第107話 はめられた男と女
遠藤尚義は、大手商社の支店に勤務する58歳のサラリーマンだ。
現在の役職は人事部長、多数の部下を統括する責任者としてその辣腕を振るっており、その能力は会社からも一目置かれる存在だ。若い頃からずっと営業畑を歩いて来て、遠藤個人の営業成績がずば抜けていたどころか、所属部署全体の成績の底上げに貢献するなど多くの伝説を残してきた。
このままいけば60歳で役員に抜擢されて、いずれは専務、副社長を約束されているという噂もある、所謂『勝ち組』だ。
家庭では妻と娘一人の3人家族で、娘は現在高校3年生の受験生として勉強に忙しい日々を送っていて、彼はそんな娘を溺愛する普通の父親だった。
ある特殊な性癖を除いては。
「美優ちゃん、七海ちゃん、おはよー」
「桜子ちゃん、おはよう」
「桜子、おはよー」
今朝も電車の中に女子高生特有のワイワイと騒がしい声がこだまする。
皆それぞれに好きな話題で盛り上がり、中には突然『きゃー!!』といった甲高い笑い声を上げる者もいて車内は相当やかましいのだが、女子高生とはそういう生き物だと思っている他の乗客たちは、特に文句を言うことも無く淡々と自分の時間を通勤、通学に費やしていた。
「桜子、やっぱりスカートはその長さでいくことにしたの?」
ここ数日、桜子がスカートを短くして穿いているのを見て、美優が『ふふん』と鼻息を吐きながら問いかけたのだが、その顔には彼女にイメチェンをさせたのは自分だという自負のようなものが見えていて、少し得意そうに見える。
「う、うん…… 本当は少し恥ずかしいんだけど、健斗が喜んでくれるから……」
「はいはい、彼氏の言う事はなんでも正義だからねぇ。でも、本当は何も穿いてない方がもっと喜ぶんじゃないの? ふたりきりの時とかさ。うひひひ」
美優がニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら桜子をからかっている。
「えっ、あっ、そ、そんなエッチな格好はさすがに……」
桜子は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「んもう、冗談に決まってるでしょうが!! 本気にしないの!! あなたどんだけ初心なのよ」
「ちょっと美優、桜子ちゃんにはそういう冗談は通用しないよ。もうやめてあげて」
ここにも朝から騒がしい女子高生のグループがいるのだが、彼女たちは自分の会話に夢中になっていて、さり気なく背後に近付いて来る中年男には全く気付いていなかった。
男はその三人の会話が聞こえる位置まで来ると、素知らぬ振りをしながら吊革に掴まった。そして電車に揺られながら全神経を自身の目と耳に集中して、彼女たち、いや、桜子の太ももをチラチラ見ながら彼女たちの会話に聞き耳を立てている。
あの金髪少女の名前は『さくらこ』というらしい。
まるで日本人のような名前だし言葉に訛りも見当たらないので、もしかすると日本に永住している白人夫婦の娘なのだろうか。それともハーフか…… いや、それは違うな。
それにしても、良く通る甲高くて可愛らしい声をしている。
そしてどうやらスカートを短くしたのは、あの彼氏を喜ばせるためのようだが、彼女自身は少し恥ずかしがっているみたいだ。
あの照れた清楚な感じがとても愛らしい。
あぁ、抱きしめて匂いを嗅ぎたい……
それにしても、初めてあの娘を近くで見たが、ブレザーの上からでもはっきりとわかるほどの胸の盛り上がり。なんてけしからん乳をしているのだ。
あの可愛らしい顔にあの胸は反則だろう。
あぁ、彼氏が心底羨ましい。
あいつがあんなに可愛い娘と恋人同士だなんて、思わず嫉妬してしまう。
あんな冴えないチビのガキのくせに、あの娘の笑顔を独り占めできるなんて、羨ましい奴だ……
あぁ、もっと近くに寄ってみたい……
彼女と話をしてみたい……
あの笑顔で笑いかけられたい……
「さぁ、着いたよ、降りよう」
軽い振動と共にT町の駅に停車した電車の自動ドアが開くと、彼女たち3人はまたワイワイと賑やかに話をしながらホームへ降りて行く。
駅のホームに消えて行く金色の髪の少女を、なにかに必死に耐える苦しそうな表情で見送りながら、その男、遠藤尚義は自らが勤める会社へと向かって行った。
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5月上旬。
ゴールデンウィーク。
小林酒店は5月の連休中は暦通りの営業で、祝日の場合は配達業務も休んでいる。
アルバイトの拓海は、酒店が暦通りの営業をすることを喜んでいて、せっかく連休が取れるという事で恋人の詩歌と旅行に出かけると言っていた。
