第111話 示談交渉
「なぁ、本当に大丈夫なのか? もうあと何日か休んだ方が……」
「ううん、もう大丈夫だよ。一番大変だった取り調べとかは、全部鈴木さんが代わってくれたし」
「いや、そういう事じゃなくて、そのう…… 身体を触られたりとか、ええと……」
健斗は桜子の事がとても心配で、家を出てから電車の駅まで歩く間に何度も「大丈夫か」を繰り返しているのだが、元来口下手な彼にはこれ以上上手く話すことができないのはわかっているし、その態度からも彼の愛情を感じることができた桜子は、やっと少し笑顔を見せるようになっていた。
それでもまだ事件から2日しか経っていないので、彼女の身体にはその時の感触がまだ残っていて、時折ブルっと寒気を感じるような仕草をしている。
それに対して、健斗に出来る事と言えば、そばにいて声をかけてあげる事くらいしかなく、彼女にとって自分の存在意義はいったいどこにあるのかと、彼は真剣に思い悩むようになっていた。
それから数日の間、健斗は部活の朝練を休んで毎朝桜子を迎えに来ていたのだが、彼女が自分のために部活を休まないでほしいと健斗に懇願したため、次の週からは朝練に参加するようになった。
けれども毎日学校帰りには必ず小林家に寄って、桜子の顔を見て少し話をしてから帰るのが日課になりつつある。
その時間に小林家に行くとちょうど酒店の閉店間際の時間で、週に3日は配達担当の拓海もいるし、時々は詩歌もいるので、酒店の閉店後に四人で雑談をする事も多かった。それもまた桜子にとっては、心の平穏のための貴重な時間になっているのだった。
教室では美優が桜子に謝って来た。
最初に痴漢事件の話を聞いた時に、もしかして自分が桜子のスカートなど余計な事をしたからではないかと気に病んでいたのだが、一日ぶりに登校して来た桜子のスカートが元の長さに戻っていた事を確認すると、その予感は確信に変わっていた。
「ごめん、桜子。私が余計な事をしたばかりに、あなたを危ない目にあわせてしまって……」
美優の目には涙が浮かんでいて、かなり責任を感じているようだ。
「ううん、違うの。全てがそのせいって訳でもないし、スカートの長さだって結局はあたしが自分でそうしただけだし……」
「……でも、あんな余計な事言わなければよかった…… ごめん、本当にごめんね、桜子」
「あぁ、泣かないで、大丈夫だから……」
痴漢事件の数日後、学校ではある噂で持ち切りになっていた。
それは例の痴漢事件で逃げようとした犯人を、桜子が駅のホームで殴る蹴るの暴行を加えて半殺しにしたと言うもので、その際に「死ね!!」などと口汚く罵っていたとまで言われている。
どうやら、あの現場で同じ学校の生徒が事件を目撃していたようで、その噂話には多少の尾ひれが付いてはいたが、あながち間違いと言うものでもなかった。
しかし実際に痴漢の被害者となった桜子に、敢えてその噂の真偽を確かめる者もいなかったので、その噂は何となく宙に浮いた状態になっているのだが、その中でも「桜子は怒らせるとすごく怖い」という話だけはそのまま独り歩きしていったのだった。
それからさらに数日後、桜子と楓子は警察に呼び出されることになった。
その理由は「実況見分調書の作成」で、裁判所に提出する写真資料を作るために実際の現場へ出掛けて、警察官と刑事の立会いのもとに、どの場所でどうなったのかを実際に再現しながら多数の写真を撮影されたのだ。
もちろん実際に電車に乗る訳にもいかないので、警察署の会議室のようなところを電車内に見立てて再現をした。
それはせっかく事件の事を忘れようとしている桜子にとっては、態々つらい事を思い出させられる出来事で、その時に触られた身体の場所や感触なども詳細に思い出すことになってしまって、彼女は途中で泣き出してしまった。
それでもこの資料が無いと裁判で犯人を裁けないと言われると協力しない訳にもいかないので、彼女はしゃくりあげながらも気丈に最後まで頑張っていた。
その様子を見ていた立ち合いの警察官や刑事も、あまりにも彼女の事が気の毒になって、途中で何度も謝っていたのが印象的だった。
