第100話 卒業
2月中旬。
桜子が北高校から有明高校に受験校の出願変更をしたことは、ちょっとしたニュースになっていた。
北高を受験予定だった男子達は、学校のアイドルの金髪碧眼超絶巨乳美少女と一緒の高校に行けると思って今から浮かれていたのだが、蓋を開けてみると彼女は別の高校を受験するということで、その落胆ぶりは入試の結果にも影響するのではないかと思うほどだった。
逆に歓喜の渦に沸いたのは有明高校受験組で、喜ぶのは合格発表が終わってからにした方がいいのではと、見ている方が心配になるほどの浮かれっぷりだ。
そして、それと同時に別の噂も流れ始めていた。
「桜子!! あんた健斗のために北高を蹴ったんだって!? 正気なの!?」
ある日の給食時間、桜子が口いっぱいにメンチカツを頬張っていると、廊下から立花友里が走り込んで来て、まだ食事中の桜子の事などお構いなしに一方的に捲し立ててきた。
友里の余りの剣幕に桜子が喉を詰まらせて目を白黒させていると、彼女の背中をバシバシと叩きながら友里が問い詰めようとしている。
「あんた、せっかく北高の合格も見えていたのに、なんでそれをあんな短足ガニ股のために捨てちゃうのよ、信じらんない……」
友里は周りから驚きの視線を浴びていることに気がつくと、バツの悪い顔をして少し声のトーンを下げた。
「ごほっごほっ、ごほっ…… あー、びっくりしたぁ、もう少しでメンチカツに殺されるところだったよ」
慌てて牛乳を喉に流し込んだ桜子は、咽て咳き込むと目の端に涙を浮かべている。
「健斗を追いかけるために高校のランクを4つも下げるとか、あんたどんだけあいつの事が好きなのよ。今はそれで良いかもしれないけど、将来後悔するかも知れないわよ?」
「ち、違うよ、友里ちゃん、話を聞いてよ、ねぇ」
それから少しの間桜子が理由を説明したのだが、それでも友里の疑惑の眼差しはさめなかった。
「本当に健斗と同じ学校になったのは単なる偶然なんでしょうね……」
桜子が有明高校に受験校を変更した理由は、確かに納得のいくものだ。
最近父を亡くした事が家業の酒屋の経営に影響を与えていて、祖母の年齢や体調などを考慮すると母一人に任せるわけにもいかず、放課後に桜子が酒屋の手伝いをすることはどうしても避けられないのだ。
そのために通学時間が一番短い公立高として、たまたま有明高校が選ばれたのであって、健斗の志望校と一緒になったのは単なる偶然でしかなかったのだ。
確かにその偶然が桜子の決心に影響を与えた事は否定できないが、たとえ健斗の件が無かったとしても結果は変わらなかっただろう。
「まぁ、あんたがそう言うんなら、そうなんだろうけどさ……」
頭では納得しても感情が許さないのか、友里の顔には未だに疑惑の表情が浮かんでいるのだが、桜子がそう言う以上、それを信じるしかないと思って友里は引き下がったのだった。
しかし、桜子には偉そうに言っておきながら、友里自身も無理にランクを一つ上げてまで迫田耕史郎と同じ高校を受験しようとしているのだ。
その理由を聞いても曖昧にしか答えず、迫田を追いかけて行くのかと訊かれても絶対に認めようとはしない。どうやら彼女は本気で彼に惚れてしまっているようだった
そんなわけで、3年生中に桜子が健斗を追いかける為に北高を蹴ったと言う噂が広まって、学校のアイドルの金髪碧眼超絶巨乳美少女があんな低身長短足ガニ股細目柔道部男にどうしてそこまで惚れているのかは、すでに学校の七不思議のひとつとして数えられるまでになっていたのだ。
「木村…… お前は本当にすごい奴だよ、尊敬するよ……」
二組の教室では、健斗が数人の男子に囲まれて例の噂の真偽を問い質されていた。
「あれだけの超絶巨乳美少女に高校まで追いかけられるとか、お前どれだけ持ってんだよ……」
