第109話 プーさんの目撃と取り調べ
その日、有明高校2年4組の担任で柔道部顧問の木下一明は、仕事を早退して自宅へ帰る途中だった。
妻の出産予定日まであと10日以上あったので、木下は割合のんびりと構えていたのだが、さっき学校に妻の実家から電話があって、彼女が急に産気づいて病院に向かったと知らされたのだ。
木下は準備をするために急いで自宅へ戻ろうと電車に乗っていたのだが、その日は妙に電車内が混んでいた。
妻の出産はこれが2回目なので、木下自身はそれほど焦ったり慌てたりはしていなかったのだが、この混みあう車内の状況に若干イライラしている時に、その声は聞こえて来た。
「痴漢です!! この人痴漢です!!」
木下が声のした方を見てみると、10メートルほど離れた先で人垣が割れて円形を作っている場所があった。恐らくあそこが現場だろう。
あぁ、痴漢か…… この状況で良くやるものだ。
そもそも痴漢という行為自体が信じられない。こんな公衆の面前でよくあんな事が出来るものだ。捕まるリスクを考えたら、自分には恐ろしくてあんなことはできない。
それに、そういうプレイができる風俗だってあるのだから、そこに行けばいいのに……
木下が若干イライラしながらぼんやりと考えていると、続いて大きな男の声が聞こえて来る。
「な、なに言ってる!? お、俺は何もしていない!! 冤罪だ、俺じゃない!!」
ほう、冤罪か……
しかし、痴漢は皆そう言うらしいな。恐らくあの男は実際やってるんだろうな……
木下はもう自分には関係が無いと言わんばかりに、急に興味を失ってまた視線を戻そうとしたのだが、その時彼の目の端に被害者と思しき女の姿が入って来た。
木下は身長が180センチもあるので、混みあった電車内でもある程度見通しがきくのだ。
おいおい、あの制服、あれはうちの学校の生徒じゃないか。
しかもあの金髪…… 今年の新入生で凄い美少女だと有名な…… 確か小林桜子といったか、あいつだろ。
いや、うちの生徒が巻き込まれている以上、これを無視する訳にもいかんな。
しょうがない、俺も間に入るか。
しかしこの混雑じゃ近寄れんな……
その時軽い衝撃と共に電車が停車して、社内アナウンスが『S町駅』に到着したことを告げていた。
それでもまだ痴漢騒ぎは続いていたのだが、電車の自動ドアが開いた瞬間に事態は大きく動いた。
「く、くそっ、その手を放せ!!」
犯人の男が力任せに桜子の手を振り払ってその場から慌てて逃げ出そうとしたのだが、その瞬間彼女から顔面に頭突きを叩き込まれた犯人は、そのまま駅のホームに倒れ込んでしまった。
それから彼女は必死に起き上がろうとしている犯人の脇腹に、容赦なく革靴のつま先を蹴り込んでいる。腕は細いが太ももの筋肉はそれなりにありそうで、中々のキック力を発揮しているように見えた。
あぁ、あの蹴り方は、あいつ相当喧嘩慣れしているな…… 的確に急所を狙ってやがる。
しかし人は見かけによらないとは言うが、本当だな。あれほどの可愛い子が、容赦なくあんなえげつない蹴りを入れるとは……
おっと、これ以上は傷害事件になってしまう、止めるか……
「これ以上やったら大怪我させてしまうだろ!! 過剰防衛になってしまうぞ!!」
木下は後ろから桜子の両脇に腕を差し込むと、そのまま羽交い絞めにする。
犯人に蹴りを入れている姿には鬼気迫るものがあったが、こうやって抱えてみるとさすがに16歳の少女だ、腕力自体は全く大したことはなく、ジタバタと往生際悪く暴れてはいるが、木下の膂力では片手でも楽に組み敷ける程度だった。
数人の乗客に取り押さえられた犯人の男の様子を窺いながら、桜子と少し話をしていた木下は、しばらくすると彼女が少し落ち着いたように見えたので、ゆっくりとその腕の力を抜いて桜子を自由にした。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
