第103話 彼氏と彼女
桜子は入学直後から有名人だった。
入学式の日に下車駅から学校まで歩いているところから既に注目を集めていて、上級生を含めた生徒達の間では、新入生に青い瞳の凄まじい金髪美少女がいると当日から噂になっていた。
その噂は学校中に瞬く間に広まって、休み時間や放課後などに学校中の生徒達が彼女の教室を度々覗きに来ている。
朝の登校時間も噂を聞きつけた生徒達が桜子が通りかかるのを待ち構えていて、スマホで写真を撮らせて欲しいと頼んできたり、一緒に並んで自撮りをしたりとやりたい放題だし、運動系、文科系の区別なくわざわざ教室まで部活の勧誘に来たりして、まさに桜子争奪戦の様相を帯びていた。
それでも桜子は全ての人たちに笑顔でにこやかに対応しているので、それを見た友人たちは、大した忍耐力だと感心していたのだが、実際には小心者の彼女が相手に不快感を与えないように配慮して、愛想良くしているだけだった。
これは幼い頃から人に注目され続けてきた桜子が、自然と身に着けた処世術とも言えるもので、そうする事で自分の身を守っているのだ。
入学式から一週間が経ち、桜子と健斗は順調に高校生活をスタートさせていた。
桜子の同級生たちは、彼女のあまりに飛び抜けた美貌とスタイルを見て、初めの頃はなんとなく近づき難い雰囲気で遠巻きに見ていたのだが、ここ数日でだいぶ気軽に声をかけてくるようになった。そして一度会話をすると、彼女は自分たちが思っていたような人間ではない事に気付くのだった。
中には、自分のルックスを鼻にかける付き合い辛い人間だと、自分の第一印象のままに桜子の事をそう決めつける者もいたのだが、こうして少しづつ仲良くなっていくと、実際の彼女はそれとは真逆の人間であることに気付いていた。
桜子は最近やっと自分の容姿が人よりも優れている事を理解してきたのだが、それを人に自慢するという考えには繋がらなかった。そもそも彼女は何かを人に自慢するような性格ではないし、この容姿は生まれついたもので、自分が努力して得たものではないのだから、それを誇らしげに人に見せようという気は全くなかった。
そしてこれは昔からの彼女の美点なのだが、誰とでも分け隔てなくにこやかに会話をすることができ、さらに相手の話を盛り上げるのが上手いのだ。美しい容姿に気さくで話しやすい性格、そんな彼女を嫌いになる人間などいなかった。
そんな訳で既にクラスの人気者になりつつある桜子だが、ある日の昼休み時間に美優と一緒に弁当を食べていると、彼女がさり気なく訊いて来た。
「ねぇ、桜子、ちょっと訊きたい事があるんだけどさ」
荒木美優は最初の数日は桜子の事を「小林さん」と呼んでいたのだが、すぐに名前を呼び捨てにするようになった。桜子も特に気にしていない様子で、彼女の事は「美優ちゃん」と呼んでいる。
「なぁに? もぐもぐ……」
「あなたがいつも一緒に登校して来る木村君なんだけど…… どういう関係? 中学が一緒だとは聞いていたけど、それにしては随分仲が良さそうだし……」
桜子は美優の質問に、『どうしてそんな事を訊くのだろう』と言いたげな不思議そうな顔をしている。その頬はハムスターのように膨らんでいた。
「えっ? 健斗? あたしの彼氏だけど。もぐもぐ、ごっくん……」
なんの躊躇もなく、サラッと桜子は答えた。
「えっ? えっ? えっーーー!? そ、そうなの!?」
教室に美優の絶叫が轟く。
確かにふたりが一緒にいるところを傍から見ても只の友人と言うには仲が良すぎるし、同じ中学出身の家が近いだけの関係にはとても見えなかったのは事実だ。
しかしこれだけの美少女ぶりを発揮している桜子が、あんな低身長ガニ股短足細目顔イケてない男とそういう関係だとは思ってもみなかったのだ。
あまりの衝撃に美優が目を見開いてまじまじと桜子の顔を見つめていると、近くで二人の会話を聞くとはなしに聞いていた友人達も驚愕の表情で固まっている。
だいぶ親しくなったとは言え、まだそこまでプライベートな事を突っ込んで聞くほどでもなかったので、誰も桜子に恋人がいるかを尋ねた者はいなかった。
