第105話 不審者
柔道部に入部した健斗は、毎日が忙しくなってきた。
入部して数日は放課後の練習だけに参加して、剛史と一緒にひたすら基礎練習に明け暮れていたのだが、ある日顧問の木下の指示で朝練にも参加することになったのだ。
いまの健斗は毎朝桜子と一緒に登校しているのだが、明日からは迎えに行けなくなる。それを彼女に伝えなければいけないと思った健斗は、部活の帰りに小林酒店に寄ることにした。
健斗が閉店間際の小林酒店に近付くと、店の中では若い男女が楽しげに話をしている姿が見えた。
男の方はひょろっと背が高く、女の方もスラっとしている。そんなふたりが並んでいる姿は健斗の目から見てもお似合いで、まるで美男美女のカップルに見える。
もちろんそれは言うまでもなく、拓海と桜子だ。
健斗は以前から小林酒店で配達専門のアルバイトを雇った話は聞いていたのだが、彼はその話に桜子の負担が軽くなったという事以上に興味はなかったので、その話はなんとなくそれで終わっていたのだ。
だから、健斗が拓海を見るのは今が初めてだった。
それがいま目の前で拓海の姿を見た瞬間、健斗の心にモヤモヤとした何かが芽生えて次第に心を支配した。拓海の容姿には健斗が望んでも得られないものが幾つもあり、同じ男として生まれたにも関わらず、なにか不公平なものを感じていた。
しかし健斗はすぐに正気に戻ると、自分が無意識に彼の容姿を羨んだ事と、彼らがとてもお似合いだと思ってしまった自分に気が付いた。
自分は彼に嫉妬をしている。
健斗はそれに気が付くとなんだか無性に自分に対して腹が立ってしまい、思わずむっつりとしたまま桜子に用件だけを伝えて足早に酒店を後にしてしまった。
またしても勝手に他人に嫉妬して、その感情の矛先を桜子に向けてしまったわけだが、家に帰ってからとても後悔して、明日にでも桜子に謝ろうと思っていた。
翌日から桜子は一人で登校するようになったのだが、心配していた痴漢やナンパなどにも遭遇することはなく、無事に学校まで辿り着いていた。
それでも電車の中では多くの視線を感じたし、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら舐めるように桜子の姿を眺める中年男性もいるので、これからも気を抜くことはできないようだ。
健斗は休み時間になると早速桜子に昨夜の事を謝ろうとしたのだが、彼女の教室に行ってみると桜子は常に誰かに囲まれていたり話したりしているので、なかなか二人きりになるチャンスを見つけられなかった。そして何度も教室の前をウロウロしているうちに放課後になってしまったのだ。
健斗は桜子の彼氏なのだから、彼女が誰と話して何をしていようが無理に連れ出しても誰にも文句は言われないのだろうが、ふたりが付き合っている事実が最近明るみに出たばかりなので、あまり人に反感を買うようなことはしたくはなかった。
それでも昼間に無理をしてでも連れ出せば良かったと、桜子が帰宅してから健斗は後悔していた。
普段は男らしい性格をしている彼だが、こと桜子の事になると急にウジウジと女々しくなってしまう健斗だった。
翌日、健斗は部活が終わって帰宅する途中に、一昨日と同じくらいの時間に小林酒店の前まで来ていた。本当は拓海のバイトが無い日に来たかったのだが、あまり日が経ってしまうのも良くないだろうと思って今日寄ることにしたのだ。
今日はもうこの機会を逃すと彼女に謝ることはできないと思った彼は、またしても楽しげに雑談をしている桜子と拓海の姿を確認しながら店に近付いて行ったのだが、その時ふと近くの電信柱に人影を見つけた。
健斗が不審に思ってその人影に近付いていくと、それは女性の後ろ姿のようで、背後から近づく健斗に気付く事なく、電柱の陰に姿を隠しながら熱心に酒屋の中を覗き込んでいる。
『これはアレか? もしかして、不審者ってヤツなのか?』
周りの状況からそう考えた健斗は、桜子の家を不審者が覗いている事態を看過することなど出来るはずもなく、場合によっては取り押さえる勢いで声をかけてみた。
