第104話 う〇こマン
「よう、木村、ひさしぶりだな。相変わらず桜子ちゃんと、よろしくやってるのか?」
そこには昨年の全中柔道大会で伝説になった松原剛史が立っていた。
相変わらず自信に満ち溢れたような顔には太々しいほどの笑顔を湛えていて、ニヤニヤと笑いながら健斗の事を見つめている。
「お、おまえ、なんでここに……」
健斗の記憶が正しければ、彼は私立の柔道強豪校に柔道推薦で入学したはずなのに、それがどうしてこんなところにいるのだろう。しかも木下の言葉通りであれば、いまここには柔道部の見学に来ているようだ。
「何故俺がここにいるのかと思っているんだろう? そんなの簡単だ、俺もここの生徒だからだ」
健斗の頭の中の疑問が表情に現れていたのだろうか、剛史は健斗が質問するよりも早く彼に説明を始めた。
剛史は以前から私立高校に柔道推薦で入学することが決まっていたのだが、それは全県柔道大会の個人戦で優勝する事が条件になっていた。それが達成できれば全額学費免除の特待生として入学できるはずだったのだが、健斗に決勝で敗れたおかげでそれが認められなくなってしまった。
それでも学費免除のない一般推薦を高校側から打診されたのだが、松原家の経済的な理由でそれを断った。推薦をあてにしていた剛史はそれまで受験勉強など全くしていなかったので、急遽彼の学力でも合格できそうな近隣の公立高校を探すと、たまたま柔道部が強い有明高校が見つかったという訳だった。
「そうか…… それはなんだか申し訳ない事をした……」
「ふふん、やめろ、お前が謝る事じゃないだろ。全部俺の責任だ」
「し、しかし……」
「やめろと言ってる。この話はこれで終わりだ、二度と俺に謝るな、いいな?」
「……わかった」
健斗は剛史と普通に会話をしたのはこれが初めてだったのだが、こうして話してみると意外と彼は男気のあるサッパリとした男のようだった。
「それにな、もしもその私立に行っていたら、俺は多くの強豪連中の中に埋まっていたかも知れん。ここでなら思いきり目立つことも出来そうだし、きっと女の子にモテるぞ」
「そ、そうか」
「俺も、まさかお前がこの学校にいるとは思わなかったがな。それはともかく、これからは一緒の仲間だな、よろしく頼む」
「あぁ、こちらこそよろしく」
性格に若干難はあるようだが、柔道の強さは本物の剛史には学べるところも多いだろう。
先輩たちの気迫のこもった練習風景、顧問の指導力や人柄、剛史と共に練習できること、そして桜子と一緒にいられることも、すべてを考えても健斗はこの学校に入学できて本当に良かったと心から思うのだった。
今日の放課後は健斗が柔道部の見学に行くと言っていたので、桜子は美優と七海と一緒に帰るために廊下を歩いていた。
歩きながら時々周りから掛けられる声をにこやかに笑顔で躱していると、玄関近くに来た時に、ひときわ大きな声で呼び止められた。その声には怒りの感情のようなものが含まれていて、他の者がかけてくる声とは異なっている。
「あっ、あんた!! な、なんでこんなところにいるのよ!?」
突然の叫び声に驚いた桜子が声のした方を振り向くと、そこには一人の小柄な少女がこちらを指差しながら怒鳴っていた。
その少女はとても小柄で、恐らく身長は140センチ台前半だろう。全体が栗色がかった癖のある肩口までの髪が特徴的で、攻撃的な性格が表情に表れているためか、目付きがとても鋭い。
すましていれば可愛いだろうと思える顔つきは、目鼻立ちはとても整っているのだが少し幼げに見える。制服の上からでも出るところも引っ込むところもない、ぺたんこの幼児体形なのが丸わかりで、もしも私服を着ていたら小学6年生と言われても信じてしまうほどだった。
「えっ!? あっ!! あ、あなたは……」
桜子が過去の記憶を必死に辿って彼女の事を思い出そうとしていると、答えにたどり着く前に小柄な少女が捲し立てて来る。
「去年の柔道大会で剛史があんたの彼氏にやられたせいで、彼はいまでも『うんこマン』って呼ばれているのよ!! どうしてくれるのよ!!」
