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第112話 いまの自分にできること

「こちらとしましても、傷害事件として逆にそちらを訴えることもできるんですよ?」


 最後に言われた山田の言葉が楓子の脳裏にこびりついて離れない。

 とても慇懃(いんぎん)な言い方だったが、早い話が示談の話を断るのであれば逆に傷害罪で訴えると脅してきたのだ。


 結局明日の夕方に先方から電話をして来る事になったのだが、楓子はまさかこの状態で自分たちが逆に相手から訴えられる事態になると思ってもいなかったので、思わず動揺してしまっていた。


 先日の実況見分の際に事件の再現を楓子も一緒に見ていたのだが、確かにあれは秀人が犯人を一方的に痛めつけているようにしか見えなかったし、その時の刑事の呟きでも「これは少しやり過ぎだ」という言葉は聞こえていたのだ。

 これはやはり傷害罪で訴えられてしまうのだろうか。


 桜子の事を思えば示談なんて絶対にあり得ないのだが、その反面、彼女が傷害事件で訴えられるという事はとても心配だし、ただでさえ精神的な負担が大きい今の状態に、さらにこれ以上のストレスを与えたくはなかった。




「青山さん、大丈夫なんでしょうか? あちらも訴えると言ってきましたけど……」


 ちょっと前まで激高していたのが嘘のように不安そうな顔をした楓子が、宙を見つめて何やら考えている青山に問いかけた。

 まるで脅しともとれる山田の提案に対して、青山が何も言わなかった事を楓子は不思議に思ったのだが、彼にはきっと何か考えがあるのだろうと思ってその時は敢えて何も言わなかったのだ。



「まぁ、言わせておけばいいんですよ。どうせ彼らは何もできないでしょうからね。本当は告訴状が受理されない事を願いたいのですが、彼も弁護士ですから、無理やりねじ込んで来るでしょう」


 青山は楓子を安心させるために、わざと鼻で笑うような表情を作っている。


「そうすると、どうなりますか?」


「お嬢さんは未成年なので、『起訴』ではなくて『審判』と言うのですが、最終的には審判不開始でしょうね。家裁の判断で審判を開始しないということです」


「それは、どういう……」


態々(わざわざ)裁くほどの事ではないということです」


「じゃあ、大丈夫…… という事ですか?」


「裁判所だって鬼じゃないんですから、痴漢被害者の少女が多少相手を殴ったからって一々裁いたりしませんよ。安心してください」


「さっきの弁護士…… 山田さんはそれがわかっているのにどうしてあんな事を言ってきたんでしょう?」


「あぁ、あれはただのはったり、コケおどしですかね。私がいる前で、よくもまぁあんなことが言えたもんです。敢えて何も言わずに反応を窺っていましたが、さすがにボロは出しませんでしたね。でも今頃焦りまくってるんじゃないですか?」


 青山がニヤリと少し悪そうな笑みを漏らすのを見た楓子は、これはどうやら大丈夫そうだと思って安心したのだった。



  

 ----




「おい木村、お前、桜子ちゃんとはどうなってるんだ?」 



 柔道部の練習の休憩時間、剛史が健斗に突然話しかけて来た。


 健斗と彼は1年越しの因縁があったので、柔道部への入部当初は一緒に練習はするがプライベートの会話はほとんど無い状態だった。

 それでも最近は同期部員という事もあって一緒に行動することも多かったし、柔道の事に関しては健斗の方から積極的に質問することも多く、いまでは練習の合間に軽い雑談をするような関係になっていた。

 もっとも健斗がとても無口な(たち)なので、話しかけるとしても殆ど剛史の方からだったのだが。



「どうって、なにがだ?」


 健斗が剛史の質問に怪訝な顔をした。


「何がって…… お前、ちゃんと彼女のフォローしているのか? あんな事件があった後だぞ、ギュッと抱きしめてあげたり、肩を抱いたり…… 彼女が安心するようなスキンシップをしているのかって訊いてんだよ」 


「……」


 剛史の言葉に健斗は考え込んでしまう。

 たしかに『大丈夫か』と何度も声をかけてはいるが、剛史の言うように彼女の身体に触れたり、抱きしめたりはしていなかった。

 健斗としてももちろんそういったことを考えなかった訳ではないのだが、あんな事件があったばかりなので、桜子が男に身体に触れられるのを嫌がるかと思って敢えてそうしなかったのだ。

 


「はぁ…… だからお前はヘタレなんだよ。どうせ何もしてないんだろう? 彼女が嫌がるかも、なんて思ってるんじゃないだろうな?」


 図星だ。

 なんでこの男はそこまで心の中が読めるのだろうか。

 健斗は本気で剛史の事が恐ろしくなった。



「……でも、いま桜子は凄く傷ついているから、そっとしておいてあげたくて……」


「お前は馬鹿か? 彼女の事なんて周りの全員がそっとしているだろ。そこでお前までそっとしてどうすんだよ? せめてお前ぐらいガッツリ抱きしめてやれよ。できんだろ、そのくらい」

