第108話 痴漢は犯罪です。
一部に性的および暴力的な表現があります。苦手な方はご注意下さい。
5月中旬。
ゴールデンウィークも終わり、普通の生活が戻って来た。
小林酒店はゴールデンウィーク中も暦通りの営業なので、途中の3連休以外は飛び石のような休みだった。以前から公言していた通り、拓海と詩歌は3連休を利用して暖かい南の海にダイビングに行ってきたそうで、そこでふたりは随分と愛を深め合ったらしい。
桜子は健斗の部活の無い日に一日だけ彼と買い物デートに出掛けただけで、あとは店の手伝いと庭の手入れで終わってしまった。
健斗の柔道部の練習は噂通りのハードなもので、連休中もほぼ毎日練習があり遊んでいる暇はほとんど無かった。健斗は剛史という同じ階級の強豪選手が近くにいることがとても勉強になっているらしく、毎日練習でクタクタになっていてもとても充実しているようだ。
桜子は最近水泳を再開した。
再開と言っても部活に入ったりした訳ではなく、休日などの時間がある時に近所の区民プールで自由に泳いでいるだけなのだが、それでも運動不足とストレスの解消にはなっているようで、とても楽しそうにしている。
店の手伝いがあるので、この先も水泳競技を再開することはできなさそうだが、機会があったらまた始めたいと思っていた。
最近桜子は、放課後に健斗の教室に寄ってから帰っている。
教室では健斗が桜子の事を待ってくれていて、柔道場に行く途中にある人通りの少ない階段脇の広場に移動すると、そこで今日あった事や楽しかった事など、取り留めのない会話を少し楽しんでから帰るのが日課になっていた。
学校では桜子の周りには常に誰かがいるので、校内で二人きりになれるのはこの時間くらいしかなく、ふたりにとってはとても貴重な時間だった。
詩歌のアドバイスに従って、休みの日に健斗に会った時に、時々挨拶代わりのキスをするようになったのだが、どうしても意識してしまって、やはりそう気軽にできるものではなかった。
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今日の放課後も桜子は一人で電車に乗っていた。
彼女はいつも同じ時間の電車に乗っていて、乗る車両も扉の位置も毎回同じだ。
この時間の車内はそれなりに混んでいるので、T町から一駅で降りる桜子はいつも降りる時に開く方のドアの前に立つと、ぼんやりと外を眺めている事が多い。
いつの頃からなのかわからないが、時々桜子の下校時の電車に、一緒に乗り合わせる中年の男性がいることに彼女は気付いていた。しかし毎日というわけでもないし、偶々週に何度か一緒の電車に乗っているだけで、特にそれ以上の事ではないと全く気にかけていなかった。
それでも時々背後から視線を感じる事はあるのだが、それがその男性のものかはわからないし、いつも誰かに見られることが日常になっている彼女には、一々気にしていなかった。
今日もあの金髪の少女が同じ時間の電車に乗っている。
相変わらず彼女はとても愛らしく、少し前に彼氏のために短くしたスカートは今もその長さのままだ。そこから見える少しむっちりとした太ももを見ていると、思わずスカートを捲り上げてみたくなる。
それに、あのけしからんほどの大きな胸。
骨格的には華奢な方だと思うのだが、どうしてあんなに胸だけが大きいのだろうか。だからといってバランスが悪いわけではなく、むしろ奇跡に近いほどの完璧なプロポーションだ。
それにしても、あの娘はいつも同じ場所に立っている。
いつもT町から乗って来て一駅で降りて行くので、降りやすい場所を選んでいるのだろうが、あそこは横の座席の衝立に隠れていて周りからちょうど死角になる場所だ。あそこでなら、彼女に触ってもほかの乗客にはすぐにはわからないだろう。
友人達との会話を聞いていると、彼女はかなり気が小さいように見えるのだが、近くに寄って行ったらどんな顔をするだろう。あの手の臆病な娘は、こちらが手を出しても怯えて声も出せずに震えているだけのはずだ。
実際今までの娘たちはそうだった。
あの娘も恐らくそんな反応を返すはずだ。
蠢く俺の手に恐怖を感じて、身を小さくして、怯えて、声も出せずに震えるだけなのだ。
あぁ、近くに寄ってみたい…… 彼女に触ってみたい……
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その日は近隣の町で夕方から野外イベントがあるせいなのか、いつもより電車内は込み合っていた。
この時間の車内は確かに多少混んでいる事が多いのだが、今日は隣の乗客と肩が触れ合うほどの混みようで、桜子がT町駅から電車に乗り込んで来るのを待っていた遠藤の顔には、半ば諦めたような表情が浮かんでいる。