もちろん桜子ほどの美少女なら、彼氏の一人や二人いてもおかしくはないと皆思っていたのだが、それがまさか同じ学年に恋人がいるとは誰も思っていなかったのだ。
「じゃ、じゃあさ、彼とはどのくらいの付き合いなの? 中学からだよね?」
「えーっと、そうだね、2年ちょっとかな、中1の時からだから……」
「も、もうそんなに長いんだ……」
美優の質問に、然も当然のような顔をして答える桜子の顔を見ながら、美優は健斗の事を思い出していた。
桜子よりも背が低く、顔も全然イケてない。
目が細いせいで感情が読みにくいうえに、無口で不愛想。
短い脚でガニ股で歩く姿は決して格好が良いとは言えず、どう考えても桜子のような美少女と釣り合っているとは思えなかった。
そこまで考えていると、美優はどうしても確認したい事が出てきたので、桜の耳元で小さく囁いた。
「じゃ、じゃあさ、もうそんなに付き合ってるんなら、もうキスとかは……」
その言葉にポッと頬を染めて俯いてしまった彼女の様子が、その質問の答えだった。
人には好みがあるのだし、すでに2年以上も付き合っているという事はきっと彼には彼女を惹き付ける何かがあるのだろう。しかし、その「何か」とはなんなのだろうか。
はにかんだ桜子が染み一つ無い真っ白な頬をほんのりと赤く染めているのを見つめながら、美優は健斗の顔を思い出していた。
「なぁ、木村、噂で聞いたんだけど……」
5組の教室では、健斗が隣の席の男子に話しかけられていた。
健斗は無口で不愛想なのが災いして新しい環境ではなかなか友達ができないのだが、それでも隣の席の男子とは最近よく話すようになっていた。
健斗は友達を作る事にそれほど拘っていないし焦ってもいないので、一人でも全然平気なのだが、隣の席の男子はそうではないようで、とりあえず健斗と親交を結ぼうとしているようだ。
「どうした? なにかあったのか?」
「い、いや、あの、お前さ、3組の小林の彼氏って本当なのか? あの金髪の白人の女子だけどさ」
「……どうだっていいだろ、そんなこと」
「いや、どうでも良くないだろ。どうなんだよ、ほんとのところ」
友人の追求が面倒臭くなった健斗は、その質問を適当に誤魔化そうと思ったのだが、そこでふと考えた。
もしここで自分が桜子と付き合っている事を公言して彼女が彼氏持ちである事が広まれば、それだけ桜子の事を諦める男達が増えるのではないか。
今はまだ大丈夫だが、今後間違いなくラブレターを貰ったり、告白される事も多くなるのは間違いないので、自分が盾になって少しでもそうした機会が減るのであれば、自分は喜んで彼女の防波堤になろうではないか。
「……そうだよ、付き合ってるよ。桜子は俺の彼女だよ、いいだろ、べつに」
「ま、まじかーーーー!! 嘘だろーーーー!!」
「……うるせぇよ」
まるで自分を否定するような友人の反応になんて失礼なヤツだと思いながら、健斗はこれ以上この話題を続けるべきか迷った。この手の話の最後には、必ず自分が彼女には釣り合っていないとか、似合わないなどと言われて嫌な思いをすることが多いからだ。
しかしこの話は人から訊かれでもしない限り自分からベラベラ喋るような事でもないので、桜子にはすでに恋人がいるという事実を広めるためには、これはむしろ良い機会なのかもしれない。
他のクラスメイト達もその噂の真偽を確かめたかったようなのだが、いつも怒っているような健斗の不愛想な顔を見ていると、それを訊くことを憚られていたのだ。しかし、隣の席の彼が思い切って聞いてくれたことによってそれを確かめることができたのだが、数人の男子達はショックを受けていたようだ。
「あぁ、せっかく告白しようと思ってたのに……」
「ラブレター書こうとしてたのに……」
「それでもアタックしてみようかな、木村なんか関係ないし」
「いや、木村は怒らせない方がいいらしいぞ。知ってるか? あいつ去年の県中の柔道で優勝してるらしいぞ」
「マジか…… だからあんなにガニ股なのか」
「シッ、聞こえるだろ」