電車内での再現資料の作成が終わると、次は実際に駅のホームまで移動しての作業になった。
もちろん桜子自身はその時の記憶は途中からなくなっていたので、この時は秀人にお願いをして代わってもらったのだが、平日の昼間に実際に通りかかる乗客の目のある中での現場の再現は、非常に恥ずかしくて嫌な経験だと言える。
この場の作業は秀人が淡々とこなしていったのだが、遠藤に頭突きをしてから脇腹に蹴りを入れる部分やその際のセリフまでも全て再現させられた。さすがに最後のホーム上での出来事では刑事たちも驚いた様子だったのだが、あくまでも事実の再現という事で一切嘘偽りを挟むことなく粛々と作業は進んでいった。
最終的に全ての作業が終わるまでに優に6時間はかかり、家に帰って来た時には桜子も楓子もまたしてもクタクタに疲れてしまっていた。
彼女たちが不在の間は絹江が一人で店番をしているのだが、さすがにそう度々お願いする訳にもいかない。今後の裁判や色々な手続きにまた時間を取られることを考えると、たとえ被害者であったとしても、犯罪に巻き込まれるというのは本当に大変な事なのだと思い知らされるのだった。
その翌日、予てからの予定どおり、加害者側の弁護士と会う約束になっていた。
場所は小林家が懇意にしている同じ商店街の弁護士事務所の応接室で、小林家側の弁護士立会いのもとに示談交渉が行われる予定だ。
直接の被害者である桜子が未成年なので、親権者の楓子が代理人として現場に訪れている。
「小林さん、加害者側の弁護士ですが、恐らく結構な額の金を積んで示談の交渉をしてくるでしょうね」
今回小林家の手助けをしてくれる青山靖弁護士が、何やら考えながら楓子に話しかけてきた。しかし法律に全く詳しくない楓子は、そんな青山の言葉にもあまりピンと来ていないようで、何やら不思議そうな顔をしている。
「示談って…… 相手は痴漢という犯罪を犯したんですよね? それに示談なんてできるんですか?」
楓子の疑問はもっともだ。
相手は明らかな犯罪者で、それを裁判で裁くのに示談などする余地があるのだろうか。
「刑事事件でも、示談交渉は許されているんですよ。そうですね…… 小林さんの心情としては相手は犯罪者な訳ですから、それを裁判で厳正に裁いてほしいと思うのは当然でしょうね。しかし……」
「……」
「相手としてはこう思っているでしょうね。『罪を認めて謝るし、お金も払うから許してほしい』ってね」
「許すって…… どういうことですか? 犯罪者を許すかどうか、それを決めるが裁判なんじゃないんですか?」
「いいえ、相手としては裁判そのものを起こしてほしくないわけですよ。つまり不起訴処分ですね」
「不起訴処分……?」
「そうです、つまり小林さんに訴えるのをやめてほしいと言ってくるはずですよ、恐らく」
「はぁ…… でも相手はうちの娘にあんな酷いことをしたんですよ? それを『はい、そうですか』って、簡単に許せるわけがないじゃないですか!!」
青山の言葉に楓子の語気が荒くなる。明らかに不機嫌な顔をしている。
「まぁまぁ、落ち着いてください。あなたがそう思うのならそれでいいと思いますよ。痴漢なんて卑劣な犯罪に間違いないですから、まったく許す必要なんてないですよ。私も個人的にはそう思います」
青山も吐き捨てるように言い放つ。
彼も桜子と同年代の娘を持つ父親なので、もしも自分の娘が同じ目にあったとしたらと想像すると、楓子の気持ちが痛いようにわかるのだ。
なにか釈然としない様子の楓子を眺めながら青山が自分の娘の笑顔を思い出していると、来客の知らせが入った。
加害者側弁護士、山田雅臣が到着して、三者の間で話し合いが始まった。
山田は癖なのかわからないが、時々ハンカチで額を拭っている。見たところ特に汗はかいていないようなのだが、その様子はなにかおかしな仕草に見えた。
山田の用件は、青山が予想していた通り示談の申し入れだった。
その後詳しく加害者の話を聞いたのだが、どうやら彼は被害者の下着の中にまで手を入れているようなので、最早『迷惑防止条例違反』ではなく『強制わいせつ罪』で裁かれることは間違いないだろう。