「うるせぇよ、ほっとけ。 ……持ってるって、何をだよ」
「色々だよ、いろいろ。運だったり、金だったり、筋肉だったり……」
「そんなもん、何も持ってねーよ」
「何も無いのに、あんなに可愛い彼女がいるなんて…… なぁ、あいつとはどこまですすんだんだ?」
「……うるさいな、別にすすんでねぇし、ほっとけよ」
「ええぇ? だってお前、小林と付き合ってもう2年になるよな? キスもなしか?」
自分たちの関係がどうであろうと他人に迷惑を掛けた事などないのに、どうして他人にそこまで赤裸々に語らなければいけないのか、健斗にはさっぱりわからなかった。
もちろん彼女とファーストキスを済ませた事など、人に話すつもりは毛頭ないのだ。
「別に何年だっていいだろ…… 俺たちは清い関係なんだよ」
「清い関係か…… わざわざ高校まで追いかけてくるくらいなんだから、高校生になったら色々と解禁するんじゃないのか」
「べつに追いかけて来たわけじゃねぇし。それに解禁って、課金アイテムじゃあるまいし……」
「いや、違うな、チートアイテムだな。小林なんてどう考えてもチートだろ、誰も敵わねえって!! くっそう、羨ましいぞ、木村ぁ!! 高校生になったらいよいよ解禁かよ!! くっそう、これは色々捗るな!!」
「解禁……」
それにどれだけの意味があるのかわからないが、健斗は何故かその言葉に魅力を感じていた。
それにしても、この大事な時期にそんな事を考える余裕などあるはずもなく、なによりも2週間後に迫る入学試験に全力を注がなければいけないのだが、今の彼の頭には『解禁』という言葉以外何も入っていかなかった。
3月上旬。
高校入試の日。
桜子と健斗は同じ高校を受験するので、受験会場まで一緒に行くことになった。
北高校から4ランクも下げた桜子にしてみれば、今日の試験などは合格して当たり前のようなもので、その顔に緊張感は全く無くいつもの天使スマイルを浮かべて鼻歌まで歌っている。
それにひきかえ健斗の顔には緊張感が溢れていて、話によると昨夜もあまり眠れなかったらしい。
あれだけ桜子と同じ高校に行ける事を喜びまくったのだから、それを現実のものにするためにはこの試験には絶対に合格しなければいけないのだが、彼は2週間ほど前からある雑念を頭から追い払うことが出来ずに、勉強に集中することができなかったのだ。
試験会場はもちろん有明高校の教室で、桜子たちが到着した時には既に半分ほどの席が埋まっていた。
様々な中学校から集まった生徒たちが、それぞれ小さなグループを作ってひそひそと雑談をしているところに桜子たちが到着すると、一瞬にして教室が静かになった。
桜子が教室の入り口から辺りを見渡すと、教室内全員の視線が自分に集中していて、彼女は試験自体よりもこの視線に緊張してしまっていた。
二人は同じ中学なので教室も同室で席もすぐ近くだった。
桜子たちの中学からは男女合わせて20名程が受験に訪れていて、出願倍率が1,4倍であることを考えると、この中の5人はいなくなる計算だ。健斗がその5人の中に入りませんようにと、只管願う桜子だった。
午後になり、全ての試験が終了した。
あとはもう運を天に任せて祈るだけだ。
もちろん桜子の試験の手ごたえはバッチリで、もう120%の確率で合格することは間違いないのだが、問題は健斗のほうで、試験が終わってからも彼の顔色は冴えなかった。
そんな健斗の様子を気にしながら、桜子が同じ中学の女子と話をしながら帰る準備をしていると、隣から声をかけられた。
「あなた達ってS中学だよね? 私たちはD中学なんだけど、みんな一緒に合格できればいいね」
帰る支度を終えて、すでにコートも着込んだ女子生徒3名が桜子たちに話しかけてきた。