拓海の賃金体系は時給制なので、勤務時間が減るとその分収入も減るのだが、この連休中はどうしても詩歌との愛を深めたいという事で、休みを歓迎しているようだ。
そんな話を配達から帰って来た拓海が熱く語っているのだが、そんな彼の様子を楓子は生暖かい目で、桜子は羨望の眼差しで見つめている。
桜子と詩歌は4歳しか違わないのだが、桜子には拓海と詩歌の事がとても大人に見えて、彼らの関係が大人の恋愛として憧れの対象になっているようだ。
詩歌はあれから拓海の仕事終わりに合わせて時々酒店に顔を出すようになった。
拓海の仕事が終わると、ふたりで一緒に隣町にある拓海のアパートに帰って行き、そのまま朝まで泊っていくらしい。
ふたりがそこで何をしているのかはさすがの桜子でもわかっているので、拓海たちが仲良く手を繋いで帰って行く姿を見ていると、何となく赤くなってしまうのだった。
ゴールデンウィークの中日の今日は営業日なので、19時50分頃に詩歌が拓海を迎えに来ていた。
この時間になると酒店の店内には客もおらず、配達から拓海が戻って来るのを桜子と詩歌が雑談をしながら待っていた。
「ねぇ、桜子ちゃん、ちょっと訊いてもいい?」
「はい、なんですか?」
「彼氏の健斗くんなんだけど、付き合ってどのくらいなの?」
「あぁ、えぇーと、2年と2か月? そのくらいですね」
「あらぁ、結構長いんだね。じゃあ、中一の時から?」
「はい。中一のバレンタインの後くらいに二人で告白して……」
そこまで言うと、桜子は当時を思い出したのか、頬をポッと赤くしている。
「うんうん、健全な中学生のお付き合いって感じがして微笑ましいね」
詩歌の顔には、まるで年の近い可愛い妹を見るような優しい微笑が浮かんでいて、彼女が桜子を好きなのが良くわかる。
「詩歌さんは土屋さんとはどのくらいなんですか?」
「そうねぇ、去年の10月からだから大体7ヵ月というところかな。あなた達よりだいぶ短いね」
詩歌が顎に指を当てて首を傾げている様子を見つめながら、桜子は何かを考えているように見えた。
「あ、あのっ、詩歌さん、あたしも訊いていいですか?」
「えっ? うん、どうぞ」
「えーっと、そのぅ、キスってどうしたらいいですか?」
「えっ? キス? ……あなた達、もしかしてまだなの? 2年も付き合ってて?」
驚いた詩歌が、思わず桜子の顔を凝視したのだが、彼女の顔は既に真っ赤になっていて、相当恥ずかしいのを我慢しているようだ。
実は昨年の修学旅行の時にファーストキスをしたのを最後に、健斗と桜子はキスをしていなかった。カラオケ屋での『ホッペにチューハプニング』を除くと、精々肩を寄せ合って座ったりする程度だ。
桜子はもともと性欲が少ないというか、異性に対しての肉体接触をそれほど求めないタイプのようで、健斗と一緒にいる時も自分から接触を求める事はあまり無かった。
それでもそういう感情が全く無いわけではなく、ファーストキスの時は一瞬に燃え上がった感情の結果だったし、健斗の身体に触れていると安心出来て好きなのだ。
「えぇ…… キ、キスはもうしました。去年の9月に……」
「……それからは?」
「してません、一回も……」
「……それで、何を訊きたいの?」
「そのぅ、どうしたらまたできるかなぁって……」
「どうって…… 普通にすればいいじゃない、ぶちゅーって。別に女から迫ったっておかしくないでしょ。むしろ健斗君も喜ぶんじゃない? 彼って相当奥手っぽいし」
「で、でも、あたしたちはまだ高校生だし…… 最近の彼を見ていると色々と我慢できなさそうで……」
桜子の少し必死な顔を見た詩歌は、ニヤニヤとした流し目で彼女の事を見ながら、少し意地悪そうな言い方をした。
「あぁ、わかる。あなたあれでしょ? キスを切っ掛けに彼がダァーって行きそうなのが怖いんでしょ?」
「……そうなんです、彼の理性が持たなくなったらどうしようって思うんです。でもあたしもキスくらいはしたいし…… でも我慢している健斗もなんだか可哀そうだし……」
「もっと気軽に考えてごらん。キスなんて挨拶みたいなものでしょ。欧米人なんて挨拶代わりにキスしてるじゃない、路上とかでも普通に」
「うーん、確かにそうですけど……」
「普段から気軽にチュッチュしてれば、彼も一々その気になったりしないと思うけど。だって挨拶なんだから」
「あっ……そうですよね、もっと気軽に考えればいいんですよね。そうだよね」
詩歌にそう言われた桜子は、まさに目から鱗が落ちたようだった。
そうなのだ、確かにファーストキスは特別な意味を持つものなのだが、2回目からのキスは愛情表現の一つとして日常的にされてもおかしくはないのだ。
実際に欧米の映画を見ていても、まるで挨拶のようにキスをする場面なんて無数にあるのだから、もっと気軽にしてもいいのだろう。