声をかけられた桜子が木下の方を振り向いたのだが、その制服はとても乱れていた。
ブレザーのジャケットの胸の部分からは中のブラウスが外にはみ出ていて、ブラウスのボタンも千切れて一つ無くなっている。
恐らくひざ上10センチ程度であろうスカートも、犯人に弄り廻されたせいなのか、一部が下着に挟まって大きく上に捲りあがっていた。
その姿を見ただけでも、彼女は相当つらい目にあっていたのは間違いないだろうと思われて、木下はこの少女に思わず憐れみの視線を向けている。
そんな木下の視線を感じた桜子は、何か勘違いしたのか慌てて服装を直し始めたのだが、その姿には清純そうな女子高生が痴漢に遭ってショックを受けているような感じは微塵も感じられなかった。
こんなに清純そうな顔をした清楚な美少女なのに、自分が痴漢に遭った事に全く怯えていないどころか、犯人に平然と暴行を加える姿を見て木下はショックを受けていた。
『人は見かけによらない』という言葉は、まさに彼女を端的に表す言葉に思えた。
「痴漢だなんて災難だったな…… 大丈夫か? 可哀想に…… まぁ、これから警察も来るだろうし、しばらく俺が付き添ってやるよ」
遠藤は駆け付けた駅員たちに何処かへと連れ去られて行ったのだが、その間も彼は「俺じゃない、冤罪だ」と大きな声で喚き散らし、駅中の乗客が注目するなか桜子への罵詈雑言を張り上げていた。
そして桜子、いや秀人自身も駅員に事務所を案内されて付いて行く事になり、木下も行きがかり上一緒に行くことになった。
秀人から連絡を受けた楓子が駅の事務所に駆け付けると、すでに到着した警察が秀人に事情を聞いているところだった。
到着した楓子が咄嗟に桜子を抱きしめたのだが、そこで彼女はハッとしていた。さすがは母親と言うべきか、言葉を交わすことなく抱きしめただけで、娘が娘ではない事に即座に気付いている。
その後、警察官からの指示ですぐに警察署に移動することになり、自校の生徒を母親に引き渡した木下は、自身に大切な用事があることもあり、彼女たちとはそこで別れた。
痴漢発生から優に1時間は足止めを食らってしまった木下は、急いでまた自宅へ向かい始めたのだが、その時携帯電話の着信音が鳴った。
それは待望の第2子が無事に生まれた知らせだった。3000グラム超の元気な男の子で、母子ともに健康という事だ。
痴漢事件に巻き込まれたせいで、残念ながら妻の出産に立ち会う事はできなかったが、これで妻と一男一女家族が4人になった木下は、顔に優し気な微笑を浮かべると先ほどまでの暗い事件の事をこの時だけは忘れていた。
警察署に移動した秀人と楓子は、警察から取り調べを受けることになったのだが、内容が内容だけに年頃の少女の口から語らせるには少し酷な話なので、警察の担当者が気を遣って少しの間母と娘を二人だけにしてくれた。
しかし秀人から連絡をもらった楓子は、事件の内容にかなりのショックを受けていていて、それと同時に目の前の娘がまた別の人格「鈴木さん」に入れ代わっている事にもまた動揺していた。
それでも可愛い娘を思う心には寸分の違いは無く、彼女はそれをなんとか表現しようとして葛藤している。
「本当なら、ここであなたを抱きしめてあげないといけないと思うのだけれど……」
「あぁ、なら抱きしめてやってくれ、桜子も安心するだろう」
そう言われた楓子が、おずおずと秀人を抱きしめたのだが、抱いた感じも匂いも全て桜子本人のものだったし、そうしていると自然と母親が娘に抱く愛おしい感情が湧いて来る。
それでもいまの桜子は桜子ではない、別の人格なのだ。その複雑な事情を思い出しながら楓子はゆっくりとその身を離した。