「う、うんこマン……」
桜子はそう呟きながら、その少女の事を思い出していた。
あぁ、そうだ、あの公衆の面前でパンツを丸出しにして倒れていた女の子だ。なぜ彼女がここに…… あぁ、あの制服は、彼女もここの新入生なのだろう。
「ちょ、ちょっと、なにがあったか知らないけど、一方的に桜子を怒鳴りつけるのはやめてくれない!? 感じ悪いわね、あなた!!」
美優が思わず怒鳴り返しているのだが、その少女、佐野琴音も負けていない。
「なによ、あんたに関係ないでしょ!! 外野は黙ってなさいよ、あたしはそこの金髪に言ってるのよ!!」
琴音に怒鳴り返された美優のこめかみがピクピクと痙攣している。
「なんですってぇ!! こんなの黙ってられる訳ないでしょ!! 私を誰だと思ってんのよ!? 荒木美優よ!!」
「ちょ、ちょっと、美優、やめなよ、意味わかんないよ、ちょっと……」
さすがに意味不明な美優の切った啖呵にツッコミを入れながら、七海が美優の肘を引っ張った。それから鼻息荒く睨み合っているふたりの間に体を滑り込ませると、ふたりを宥め始める。
七海が彼女独特のまるで母親のような優しい雰囲気でふたりを諭すと、すっかり牙を抜かれた彼女たちはハァハァと肩で息をしながら、それでも大きな声を出すのをやめていた。
そしてそこから一歩下がったところには呆気にとられた顔をした桜子が立ち竦んでいる。
両者の間に入った七海が琴音の話を上手に引き出していく。
七海の母親のような優しい言葉と包み込むような雰囲気に癒された琴音は、落ち着いて話を始めたのだが、それはどう考えても桜子が責められるような話ではなく、琴音が一方的に逆恨みしているだけにしか聞こえなかった。
実際、あの柔道の大会では桜子はただ応援をしていただけで、彼女が剛史をぶん投げた訳でもなければ、『うんこマン』と呼ばれる原因を作った訳でもない。だから琴音に責められても困るだけだし、謝る理由もないのだ。
それをフワフワとした雰囲気でやんわりと七海に指摘されると、さすがの琴音も自分の非と逆恨みを認めざるを得ず、急にしょんぼりとしてしまった。
「あ、あの…… あたしは佐野琴音…… です」
「あ、はい、小林桜子です……」
「そ、そのぅ…… 小林さん、ご、ごめんなさい、あたしの逆恨みだった。酷いことを言ってしまって謝るよ、ごめんなさい」
琴音はそう言うと、小柄な体を折り曲げてピョコっとお辞儀をした。
「あ、あぁ、いいえ、もういいよ、気にしてないから」
それから4人で電車の駅まで歩きながら琴音の話を聞いていたのだが、去年の柔道大会から後の剛史は大変だったらしい。
学校では早速翌日から『うんこマン』と呼ばれて馬鹿にされ、大会で優勝できなかったせいで私立高校の柔道推薦の話も流れてしまった。
柔道部では2年連続の優勝記録を途切れさせてしまい、元から剛史に対して良い感情を持っていなかった他の部員達にも『うんこマン』呼ばわりされる始末だ。
運悪く最後の試合に一度負けただけなのに、彼の三年間の柔道部への貢献はいつの間にか『うんこマン』の一言で片づけられてしまい、全く報われる事は無かったのだ。
急遽公立高校を普通受験することになった彼は、それまで受験勉強を全くしていなかった事もあり、勉強ではとても苦労したそうだ。この有明高校が柔道部が強いとわかって目標をここにしたのだが、当時の剛史はそれすらも危うい学力で、なんとか合格しようと必死で勉強する彼の姿には悲壮感すら漂っていたらしい。
「それで彼の事はわかったけど、あなたは何故この学校にいるの? 彼を追いかけてきたの?」
美優がニヤニヤとしたいやらしい笑みを浮かべながら琴音を追求すると、彼女は顔を真っ赤にしながら両手をブンブンと振り回した。
「ち、ちち、ち、違うわよ、べ、べつに追いかけて来たわけじゃないんだからね!! たまたま家から近かったし、ランクもあたしにちょうど良かったから…… と、とにかくたまたまなんだからね、たまたまよ!!」