「あの、どうかしましたか?」
健斗が戦闘態勢を取りながら少し強めに声をかけてみると、その後ろ姿は『びくぅ!!』と急に背筋を伸ばしたかと思うと、そのままゆっくりと後ろを振り向いた。
薄暗い月明かりに照らされて、不審者の顔がぼんやりと見える。
それは若い女性だった。
突然背後から声をかけられて驚いた顔をさらに引きつらせながら、組手の体勢で両腕を大きく広げて自分の背後に立っている健斗の顔を、引きつった表情で見つめている。
年齢は20歳前後だろうか、かなり小柄な体格で恐らく身長は150センチ程度しかないだろう。体形は痩せても太ってもいない標準体形で、胸の大きさは普通、ぴっちりとしたデニムのパンツを履いた腰回りと太ももは少し太めでムチムチしている。
顔は綺麗と言うよりも可愛いといった感じで、茶色がかったショートカットの髪型が似合う快活そうな女性で、両耳に着けられた大き目のピアスと首から下げられたハート型のネックレスが月明かりに光っていた。
相手のこれだけの情報を、この一瞬で読み取った健斗の眼力はまさに褒められるべきで、特に胸の大きさと腰回りのムチムチ感を瞬時に把握した彼の慧眼は、大したものだと言っても過言ではないだろう。
健斗の目には目の前の人物が到底不審者には見えなかったのだが、それでも油断せずに戦闘態勢は崩さなかった。もしも逃げるような素振りを少しでも見せたら、速攻で取り押さえるつもりだ。
「あ、ああ、あ、あの、す、すいません!! 怪しい者ではないので……」
いや、こんな夜の闇に紛れて電柱に姿を隠しながら人の家を覗き見るのが怪しく無くて何が怪しいのかと、健斗は思わずツッコみそうになったのだが、涙目になりながら健斗の姿に怯えている女性の姿からは、やはり怪しさは感じられなかった。
「じゃあ、なんでそんな所で覗き見なんて? 理由によっては通報しますよ」
「つ、つつつ、通報!? かかか、か、勘弁してください、おお、お願いします!!」
『通報』という言葉に瞬時に反応した女性は、縋りつくような勢いで健斗に助けを求めてきたのだが、その姿はまるで桜子がテンパった時の様子にそっくりで、健斗はなんだか可笑しくなってしまった。
「……それじゃあ、理由を話してくれますか?」
彼女は土屋拓海の恋人で、江崎詩歌という名前だった。
年齢は19歳、拓海と同じ隣町の教育大学の2年生で、彼とは学部も学科も同じだ。
学校でふたりで会話をしていると、事あるごとに彼の話の中にバイト先の娘の話題が出て来るので、気になって様子を見に来たそうだ。
彼の話によると、その娘は彼が今まで見た事が無いほどの美少女だそうだ。拓海があまりにもその娘を褒めるので、ふたりの関係が心配になって様子を陰から覗いていたという訳だった。
「すいません…… 別になにか悪い事をしようとしていた訳ではないんです…… 通報しないでください……」
「……まぁ、あんたの気持ちもわかるから……」
詩歌の話を聞いた健斗は、彼女の気持ちがとてもよく理解できて、それどころかむしろ同情してしまうほどだった。確かに拓海はひょろりと背が高くて、短く刈り込んだ髪型が似合う精悍な顔つきは、男の健斗から見ても女性にとてもモテそうに見える。
そんなイケてる彼氏が自分とふたりの時に他の女性の話を頻繁にするようになれば、それを気にするなと言う方がおかしいだろう。それも相手が凄い美少女だなんて聞いた日には、それこそ闇夜に紛れた不審者さながらに覗き行為を行っても誰にも文句は言えないだろう。
まぁ、実際にやってはいけないのだが。
「……とりあえず、俺はあそこに用事があるから行かないといけないんだけど、あんたはどうするんだ?」
「……わ、私も行きます。いまさらどうにもならないし……」
「いらっしゃいませ…… あれぇ!? しーちゃん!?」
詩歌を伴って健斗が店の暖簾を潜ると、閉店準備をしていた拓海が出迎えたのだが、彼女の姿を見た途端彼は素っ頓狂な声をあげた。