この混雑では、今日はあの娘を近くで見られないな……
今日の遠藤は、会社に適当な理由を告げて早退すると、この時間の電車に乗って来る桜子を視姦してやろうと暗い欲望を滾らせていたのだが、この予想外の車内の混みようにすっかり諦めてしまっていた。
それでも彼は、桜子が電車に乗る時にはいつも立っているドア横の衝立近くに立っていると、予定通りT町駅から彼女が乗り込んで来るのが見えた。
あぁ、やはりあの娘は別格だ。姿を見ただけで興奮してしまう……
「す、すいません、ごめんなさい、通ります……」
桜子はすぐ次の駅で反対側のドアから降りなければいけないので、周りに声をかけながら少しずつ移動すると、なんとかいつもの定位置に立つことができた。
そこは自動ドアの横の小さな隙間で、横の座席との間にある衝立のせいで周りからはちょうど死角になっている。彼女は何とか次の駅で降りられる位置を確保できたと、ホッとした顔をしている。
「ふぅ…… 今日はなんだか混んでるなぁ…… 何かあるのかなぁ……」
いつもより身体を小さく竦めながら小さな声で呟いている桜子は、外の景色をぼんやりと眺めているせいで、すぐ横から彼女の様子を窺っている中年の男には全く気付いていなかった。
その男の目は血走っていて、なにかにとても興奮しているように見えた。
おぉ…… 今日はもう無理だと思って諦めていたが、まさか彼女の方から近付いて来るとは思わなかった。しかもこの距離はもう20センチも離れていないではないか……
あぁ、この鼻をくすぐるシャンプーの爽やかな香り…… 芳しい……
……いや、ちょっと待て、この混雑で少し汗ばんでいるのか? 少し汗の匂いも混じっているな。
おぉ…… 首筋から香るほのかな汗の匂い……なんて良い匂いなんだ……
……あのガキもいつもこの匂いを嗅いでいるのか?
くそぅ、彼氏のことがめちゃくちゃ羨ましい、あのチビめ……
あぁ、もう我慢ができん…… 電車の揺れに合わせて、偶然を装って……
「痴漢です!! この人痴漢です!!」
遠藤がドア横の衝立と自分の陰に桜子を隠して彼女の身体を弄んでいると、急に大きな叫び声が聞こえて来た。
遠藤はちょうど周りから死角になっている場所に桜子を押し込めて、その大柄な体で上手に隠していたので、周りの人間はそこで行われている事に全く気付いていなかったのだが、さすがに大きな声で『痴漢』だという叫び声があがると、当然きょろきょろと周りを見回し始める。
「この人です!! あたしの身体を触りました!! 痴漢です!!」
女の渾身の大声が聞こえて来る。そして、誰かの手が遠藤の手首をがっちりと掴んで離さない。
遠藤が慌てて捕まれた自身の手首の先を辿っていくと、そこにはついさっきまで恐怖に震えていたはずの桜子の姿あった。
遠藤に向けられた彼女の顔は、最早『恐怖』ではなく『憎悪』に彩られていて、彼を見つめる青い瞳は、まるで刃物のように鋭く細められている。
この状態になって初めて、遠藤は自分のいまの状況がかなり不味い事に気がついた。
いや、こんなはずではない、この娘は恐怖で震えるばかりで何もできないはずなのに……
「な、なに言ってる!? お、俺は何もしていない!! 冤罪だ、俺じゃない!!」
慌てて遠藤が周りに向かって喚き始めたのだが、すでに女子高生に手首を掴まれた姿を周りの乗客から注目された状態になってしまっている。
乗客たちは、痴漢を訴える女子高生と冤罪を訴える中年男の姿をしばらく交互に見ていたのだが、スカートがずり上がり、ジャケットの胸の部分からブラウスをはみ出させている女子高校生の姿を見ると、どう考えても彼女の言っている事の方が正しいのは一目瞭然だ。
しかも彼女は物凄い美少女だ。どちらの味方をするかと言われれば、当然彼女の方だろう。
しばらく乗客たちと遠藤が睨み合っていると、ゴトンゴトンと軽い振動と共に電車がS町のホームに停車しようとしていた。
あと数秒でドアが開きそうだ。
それを合図に、じりじりとドアの方に移動を始めた遠藤の様子に気が付くと、乗客の中でも体格の良さそうな男数人が遠藤のほうに動き始めたのが見える。どうやら彼を取り押さえるつもりのようだ。
1人対複数が近い距離で睨み合っていたその時、駅のホームに停車した電車のドアが遂に開いた。
「く、くそっ、その手を放せ!!」
車両のドアが開いた事を確認した遠藤は、桜子の手を思いきり振り払うと踵を返して逃げようとした。その顔はとにかく必死で、一刻も早くこの場を逃げ出す事しか考えていなかったのだが、彼が思っていたようにそう上手くはいかなかった。
ゴンッ!!