「……あの子はいまどうしているの? どうしてあなたが表に出て来ているの?」
「桜子は痴漢に遭ったショックで気を失ってな。それで俺が表に出て来たという訳だ」
「あの子は大丈夫なの?」
「いまはまだ意識が無い状態だな。本当はもっと早くに入れ替わりたかったんだが、間に合わなかった。すまない」
「……いいえ、それでもあなたはこの子を守ってくれたのね。ありがとう……」
「いや、俺はこいつ自身でもあるからな。ただ自分を守っただけだ、礼を言われるほどの事では無いな」
「それでもお礼を言わせてほしいの、ありがとう」
「……まぁ、あんたがそれで気が済むならそうすればいいさ。ところで、悪いが桜子は暫くこのまま寝かせておいてやってほしい。この後の取り調べは俺がこいつの振りをして対応するから、あんたも協力してくれ」
「……わかったわ。あなたも言葉遣いには気を付けてね」
警察の取り調べに、被害者の生活時間は全く関係が無いようだった。
現在の時刻は21時10分、普通であればもう風呂に入って自宅でまったりとしている時間なのに、取り調べはこれから始まるのだ。
担当者が部屋に入って来ると二人は別室に移動するように指示された。そこは前面に窓ガラスがある小さな部屋で、その窓からは一人の男の姿が見える。
「向こうからはあなたは見ることができません。安心してください」
どうやらこの窓は特殊なガラスになっているようで、向こうからはこちらが見えないらしい。
秀人が物珍しそうにキョロキョロと見回していると、しばらくして窓の向こうに立っている男がその場で360度ゆっくり回り始めた。
その男は遠藤尚義だった。
もちろん秀人も桜子もその男の名前は知らないのだが、この顔、体格は忘れるはずもなくあの男に間違いない。
しかしその顔には白い大きな布があてられていて、顔全体が酷く腫れているようだし、脇腹を庇うような姿勢をしているところ見ると、どうやら体にも怪我をしているようだ。
「この人があなたの身体に触れた人ですね? 間違いありませんか?」
担当者に質問された秀人は、窓の向こうの男を見つめながら即座に答えた。
「はい、間違いありません、この人です」
犯人の特定が終わったので、これで家に帰れると秀人も楓子も思っていたのだが、これからがまた長かった。
体のどこをどのように触られたのか、抵抗はしたのか、声は出したのか、詳細に具体的な説明を求められて、もしもこれが桜子本人であったら、あまりの恥ずかしさにショックを受けていたに違いない。
そして彼女であればきっと言い辛いような事でも、秀人はハキハキと包み隠さず話していて、逆に取り調べの担当者が気を遣うような場面もあった。
約一時間、警察の詳しい取り調べに対し、秀人の返答は全く淀みが無かった。
楓子は隣でその様子を眺めていたのだが、桜子の顔をした秀人の口から淡々と語られる痴漢行為の一部始終を聞いていると、犯人に対する憎悪や憎しみの感情が己の内側に湧いてくるのを感じて、それを押し殺すのがとても大変だった。
そして、まだ16歳の少女の口からそこまでの事を言わせる警察に対しても、また同様の感情が湧いてくるのだ。
そんな恥ずかしい事まで本人の口から言わせるのか。
わざとやっているのではないのか?
それにしても、桜子の真似をする秀人の口調はかなり本人に近付いていて、彼が慎重に受け答えをしている間は、知人と普通に会話をする程度ではほとんどバレることはないだろうと思えるほどだった。
取り調べの後、今度は調書の作成が始まり、全てが終わって解放されたのは夜中の3時をまわっていた。
秀人と楓子はへとへとになりながらもなんとか自宅へとたどり着くと、そのまま風呂にも入らずに眠ってしまったのだった。