その顔は長かった受験勉強から解放された安堵感に包まれていて、皆一様に明るい顔をしている。その顔を見ていると、恐らく3人とも試験の手ごたえはバッチリだったのだろう。
「うん、そうだね。こうやって知り合ったのも何かの縁だし、一緒に合格できるといいね」
桜子が微笑みながら答えを返していると、隣の席の同級生が突っ込みを入れてきた。
「いやいや、小林さんなら余裕でしょ。あなたが受からないで誰が受かるの」
「あっ、小林さんって言うんだね。もしかしてハーフなの? すっごい綺麗な髪をしてるのね。白い肌も青い瞳もとっても素敵!!」
そう言った少女は両手を胸の前で組んで、まるで祈るような姿勢とキラキラとした瞳で桜子の事を見つめていて、その顔にはまるで天使を見つけたかのような尊い表情が浮かんでいる。
「えーっと、まぁ、そんな感じ…… それじゃあ、入学式でまた会いましょうね」
そう言うと桜子は、話が面倒臭くなる前に、健斗の服の袖を引っ張りながらそそくさとその場を後にした。
3月中旬。
卒業式の日。
卒業式と言えば、桜が満開の校門を卒業証書を持った生徒たちが駆けていく、というイメージがあるのだが、ここS市は北の街なので今はまだ桜のさの字もない。実際に桜が満開になるのは5月の連休あたりなので、今はまだザクザクに溶けた雪が作る大きな水たまりの中を、長靴を履いた生徒たちが歩いている状態だ。
長いようで短い中学生生活もこれで終わりかと思うと何となく寂しい思いもあるのだが、桜子にとっては楽しかった思い出と同じくらい辛い思い出も多かったので、一概に良かったとは言えないのかも知れない。
それでも彼女は前向きに一生懸命生きて来たので、それなりに中学校生活には満足していた。
「うあぁぁぁ、さくらこー、離ればなれになるのは嫌だよーー」
立花友里が桜子の胸に顔を埋めて泣いている。
彼女は桜子とは幼稚園の年少からずっと一緒だったので、今回初めて別々の学校に進むことになる。これまでは良い事も悪い事もなんでも言える悪友のような存在だったが、学校が違っても今までと同じ関係を続けて行きたいとお互いに思っていた。
「友里ちゃんとは家が近いから、別の高校に行ってもまた会えるよ」
「そういうヤツに限って、すぐに疎遠になるんだよ…… 薄情者、うあぁぁぁ」
「な、泣かないでよ、ちゃんと時々連絡するから」
「ううぅぅ…… ざびじいよぉ……」
しばらく桜子の胸に顔を埋めていた友里だったが、次第に泣き声も止んで大人しくなった。
「……ぐすっ、……あぁ、あんたの胸って気持ちいいのね…… 大きくて柔らかくていい匂いがする…… ずっとこのままでいたい…… あっ、そうだ!!」
「ゆ、友里ちゃん? どうしたの?」
「みんなー、これが桜子の胸に顔を埋める最後のチャンスだよ!! はいっ、希望者は並んで並んでー!!」
いきなり周りに向かって友里が叫び出すと、これが最後のチャンスとばかりに女子生徒たちが並び始めた。もちろんそれは桜子と親しい女友達ばかりなのだが、中には彼女に憧れていたがそれほど親しくなかった女子生徒も数人混ざっている。
それほどまでに彼女の豊満な胸は同性からも魅力的に見えていて、一度触ってみたいと思われていたようだ。
「ゆ、友里ちゃん? どうしてこんなことになってるの!?」
たとえ女子であっても、桜子のはち切れそうな胸にいちど顔を埋めてみたいと思う生徒は多かったようで、某国民的アイドルグループの握手会さながらに桜子の前には列が出来ていた。言うなればそれは『小林桜子の胸に顔を埋める夕べ』といったところだろうか。
そしてその列の中に、さりげなく富樫翔が混ざっているのがわかると、その場の女子達によって全力で排除されたのだった。
一緒に三年間の中学校生活を送った仲間たちは、最後に桜子の胸の温もりを感じながら(あくまでも女子だけだが)、名残惜しそうに学校を卒業していった。