「なるほど…… わかりました。詩歌さんの言葉でなんだか勇気が出ました。……ちなみに詩歌さんの最初はどうでしたか? 土屋さんとのファーストキスは?」
「……」
桜子の言葉に詩歌が急に黙り込んでしまったので、彼女は調子に乗って余計な事を訊いてしまったと思い、慌てて謝った。
「あっ、ご、ごめんなさい、調子に乗りました!!」
実は詩歌が黙ってしまったのは、桜子に正直に言って良いのかどうか判断に迷ったからだった。しかし、恋愛の先輩としては敢えてそれを伝えようと思った。
「ううん、いいんだよ、教えてあげる。そうねぇ、私とたっくんのファーストキスはねぇ…… 実は憶えてないんだよ」
「えっ? それはどういう意味……」
「だって、キスする前にエッチしちゃったからね!! エッチの最中にいっぱいキスしたから、どれが初めてだったのかわからなくなっちゃって…… てへへへ」
「……」
後頭部を掻きながら照れている詩歌の様子を眺めながら、そんな恥ずかしい事をさらっと言える彼女はやはり大人なのだと思った。しかし、それに対してなんと返答して良いのかわからなかった。
それでも桜子の好奇心はとどまるところを知らず、遠慮がちにしながらもさらに質問をした。
「あの…… 嫌だったら答えなくてもいいですけど…… 土屋さんとは付き合ってどのくらいで…… そのう……」
「あぁ、エッチしたかって?」
訊きたいのにも関わらず、思わず言い淀む桜子の心の内を汲み取ると、詩歌はケロッとして言い放った。
「出会ったその日だよ」
「えっ!! えぇぇーー、な、なんでそんな事に!?」
思わぬ詩歌の発言に、桜子の恋愛への価値観が思わず崩壊しそうになった。そんな彼女の顔を覗き込みながら、詩歌は尚も話を続ける。
「去年の大学のコンパで一緒の席になってね…… 私の一目惚れだったの。だからどうしても彼を離したくなかったんだ。その時に私が酔った振りをしてたら、彼が自分のアパートで介抱してくれて……」
いやいやいや、あなたも土屋さんもその時未成年だったでしょ、それはあかんでしょ。
それに、それはあなたが土屋さんを罠にはめたようなものでは……
桜子はそう思ったが、敢えてなにも突っ込まなかった。
「そしたら流れでそのまま…… まぁ、私が彼を罠にはめたようなものかもね。まぁ、もっともハメられたのは私だけどっ!! あははははは」
いや、その下ネタはどうなのかと、桜子は一瞬本気で詩歌を問い詰めそうになったのだが、また敢えてなにも言わなかった。
こうして詩歌とプライベートな話をしたのはこれが初めてだったのだが、思っていたよりも相当捌けた人柄のようで、彼女の話を聞いていると自分がキス一つで悩んでいたことが、なんだかとても馬鹿馬鹿しくなった。
「あっ、そうだ、大事な事を教えておくね」
「はい、なんですか?」
「もしもキスした勢いで彼がだぁーっと来た時に、あなたにその気がなかったとしたら……」
「なかったとしたら……?」
「手でチョイチョイってしてあげれば、それで満足するみたいよ」
「……そ、そんなことできません!!」
その後閉店時間間際に帰って来た拓海を伴って、詩歌はまた彼のアパートに帰って行ったのだが、帰り際の拓海の顔には、何かを期待するようなワクワクとした表情が浮かんでいた。
そして別れ際に詩歌が桜子に向かってウィンクをしてきたところをみると、今夜も仲良く朝まで何かをするのは間違いなかった。
そんなふたりを見送りながら、桜子の拓海に対するイメージが変わってきている事を感じていた。
翌日の放課後、桜子が帰る支度をした後に健斗の教室に寄ってみると、彼はまだ教室にいて友人と何やら話をしていた。
「ごめんなさい、ちょっと彼を借りるね」
桜子が健斗の友人に断りを入れてから、健斗の手を引いて階段脇のロビーまで連れて行くと、彼は何やら怪訝な顔をしている。桜子に何かあったのかと心配しているようだ。
しかし桜子はそんな彼の様子にはお構いなしで、満面の笑みを浮かべるとそのまま彼の両手をとった。
「それじゃあ、あたしは帰るから。健斗は部活がんばってね」
「……あ、あぁ、気をつけてな」
それまで桜子に何かあったのではないかと、健斗はとても心配そうに開いていたのだが、どうやらそうでは無いことがわかって安心した様子だった。
そして、フッと健斗が微笑んだ瞬間、桜子が健斗の唇にキスをした。
ちゅっ
それは一瞬の出来事で、映画でよく見る挨拶代わりの軽いキスだったのだが、隙を突かれた健斗にはそれに反応することができずに、ただ茫然とするしかなかった。
「それじゃあね、また明日!! バイバイ!!」
まるで照れを隠すかのように満面の笑みのまま去っていく桜子の背中を、健斗はずっと見つめ続けていた。