慌てて苦しい言い訳をする琴音の様子を、柔らかい微笑を浮かべて聞いていた桜子だったが、途中で突然ハッとした顔をして琴音に問いかけた。彼女の顔には何か必死なものが浮かんでいる。
「あ、あのね、佐野さん、という事は松原君もこの学校にいるんだよね?」
「えっ、そうだよ、今日は柔道部の見学に行くって言ってたよ」
琴音の答えを聞いた桜子は、突然頭を抱えて呻き出した。その顔には何かに絶望したような表情が浮かんでいた。
「うひゃー、大丈夫かしら、あのふたり…… それに鈴木さんの事も見られてるし…… どうしよう……」
入学早々、桜子の悩みは尽きなかった。
桜子は高校に入学後も部活の説明会などには一切参加することなく、放課後は何処にも寄らずに真っすぐ自宅に帰る生活を送っている。
自宅へ帰るとすぐに酒屋の店番と配達の準備をしながら、17時の土屋の出勤を待つ。土屋が配達に出掛けた後も店番を続けながら商品発注と経理簿の入力をして、20時に店を閉めるのだ。
それからやっと夕食を摂って、風呂に入り、勉強をして寝る。そんな毎日だった。
そんな彼女の生活を見ていると、楓子の心にはチクチクと針で刺されるような痛みが走る。
今の生活は桜子本人が望んだ事とはいえ、年頃の女子高校生が送るにはあまりにも華のない生活で、本当なら部活動の仲間たちと友情を育んだり、放課後には友達と寄り道をして青春を謳歌したりしてほしかった。
家庭の事情とはいえ、可愛い娘の一度しかない青春の時間を取り上げてまで家業を続ける事の意味を自問自答する毎日を楓子は送っていた。
「お帰りなさい。今日も順調に終わったね」
店舗閉店時間の20時の10分前に配達から戻って来た拓海に、桜子が駆け寄って声をかけている。
拓海がアルバイトに来るようになってから既に2ヵ月が過ぎ、今ではもう拓海一人で配達業務をこなしていた。
各得意先の注文内容を把握して、先方から頼まれなくても事前に準備をして持って行く。彼の非常に細かい気配りと人当たりの良さで、すでに配達先では可愛がられていて、彼自身も今の仕事にやりがいを感じているようだ。
「ただいま。居酒屋の柳さんなんだけど、そろそろ地酒が切れそうだよ。発注よろしく。あと、鳥八長さんは次回は焼酎多めでお願い」
「はーい、了解です。今日もご苦労様でした」
3時間にも渡って重い酒類の配達をして来たのに、拓海には疲労の欠片も見当たらない。さすがの彼の若さと体力に楓子が感心している横で、桜子と拓海は楽しそうに雑談をしている。
身長180センチでひょろりとした拓海と166センチでスラっとしている桜子では並んでいるとちょうどバランスが取れたお似合いのふたりに見えるのだが、彼女には健斗という恋人がすでにいるので、そんな邪な考えを振り払うように楓子は頭を振っていた。
そろそろ閉店時間になりそうなので、拓海も手伝って暖簾を下ろしたりしていると、そこに一人の制服姿の少年が現れた。
「いらっしゃいませ」
拓海が仕事の手を止めて挨拶をすると、その少年は会釈をしながら店の中へと入って行く。
「お疲れ様、健斗。今帰り? 部活大変なんだね」
桜子が満面の笑みで健斗を出迎えたのだが、彼は桜子の顔を一瞥しただけですぐに用件を口にした。
「桜子、すまないが明日から部活の朝練に参加することになったから、朝は一緒に行けなくなった、ごめん」
桜子は健斗の様子がいつもとは微妙に違う事に気付いたのだが、そのまま話し続けた。
「わざわざ伝えに来てくれてありがとう。あたしの事は全然気にしなくていいから、健斗は部活優先で頑張ってね。」
「あぁ、ありがとう。それじゃ……」
桜子に用件だけを伝えると、健斗はその場で向きを変えて足早に歩き出した。
そして帰り際に拓海の顔をチラリと見ると、そのまま何も言わずに帰って行ってしまった。
そんな彼の様子に違和感を感じた桜子は、アーケードの角を曲がって行く彼の後姿を心配そうな顔をしながらずっと見送っていた。