  

「で、でも……」


「お前さぁ、彼女が本気で嫌だと思ったら、嫌って言うだろ。それにもし嫌われたって、そのくらいで終わってしまうような仲じゃないだろ?」


「そ、そうだな」


「とにかく、彼女にお前の胸を貸してやれよ、わかったか!?」


 そこで休憩時間が終わったのでそれ以上の話は出来なかったのだが、健斗としては今まさに悩んでいる事をズバリと言い当てられた気がして、剛史の直感が少し恐ろしくなった。

 そして彼のそういうところが、多くの女子の心を掴む理由なのかと思って妙に納得してしまうのだった。





 事件の後始末や裁判の打ち合わせなどはすべて楓子がしているので、桜子自身はまたいつもの日常に戻って普通の生活を送っている。

 健斗や周りの友人たちが気を遣ったりフォローしてくれたおかげで、最近の彼女はだいぶ笑うようになったし、会話も普通にしていて表面上はもう大丈夫そうに見えた。


 桜子は帰りに一人で電車に乗る時には、バッグを胸の前に抱きしめるようにして持って、常に周りに警戒する様子を見せていた。電車内が込み合う場合には絶対に男性客の近くには立たないし、可能な限り壁に背中をつけて背後を人に晒さないようにしている。


 スラっと背が高く、スタイルも抜群の白人美少女がキョロキョロと周りに目を配りながら、背中を壁に貼り付けて警戒しながら電車に乗っている姿は、それはそれでまた人の目を引いてしまい、これ以上は彼女の美しい容姿を変えない限り、人々の注目を集めないようにすることは無理な事だった。

 それでも帰りはどうしても一人で帰るしかないので、家に着くまでの約30分間は最大限の警戒をしていた。





 その日の夜も健斗は部活終わりの帰宅途中に、小林酒店に寄っていた。

 時刻は19時50分、あと10分で店の閉店時間が迫る中、桜子は忙しそうに動き回っていて、健斗も一緒になって仕事の手伝いをしている。

 

 最近の健斗は慣れたもので、閉店5分前から外の看板や(のぼり)を店内に片付けたり、細々とした事の手伝いをするようになっていて、それだけでも桜子にはとても助かる事だった。

 そんな健斗の様子を横目で見ながら、桜子はとても楽しそうな笑顔を浮かべている。



「健斗、いつもありがとう。こんな遅い時間まで部活も大変なのに毎日寄ってくれて…… お店の事まで手伝わせてごめんね」


 「ごめんね」と言いながらも桜子の顔はとても嬉しそうで、健斗はその顔を見ただけで部活の疲れも吹き飛んでしまいそうだ。


「いや、いいんだ。俺はお前の顔が見たいだけで、勝手に寄っているだけだから」


「うん、ありがとう。はい、お茶だよ、召し上がれ」 


 健斗が差し出されたお茶を飲んでいると、ちょうど閉店時間になったので、ふたりで一緒に入り口のシャッターを下ろした。配達に行っている拓海は左手のガレージに続くドアから入ってくるので、そのまま彼の帰りを待つことにする。

 普段は閉店時間の10分くらい前に帰って来ることが多いのだが、今日は納入品の量が多かったせいか少し時間がかかっているようだ。



 二階のリビングに続く階段の縁に、健斗と桜子がふたりで肩を寄せ合って座っている。

 無人の店内には壁に掛けられた大きな柱時計のカチカチという音だけが響いていて、健斗は彼女とこれだけ近い距離でいることはいつが最後だったかを考えていた。


「なぁ、桜子」   


「ん? なぁに?」


「ごめんな、俺……またお前に何もしてやれなかったよ」


「……仕方ないよ、健斗だっていつもあたしと一緒という訳にもいかないでしょう?」


「そうだけど…… でも、なにか出来る事があったんじゃないかと思って」




 健斗は今日の夕方に剛史に言われた事を思い出して、桜子の顔を正面から見つめていた。

 彼は何か決心したような顔をしている。


「いまの俺にはこんな事しかできないけど……」


 そう言うと、健斗は彼女の頭を自分の胸で柔らかく包み込むと、頭と背中を優しく撫で始めた。

 

「あっ……」


 桜子は健斗の腕の中で一瞬身体を強張らせたのだが、優しく頭を撫でられているとそのまま目を瞑って健斗にされるがままになっている。その顔には柔らかくて安らかな微笑が浮かんでいて、うっとりとした表情をしていた。


 

「あっ、ごめん、俺、汗臭いかも…… 部活の帰りだし」


「ううん、全然汗臭くないよ。……これが健斗の匂いなんだね。男の人の匂い? なのかな」


「いや、きっと汗の臭いかも、ごめん、何も考えずにこんな事して…… 嫌だったら離れてもいいんだぞ」


「全然嫌じゃないよ。むしろとっても気持ちいいかも…… 好きな人に抱きしめられるって、すごく幸せな気持ちになるよね……」



 桜子が目を瞑ったまま小さく呟く。


 最愛の女性に『好きな人』と言われた健斗は、思わず胸が熱くなって頭もクラクラして何も考えられなくなった。そして感情のおもむくままに桜子の顎を掴むと、(おもむろ)に彼女の唇にキスをした。