遠藤が逃げようとして振り向いた瞬間、桜子が彼の顔面に思いきり頭突きをかました。顔面を襲った物凄い衝撃に思わず踏鞴を踏んだ遠藤は、そのまま駅のホームに倒れ込んでしまった。
それでも必死で起き上がって逃げようとしている。
「逃がさないわよ!! このクソがっ!!」
桜子は鼻から血を流しながら起き上がろうとしている遠藤に近付くと、さらに追い打ちをかけるように、履いているローファーのつま先で彼の脇腹を思いきり蹴り上げた。
一発、二発……
「ぐあっ!! や、やめろ、やめてくれーーー!!」
「やかましいわ!! 死ねっ!!」
桜子が遠藤の懇願を無視して止めに彼の股間を蹴り潰そうとした時、突然後ろから誰かに身体を羽交い絞めにされてしまい、彼女はそのまま身動きがとれなくなってしまった。
それはとても太い腕で、まるで万力に挟みつけられたようだ。
「放せ!! まだ終わってねぇんだよ、放せってこのやろう!!」
桜子はなんとかその腕を外そうともがいたのだが、所詮はか弱い女子高生だ、その細い腕では到底それは叶わなかった。そして真後ろから捕まえられているので、相手の顔を見ることも出来ない。
「これ以上やったら大怪我させてしまうだろ!! 過剰防衛になってしまうぞ!!」
「でもっ、こいつ俺の身体を…… 痴漢なんて許せない!!」
「わ、わかった、お前の言いたい事はよくわかる。しかしこれ以上は駄目だ!! とりあえず落ち着け。いいか、深呼吸しろ、いいな?」
桜子が羽交い絞めにされてジタバタしているうちに、ホームに倒れた遠藤は数人の男達に取り押さえられていて、遠くから駅員が走って来るのも見える。
この状況に絶望した遠藤は、逃げることを諦めたのか全身から力が抜けていてぐったりとしていた。
「よぉーし、いいか、ゆっくり放すぞ…… 暴れたらまた押さえつけるからな、いいな?」
「……あぁ、わかった…… わかりました……」
犯人が駅員に取り押さえられた以上、もう自分が暴れても仕方がないと思った桜子は、ゆっくりと深呼吸をすると体の力を抜いた。すると後ろから羽交い絞めにしていた太い腕も、ゆっくりと彼女の身体から離れていった。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
声をかけられた桜子が後ろを振り返ると、そこには熊のような大男が立っていた。
無精ひげが目立つその顔は、その厳つい体格に比べると随分と優しそうに見えて、桜子の様子を気にしながら顔色を伺っている。
「痴漢だなんて災難だったな…… 大丈夫か? 可哀想に…… まぁ、これから警察も来るだろうし、しばらく俺が付き添ってやるよ」
「……あんたは?」
「……なんだお前、有明高校の生徒だろ? 俺の事知らんのか? ……あぁ、一年生ならわからんか」
「えっ?」
「木下だよ。2年4組の担任だ。柔道部の顧問もしてるぞ」
「あっ……」
そう言われた桜子、いや秀人は、これは少し面倒な事になるかもしれないと思った。