「たっくん、ごめん…… どうしても気になって、来ちゃった……」
驚いた拓海の姿を見ながら、詩歌はなんだかバツの悪そうな顔をしている。その顔にはまるで悪戯が見つかった子供のような表情が浮かんでいる。
「いや、それは別にいいんだけど、その子…… 健斗くんとどうして一緒に?」
そこで拓海の叫び声を聞いた桜子が奥の事務所から走って来たのだが、店の出入り口に屯する三人の姿を見ても状況がいまいち飲み込めていないようだ。
とにかく閉店時間も過ぎたので、そのまま急いで店仕舞いをすると、楓子が入れてくれたお茶を飲みながら詩歌が拓海に事情を説明し始めたのだった。
「そ、そうか、ごめん…… 謝るのは俺の方だよ、しーちゃん」
拓海は詩歌の話を聞くと、とてもきまりが悪そうな顔をしながら、詩歌に謝り始めた。
確かに彼女の言う通り、彼氏とふたりでいる時に彼の口から恋人以外の女性の話をされれば、気になるだろうし面白くもないだろう。
しかもその女性の容姿を恋人の前で褒めるなど、凡そ彼氏としてとるべき態度では無いことは誰にだってわかることだ。
彼女の話を一緒に聞いていた桜子にジトっとした目で見られた拓海は、「いやぁ、面目ない」と言いながら後頭部を掻いていた。
「それはわかったけど、健斗はどうしてここに? なにかあったの?」
それまで詩歌の話を一緒になって聞いていた健斗だったが、いきなり自分に話題をふられて、若干慌てている。それでも急いで気を取り直すと一昨日の自分の態度を桜子に謝り始めた。
「ごめん…… 俺、きっと土屋さんの格好良さに嫉妬してたんだ。それに遠目で見たふたりがとてもお似合いに見えてしまって、そんな自分にも腹が立って…… お前にあたってしまったんだ。ごめん、俺が悪かった、許してほしい」
そう言うと、拓海と詩歌が見ている事を気にすることなく、桜子に対して頭を下げた。
桜子はそんな健斗の真摯な態度に中てられて、少し涙目になっていたのだが、その顔はとても嬉しそうに微笑んでいて、彼を見つめる瞳には慈愛の感情が溢れていた。
「いや、元はと言えば俺が原因なんだし…… しーちゃん、健斗くん、俺は桜子ちゃんに対して疚しい気持ちはこれっぽっちもないんだよ。だから安心してほしいんだけど…… 口で言うだけじゃ説得力がないかなぁ……」
健斗の謝罪と詩歌の話の内容から、今回の騒動の原因が自分にあることを悟った拓海は、まるで宣言するかのようにその場の全員の顔を見渡しながら言ったのだが、それを聞いた詩歌は拓海の胸に抱き付いてウルウルとした瞳で彼を見上げている。
「たっくん!! 私はたっくんの言う事は信じるよ!!」
「ありがとう、しーちゃん!!」
「たっくん!!」
「しーちゃん!!」
互いに瞳を潤ませながら見つめ合うふたりの様子は、もしもここに健斗と桜子がいなければそのままキスしてしまいそうな勢いで、拓海は辛うじて残っている自制心を総動員しているに違いなかった。
それでも拓海が何度も我慢できなくなりそうになっていると、それに気付いた詩歌はゆっくりと彼の身体から離れると小さな声で囁いた。
「続きはあとで…… アパートに帰ってから…… ね?」
その言葉を聞いた途端、拓海の顔に何かを期待するようなワクワクした表情が浮かんできて、彼は帰りの挨拶もそこそこに物凄いスピードで詩歌を連れて帰って行った。
その様子を呆然とした顔で見送っていた桜子と健斗は、お互いの顔を見ながらボソボソと話している。
「土屋さんて、あんな感じの人なのか……?」
「……ちょっとイメージ違うかも……」
「でもさ、なんかあのふたりって、大人の関係って感じだったな……」
「そうだね、とっても幸せそうで…… 今日もあのふたりは……」
そこまで言うと、桜子の顔はまるで茹蛸のように真っ赤になっていた。
恥ずかしそうに俯いている桜子を眺めていると、思わず彼女を抱きしめたい衝動に駆られた健斗だったが、事務室の扉の奥に光る二対の目に気が付くと、一度あげた手をゆっくりと下げたのだった。
拓海と詩歌は、このあと朝まで仲良くしたようです。