 それはとても優しい口づけで、お互いの唇の表面が軽く触れているくらいのものだった。

 急に唇を塞がれた桜子は一瞬驚いた顔をしていたが、次第にまたうっとりとした表情に戻っていく。




 それからどのくらいそのままでいたのだろう。

 時間にして恐らく30秒ほどだったのだが、ゆっくりと顔を離したふたりはそのまま見つめ合った。お互いの頬は赤く染まっていて、その瞳はウルウルと揺れている。

  

 そしてまた、どちらからともなく顔を近づけて、ふたりの唇が触れ合おうとした時……



 ガタン!!



 向かって左、車庫のほうから大きな物音が聞こえた。

 慌ててふたりが音のした方を見ると、車庫に通じる扉が半分開いて、その隙間からはこちらを覗く二人の影が見える。


「あっ!!」

「きゃっ!!」


 健斗と桜子が慌てて身体を離して少し距離を置いていると、車庫の扉がゆっくりと開いて二人の男女が顔を出した。それは拓海と詩歌のカップルで、拓海の顔にはバツの悪そうな苦笑が、詩歌の顔には隠し切れないニヤニヤ笑いが浮かんでいて、何か言いたそうにこちらを見ている。



「た、たたた、拓海さん、お帰りなさい!! はは、は、配達、お、お疲れさまでした!!」


 桜子が真っ赤な顔のまま拓海に声をかけたのだが、その凄まじく狼狽えた姿は見ていて滑稽なほどだ。


「ふたりともごめん。べつに覗こうとした訳じゃなくて……」


 拓海が頭を掻きながらボソボソと弁解を始めたのだが、その姿にはいつもの快活さは見られず、なんだかとても気の毒そうな顔をしている。

 特に桜子はつい先日辛い事件に巻き込まれたばかりなので、なんとか彼女を刺激しないように気を遣っている様子が見て取れた。


「ごめんねぇ、おじゃま虫だった? いやぁ、私たちはこのまま帰るからゆっくり続きをどうぞー」


 対して詩歌は沸き上がるニヤニヤ笑いを押さえることが出来ずに、なんとも奇妙な顔でふたりを眺めている。

 詩歌としても桜子の事はとても心配しているのだが、ここは敢えて普通の反応をしてみようと思ったようだ。桜子本人が意識して以前と同じように振舞っているのに、周りの人間がいつまでも彼女を腫れ物に触るようでいてはいけないのだ。



「あっ、いえっ、これは、そのぅ…… 」


 桜子はなんと言えばいいのかわからずに、チラリと健斗の顔を見たのだが、彼は顔を真っ赤にしたまま固まっていて、今のこの状況では全く頼りになりそうにない。

 そんな健斗の様子を見た桜子が彼の背中を掌でバシンと叩くと、彼はやっと金縛りが解けたようにビクリと体を震わせていた。



「あらあら、いいのよぅ、ふたりは恋人同士なんだから、なにも遠慮はいらないのよぉ?」


「し、しーちゃん、やめなよ、ふたりをからかっちゃだめだよ」


 拓海は詩歌の腕を引っ張りながら、慌てたように後退って行く。


「そ、それじゃあ、今日の配達は無事に終わったからこれで帰るよ。今日の連絡事項はあとでメールするから見ておいて。じゃあ!!」


「お、お疲れさまでした!! 気を付けて……」


 拓海と詩歌はそのまま逃げるように帰って行ってしまった。

 最後に詩歌が意味深なウィンクをしていったのだが、ふたりとも敢えてそれには触れなかった。





「さ、桜子…… あのさ、さ、さっきの続きなんだけど……」


「……うん、あのね、もう一度してほしいの……」


「わ、わかった、それじゃあ……」


 静かな店内に再び二人きりになった事を意識した桜子は、顔を真っ赤にしたまま俯いてしまったのだが、健斗が下から覗き込むような姿勢でまた唇を近づけると、目を閉じてそれを受け入れようとしている。

 健斗が彼女の小さくて可愛らしい紅い唇に触れようとした時、リビングに続く階段の上から見つめる一対の視線に気が付いた。


 それを見てしまった健斗の身体は、まるで金縛りにあったかのように微動だにしなくなり、その顔に引きつった表情を浮かべたまま、そこから視線を外せなくなっている。


 

「あら、健斗くん、いらっしゃい。せっかくだから一緒に晩御飯食べていかない? 少しお話したい事もあるし」 

 


 俯いたままの桜子の顔も、健斗と同じように引きつっていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 王道ラブコメや(笑)
[一言] 健斗にとっても恋愛ハードモードか…w
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