「……全部聞こえてるよ」
桜子との事はいつかはバレると思って前から覚悟はしてはいたが、こうもあからさまに陰でひそひそ言われるのはあまり気持ちの良いものではなく、健斗は早くこの話題が下火になってほしい気持ちと、もっと広まってほしい気持ちに板挟みになるのだった。
有明高校の柔道部は、練習が厳しいので有名だ。
だから公立校にしては頑張って成績を残しているのだが、その主な理由は顧問の教師の指導力とやる気という話だ。
顧問が今の教師に代わってから徐々に試合などで成績を残すようになり、その指導方法が部員達に定着した現在では、彼らのやる気も高い水準で維持されていた。
通常新入生が部活動に入部するまでには約一ヵ月の期間があり、その間に説明会に参加したり興味のあるところに体験入部をしたりするのだが、健斗は入学式から一週間後に柔道部へ入部届を出しに行った。
もとより健斗がこの学校を選んだ理由の一つが柔道部が強い事だったので、説明会が開かれる前に自分から顧問の元へ訪れたのだ。
「ほう、木村健斗ってぇのはお前か。去年の県大会個人55キロ級の優勝者が、自らこの学校を選んでくれるとは光栄だな」
柔道部顧問の木下一明は、職員室の机の前で健斗が持って来た入部届を受け取りながら、しげしげと彼の容姿を眺めていた。その顔には男らしい嫌味の無い笑顔が溢れていて、一見するととても優しそうに見えた。
木下は体育大学柔道部出身の42歳の保健体育教師で、身長180センチ体重90キロの巨漢だ。
無精ひげが目立つ熊のような風貌が特徴で、生徒達には親しみを込めて『プーさん』と呼ばれているのだが、今でも重量級の部員とガチンコ勝負ができるほどの体力と膂力を誇っている。
「あ、いえ、あれはまぐれと言うか、相手の調子が悪かっただけで……」
「ほぅ、なかなか正直なヤツだな。これで自慢なんかしたらぶん殴ってやろうと思っていたが」
さすがに高校柔道部の顧問だけあって、昨年の県中柔道上位者の成績は全て頭の中に入っているらしい。そして決勝で健斗が戦った松原剛史の事も、彼が負けた理由も把握しているようだった。
「まぁ、体調の事は言い訳にはならんがな。相手が試合場に立ち続ける以上、それを全力でぶん投げたお前の勝ちなのは間違いないからな」
「……先生、知ってたんですか?」
「そりゃあそうだろう。もしかしたらこの学校に入学して来る者だっているかも知れん。そのくらいのことは把握してるぞ」
木下がニカっと豪快な笑みを見せているのを見つめながら、この教師の下なら自分はもっと強くなれそうだと心強く思う健斗だった。
せっかくだからと、放課後に柔道部の見学に誘われた健斗が柔道場まで木下の後をついて行くと、早速そこでは先輩たちの気迫のこもった掛け声が聞こえてくる。
その練習内容は、木下が大学時代に学んできたノウハウが全て注ぎ込まれた実践的なもので、その光景はなかなかに激しいものだ。それを一目見た健斗の表情を木下がチラリと見たのだが、それを見た木下の顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。
先輩たちの激しい稽古を見る健斗の顔には怖れなどは一切なく、期待と希望に満ちた笑顔が浮かんでいたからだった。
しばらく健斗が練習を見学していると、健斗の背後にある柔道場の扉が開く音が聞こえて、木下がそちらに向かって手招きをしていた。
「おう、お前も来たのか。こっちだ、ここでこいつと一緒に見ていろ」
「はい、失礼します」
木下が話しかけた相手が背後から近づいて来る気配がする。
そして健斗の横に並ぶと、いきなり話しかけてきた。
「よう、木村、ひさしぶりだな。相変わらず桜子ちゃんと、よろしくやってるのか?」
その聞き覚えのある声に健斗が慌てて振り向くと、そこには見知った顔の男がいた。
顔には自信が満ち溢れ、最早太々しいとさえ言える表情を浮かべて健斗の事をニヤニヤと見ている。
「お、おまえがどうしてここに……」
そこには昨年の県中柔道大会決勝で戦った相手、松原剛史が立っていた。




