憶えていると、深沢が応接室の中を見回してから徐に口を開いた。
「単刀直入にお聞きしますが、遠藤部長、なにか我々に隠している事はありませんか? 正直に仰ってください」
そう言いながら深沢の目が細くなっていく。物腰はとても柔らかいのだが、その表情からは有無を言わせぬ迫力が感じられる。
「正直に言った方が身のためだぞ、遠藤君。まずは君の口から話してもらおうか」
関根の口調も幾分きつめになっている。彼の表情も深沢と同じように厳しくなっている。
「な、なんのことでしょうか? 私にはさっぱり……」
すでに遠藤にはこの二人が訪れた理由がはっきりとわかっていたのだが、それでもなお白を切り通そうとする。しかし、その途中で関根に話を遮られた。
「遠藤君、正直に言えと言っただろう。まだなにか誤魔化そうとしているのか?」
「遠藤部長、我々の方から言われなければわかりませんか? その態度が後々に影響しなければいいですね」
深沢の口調は非常に丁寧だが、その丁寧さが逆に不気味で、その眼光は相変わらず鋭いままだ。
そんな深沢の声を横で聞きながら、関根は小さく溜息を吐いた。
「いや、もうまどろっこしい事はやめにしよう。いいかい、遠藤君、昨日の事なんだが、新聞社から問い合わせがあってね。どうやらうちの社員で痴漢行為をはたらいて逮捕、起訴された者がいるらしいんだが、誰だか知っているかね?」
関根の目は鋭く細められ、遠藤の顔を正面からまるで射抜くように見つめている。遠藤はその目を真っすぐ見ることが出来ずに、目を忙しなく動かしている。
「そ、それは……」
「君だよ、遠藤君。新聞社から君の事を把握しているのかと訊かれたんだよ。こちらは全く把握していなかったから、とんだ恥をかいてしまってね。さぁ、そろそろ話してもらおうか」