しかしそうだとしても、被害者側が早期の示談に応じて「これ以上大事にしたくない」「加害者を許す」「刑事罰を求めない」と検察に訴えてくれるのならば、起訴を免れることができるかもしれない。
被害者との示談成立による不起訴処分、つまりは無罪ということだ。
示談が成立しない場合、もしくは検察の判断で『強制わいせつ罪』として起訴されてしまうと、加害者の有罪はほぼ間違いなく確定して、彼の人生は終わったも同然となる。
加害者にも桜子と同年代の一人娘がいるので、その子の為にもどうか考慮してもらいたいと、最後は泣き落としにかかって来たのだが、正直楓子にとっては加害者の人生がどうなろうと知った事ではなかった。
確かに高校三年生の加害者の娘の事を思うと、なんだか少し気の毒な気がしなくはないが、それとこれとは別の話で、だからと言って卑劣な痴漢を許す気にはなれないのだ。
桜子が加害者の男にされたことは、警察の取り調べの時に楓子は全て聞いていたのだが、それは思わず耳を塞ぎたくなるような酷い内容だった。
あんな陰鬱なことを最愛の娘にしておきながら、裁かれるのが嫌だからそれを許せだなんて、あまりにも身勝手すぎる。
「お断りします。示談に応じる気は全くありません。加害者は自分のしたことを悔やみながら、残りの人生を生きていってください」
楓子の吐き捨てるような言葉に、一瞬山田の眉が上がったのだが、彼女のその反応は事前に十分予想していたようで、すぐに元の表情にもどっていた。
「そう仰らずに、もう少しお考えいただけませんか? 示談金もそちらが十分ご満足いただける額をご用意させていただきますので」
「……」
山田の提案を聞いた楓子は、急に黙り込んで顔を俯かせてしまった。
その様子を見ていた青山は少し何かを考える素振りを見せると、顔の見えない楓子に問いかけた。
「小林さん、どうしますか? 示談に応じるかどうかは置いといて、とりあえず金額交渉だけでも進めていきますか?」
その言葉を聞いた瞬間、それまで俯いていた楓子の顔が勢いよく上がった。
その顔は凄まじい怒りによって真っ赤に染まっている。
「馬鹿にしないで!! 可愛い一人娘があんな目にあわされたのに、お金で解決しようですって!? 冗談じゃないわ、ふざけないでよ!!」
あまりの怒りに我を忘れた楓子は、その勢いのまま思わず立ち上がって、硬く握りしめられた両拳はブルブルと震えている。
「なにが示談よ!! そんな話が聞ける訳ないでしょ!! そのまま起訴されて有罪になればいいんだわ!! うちの娘にしたことを一生後悔して生きて行けばいいじゃない!!」
「こ、小林さん、落ち着いてください。とにかく一度座って」
青山の宥める声に従って楓子はソファに腰掛けたのだが、鼻からはまだ荒い呼吸が聞こえて来る。
山田を睨みつける目と吊り上がった眉はピクピクと痙攣していて、その真っ赤な顔は怒りの凄まじさを物語っている。
そんな彼女の様子からは、山田と青山の目には彼女がおよそ示談に応じるようには見えなかった。
「とにかく示談に応じるつもりはありませんので、今後一切連絡してこないでください!!」
いまだ興奮冷めやらぬ楓子であったが、青山に宥められて少し落ち着きを取り戻すと、山田に向かってそう言い放った。
その態度はこれ以上の交渉は全て拒否することを示している。
そんな彼女の様子を見てもなお山田は動揺することなく淡々と話し続けた。
さっきから癖のようにハンカチで額の汗を拭う様子は、自分が困っているように相手に見せつけるフェイクなのかもしれない。
「そうですか…… それは残念です。しかし、そちらとしてもこの話に乗った方が得だとは思うのですが」
「……というのは?」
青山が怪訝な顔をして訊き返す。
「いえね、加害者の男性なんですが、かなりの大怪我をしていまして。これはそちらのお嬢さんに暴行された結果なんですが、これは明らかに過剰防衛とも言えるもので、こちらとしましても傷害事件として逆にそちらを訴えることもできるんですよ?」




